序章4
2024/4/28 加筆修正
東の空が段々と白く染まり、今宵の天体ショーに終わりを告げた。ウィンジーはゆっくりと立ちあがって、薄明が滲む稜線を見つめた。ミリスは心地好い脱力感が眠気と綯い交ぜになって、今にも眠ってしまいそうだった。
「寝ていく?」
「帰ります」
ミリスは眠りたがっている躰に鞭を入れて立ちあがった。
帰路が下り道だから、往路と比べて進むのが早かった。ミリスは俯いたままウィンジーの背中を追って歩いているだけで、気づくと森の中に這入っていた。やっと天空が覆われたことに安堵した。彼女は空を見たくなかったのだ。対照的にウィンジーは名残惜しげに、斑な空を見あげている。そのせいで彼女はまるで泥酔しているかのような千鳥足を踏んでいた。
「……あの」
ミリスは躊躇いがちに口を開いた。
「なに?」
眠そうな声はやや不機嫌な響きがあった。ウィンジーは後ろからでも判るほど大きな欠伸をしている。ミリスは少し逡巡したが、一呼吸で意識を整え、意志を瞳にこめてウィンジーの背中に視線を定めた。
「私を、旅につれていってもらえませんか?」
「失格」
その返答は間髪もなかった。多少の間があると思っていたから、却ってミリスが狼狽してしまった。ウィンジーはほんの一瞥もくれなかったが、躓いてしまった二の句は、なかなか言葉として拵えることができなかった。
ミリスは一度口を閉じて息を呑んだ。
「……失格ですか?」
「そこは意志を示すべきだよ」
「…………」
「ほら。もう一回」
「私はウィンジー様の旅の御相伴に預かりたいです」
「難しい言葉を使えばいいってものじゃないよ」
「では……」
ミリスは言葉をつまらせた。ウィンジーの求めるものが彼女には判らなかった。
「まあ」ウィンジーは大きく欠伸をした。「ギリギリ及第点かな」
「では……!」
「センリョクには自分から話すんだよ」
ミリスはほっと一息ついて空を見あげた。湿気を帯びた風が紅潮した頬を優しく撫でる。まだ陽が低く熱を持たない風はとても気持ちが良かった。
ウィンジーは少し目が覚めてきたようで、不思議な鼻歌を奏で始めた。ゆっくりと躰を左右に揺らしながら陽気なステップを踏んでいる。
しばらくして、ウィンジーは思いだしたように呟いた。
「魔法使い二人のパーティっていうはアンバランスだね。前衛の一人でも欲しいところだ。手っ取り早く奴隷でも買おうかな」
「ウィンジー様は奴隷に抵抗がないのですね」
「センリョクから吹きこまれたね。ドワーフは鉱山奴隷の歴史を背負っているからね」
「そうなのですか?」
「大昔だよ。文明と呼べるようなものがないくらいの昔の話さ」
「ウィンジー様はそんな前から生きているのですか?」
「親に聞かされた話だよ。奴隷は厭だった?」
「……いえ」
「でも、ミリスくらいの年頃なら友達のほうがいいかな」
「人を雇ってはダメなのですか?」
「あまり気が進まないんだよね。前衛職は魔法使いを卑怯者だと思ってるから」
「卑怯者ですか?」
「魔法使いは絶対に前線に立たないでしょ? それが気に入らないのさ」
ウィンジーは嘯いた。呼び寄せた藜杖を弄びながら、彼女は千鳥足を踏んでいる。
「ま、その前にまずは修行だね」
彼女は真後ろを歩くミリスを一目見た。
「とりあえず、その辺の魔獣でも狩ろうか」
「今からですか?」
「もしかして、杖持ってないの?」
「置いてきてしまいました」
「『杖呼びの魔法』は?」
「……使えません」
「杖呼びは基礎中の基礎だよ」
「……はい」
「あいつはなにを教えているんだか」
「覚えの悪い私が悪いのです」
「まあいいや。この中から好きなのを選んでいいよ」
そういって、ウィンジーは右手を前にだした。すると、彼女の前に五本の杖が整列した。炯々たるもの 、玲瓏なるもの 、禍々しいもの 、赫々たるもの 、神々しいもの 、それがミリスの抱いた印象だった。
「杖を選ぶのに先入観はいらないよ」
ミリスは興味本位で禍々しい杖に触れた。瞬間、全身が脱力するような感覚に陥り、反射的に手を引いた。
「それは『暗闇の杖』だよ。周囲の魔力を吸いとる能力を持っているんだけど、まだ早いみたいだね」
「これはなんとう銘なのですか?」
ミリスは神々しい杖を指差した。
「それは『聖樹の杖』だよ。エルフの里の御神木の枝で作られた杖で、御神木の加護が受けられる。滅びた里の御神木だけどね」
最後の言葉にミリスは僅かにたぢろいだが、導かれるようにそれを手に取った。ミリスが杖に受け容れられるような錯覚に陥るほど、それは柔らかく彼女を受けとめた。
「これにします」
ミリスは自身の言葉に驚いたような顔をしたが、ウィンジーはちょっと嬉しそうだった。
「試し撃ちしてみようか」
右手に杖を呼び、その先に円盤状の障壁を展開する。それには御丁寧に同心円がいくつもあり、判りやすく的を現していた。ミリスはゆっくりと杖を向け、思い切り念じた。杖先から的に向かって射線が閃き、障壁が砕けた。
「いい感じです」
「じゃあ狩りを始めるよ。獲物を探すコツは、獲物から獲物だと誤認してもらうこと」
そういって、ウィンジーは外套の釦を外した。杖を構えると、黒衣はさながらマントのようにはためいた。すると、無色だったウィンジーの魔力が仄かな黄色を帯びる。
「来るよ」
ウィンジーは声を低めた。ミリスはウィンジーの視線の先を睨んだ。鬱蒼と茂る草木が作る藪の奥に大きな影が潜んでいる。それは鼻息を荒くして今にも突進しようとしていた。
「あれは猪の魔獣だね」
影の輪郭は判然としなかったが、ウィンジーの前には藪の存在などないかのようだった。
「魔獣は基本的に力業しか使わないから正対しないことが重要だよ。もし正対するなら、間合に這入られる直前に罠を用意しておく」
ウィンジーはそのままの姿勢で目を閉じた。それを隙と見たのか、巨大な寸胴が藪から飛びだし、一足に間合を詰める。瞬間、魔獣の足元が消失した。魔獣は下半身を地面に埋め、戸惑ったようにウィンジーを見つめた。
「トドメ」
ウィンジーは魔獣の眉間に杖をあてながら呟いた。あまりにも冷淡な口調は、殺しに躊躇ない彼女の意志が現れていた。ミリスは杖を両手で持ち直し、ゆっくりと杖を構えた。手の震えが伝わって杖先が動揺している。
「早くしないと、穴から抜けだしちゃうよ」
「……はい」
ミリスは大きく息を吸いこみ、長い息をはいた。その悠長な間隙に魔獣はジタバタしながら躰を半分ほど持ちあげている。ウィンジーはそれを射るような目で睥睨していた。彼女は先の黄色の気配を完全に断ち、死の臭いを漂わせていた。魔獣には心なしか怯懦の色が見える。
「そっか。なら旅はなしだ」
「やります」
ミリスは恐る恐る杖に念をこめた。魔獣の頭部で純白の光が爆ぜ、魔獣の眼光がミリスに向かった。ミリスは身を縮こまらせ、怯えるがままに連続で閃光を発した。そのたびに樹木に石をぶつけたような鈍い音が響いた。