2章-6 闇の奥
空気が震え始めた。それは咆哮など威嚇の類いではない。凍えているのだ。ミリスはコートの襟を閉めた。
「これは、熱気を食べている……?」
この冷気は尋常ではない。熱気を食べる魔獣でもいなければ……。そうでもなければ説明できないほどほど不自然だった。
「そう思う?」
ただウィンジーはそう思っていないようだった。光はなくともミリスはウィンジーが首を傾げているのが判った。
真暗なせいで互いの呼吸がやけに近く感じられる。その中で二人は記憶を頼りに摺り足で進んでいた。光が皆無に近い中、記憶だけを頼りに複雑な坑道を進むことは不可能に近い。次第に摺り足の歩幅が小さくなり、やがて歩が止まった。
「ウィンジー様?」
それは疑問ではなく縋るような声だった。その声に応えてか、ウィンジーは短杖に小さな明かりを燈した。ありがとうございます。ミリスは蚊の声で礼を述べた。
「これは夜目が利くとかそういう話じゃないね」
「提灯係、任せていい?」
「小さめがいいですか?」
「任せる。それと、防御も任せていい?」
「判りました」
「常に三枚を意識して」
「はい」
ミリスは頷いて、ウィンジーのものよりも少し強い照明を燈した。
「いくよ」
その言葉とほとんど同時に、ウィンジーは不可視の魔弾を放った。ミリスは発射自体を感知することはできたが、何発の攻撃を内包していたのかは判らなかった。
それは波状的に着弾し、遠方で爆音を轟かせた。その中に悲鳴のようなものが混じっていた。
「これは?」
「人の声でしょうか?」
「かも知れない」
光を強くして、ウィンジーはそういって大きく息を吸った。
「今のは警告だ。投降しろ」
それはかつてないほど低く、通る声だった。その声が無数に反響したが、返事はなかった。ウィンジーが杖先に魔力を溜め直したそのとき、向こうで震えるような声がした。
「撃たないでください」
怯懦が声色に満ちている。ウィンジーは杖先を僅かに下ろした。代わりに照明を洞窟の奥に抛った。
ふらふらと揺れる白光が幼い少女を描きだした。
「子供……!」
ミリスの声は驚愕の響きを帯びていた。
少女は胸の前で指を組み、肩を震わせながら潤んだ瞳で二人を見あげている。
「う、撃たないでください」
その声にミリスは安堵の表情だった。その無垢なる少女は、どう見ても戦意は感じられない。しかし、ウィンジーは杖を下ろさなかった。それが、ミリスにとって不思議でならなかった。
少女は恐る恐るといったふうに二人の元へ歩いてくる。
「止まって両手をあげろ」
ウィンジーの声に寸分の緩みもなかった。少女は戦慄して肩をビクッと硬直させた。怯えてゆっくりと両手をあげる。
「ごめんなさい」
少女は震える手をあげた。そのまま、少女は小さな一歩を踏みだした。瞬間、その足をウィンジーは撃ち抜いた。
少女の表情は吃驚に染まり、次の苦悶に歪んだ。
「ウィンジー様!」
ミリスは咄嗟に黒い外套の裾を掴んでいた。
「なぜ撃ったのですか?」
「止まらなかったからだよ」
彼女はさも当然のようにいった。数歩先のところで、幼い少女が苦痛に喘いでいるにも関わらず、彼女には罪悪感の欠片もなかった。それどころか、転倒したまま起きあがることもできない少女に向かって杖を向ける始末だった。
「もう、やめてください」
ミリスは杖を構えた。少女は這って二人の元に進んでいる。ミリスはじっとしていられず、少女の元に駆け寄った。そのとき、ウィンジーが少女の頭部を撃ち抜いた。
首無しの死体は力なく蹲る。
ミリスは怒気の籠った眼でウィンジーを睨んだ。彼女が魔法を使おうかと逡巡していた隙に、洞窟の最奥から暗闇のように気味が悪い女の声がした。
「使えないね」
ミリスが振り返ると、奥から鋭利な双眸の女が顔をだしていた。女は下半身がなく、上半身だけを洞窟の上部からぶらさげるように二人を見下ろしていた。