2章-3 弟
ウィンジーは街道を避けて裏路地にでた。そのまま外れまでいくと空洞を前にポツンと構える家屋があった。彼女は躊躇なくその扉を開き、遠慮なく進んでいく。
居間の床から続く隠し通路に這入ると、奥から熱気が湧きあがってくる。あまりの熱量にミリスは袖で口元を覆った。
二人は熱気にあたられながら深部に進んだ。ウィンジーは鍛冶場の敷居を跨ぐと珍しくフードを払った。その部屋の中心で、小柄だが引き締まった体躯を持つ男が真赤に熱せられた塊を叩いていた。
それが中断されるのを待って、ウィンジーは声をかけた。
「久しぶり」
「おや、ウィンジー様ではありませんか」
ドワーフの老人が塊を脇に置いて、面を取った。露になったのは白髭を顔中に蓄えた矍鑠たる老人の笑顔だった。その顔は確かにセンリョクの面影があった。
「元気そうでなによりです」
「ハンレイもね」
ウィンジーは振りかえって、ミリスの背中を叩いた。
「ほら、挨拶」
「ミリスです。よろしくお願いします」
「あなたが兄の娘さんですか」
「いえ……」
ミリスは否定しようと口を開いたが、ハンレイの柔和な眼差しに用意した言葉を発することができなかった。
「兄は知らないと思いますが、兄のお子さんは皆、挨拶に訪れてくれるのです」
ハンレイはほほえんだ。その笑顔はセンリョクのものとよく似ていた。
「こんなところではなんです。御茶でも飲みながら話しましょう」
二人はハンレイに通され、居間の席に腰をかけた。
「ミリスさんはウィンジー様と旅をする道を選んだのですね。ウィンジー様の特別な魔法を身近で見られるのは良い刺激になるでしょう」
ハンレイは御茶をだした。
「粗茶ですが」
濁った薄橙色の液体から香ばしい香りが立ち昇っている。底にはいくつかの黒い粒のようなものが沈み、上澄みは不思議な波紋を描いていた。
「それで、今回はどのような用でしょうか」
「挨拶に寄っただけだよ」
「またまた。多忙なウィンジー様がそのようなことを」
「旅人は基本的に暇人だよ」
「では、そういうことに致しましょう」
「引っかかる言い回しだね。まあ、用といえば用だね」
「はい。なんなりと」
「これなんだけどさ」
そういいながら彼女は金属製の杖を呼んだ。鈍く光る不愛想な棒の先に輪がついている。それだけの簡素なものだ。よく磨かれていたが、ところどころに錆があった。
「これですね」
一見にして不具合を理解したハンレイは鑑定するような鋭い目付きで頷いた。
「判りました。一晩で治しましょう」
「よろしく頼むよ」
「それで、そのこちらからもお願いがあるのですが……」
「断れる状況ではないよね」
彼は苦笑した。
「連絡の魔筒を頂けないでしょうか」
「私の?」
「はい」
「仕方がないね」
ウィンジーは懐から手に納まるほどの筒を取りだし、ハンレイの前に置いた。彼はそれを受け取って、燈火に翳した。素晴らしい造形です。彼は小声で呟いた。
「ありがとうございます」
「いいよ。もともと対価は支払うつもりだったからね」
「それにしても意外でした。魔筒を常備しているのですね」
「古い知人がそういうのにうるさいやつですね」
「古い知人ですか」
ハンレイは苦笑した。しかし、すぐに表情を改めた。
「いえ。深くは追究致しません」
「一本で大丈夫だよね?」
「はい。十分です」
ハンレイは魔筒を棚に仕舞った。その隙にミリスは御茶を少しだけ口に含んだ。だが、それを嚥下する前に唇を固く結んだ。茶碗を元の位置に戻して険しい表情で飲みこむなり、彼女は咳きこんだ。
「大丈夫?」
ウィンジーがミリスを覗きこんだ。ミリスは掠れた声で大丈夫ですと答えた。ウィンジーも御茶を一口含んだ。
「これは、相当渋いね」
「そういう味ですので」
ハンレイが目尻に雫を浮かべるミリスを見た。もっと良いものを用意できれば良かったのですが。彼は少し申し訳なさそうだった。
「そういえば、兄も魔筒を預かっているのですか?」
「知らないと思うよ。私、そういうの嫌いだから」
「なんというか、すみません」
「いいよ。ハンレイは余計なことに使わなさそうだし」
「気をつけます」
「それに……」
「どうか致しましたか?」
「いや、なんでもないよ」
ウィンジーはミリスを一瞥した。
「じゃあ、よろしく頼むよ」
「はい。任されました」
ウィンジーは御茶を一気に呷ってから立ちあがった。扉を少し押しこんだ彼女は思いだしたように振り返った。
「あと、センリョクも一人で淋しくしてるだろうから、たまには郷に呼んであげたら喜ぶと思うよ」
「そうでしょうか。兄は私たちに追い目がありますから」
「もう気にするような年じゃないさ」
「はい。今度窺ってみます」
ハンレイはミリスにも判るほどの愛想笑いで頷いた。ミリスは残ったままの御茶を見つめたまま座っている。
「残して大丈夫ですよ」
「申し訳ありません」
ミリスは深々と礼をしてウィンジーに続いた。ミリスがそっと扉を閉めようとしたとき、ハンレイが呼びとめた。
「あ、もう一つ」
「どうしたの?」
フードを深くかぶったウィンジーが覗きこんだ。
「お願い続きで恐縮なのですが、もう一つ頼まれごとを引き受けて頂けませんか?」
「あまり面倒じゃない範囲でね。丸一日はあるわけだし」
「気をつけます。……あの山なのですが」
ハンレイも外にでて、大穴を指差した。
「鉱山でしょ?」
「はい。最近、あの山に魔獣がでるらしいのです。それで、最近……」
「それで粗茶だったわけだね」
「お察しでしたか。そうです。我々は交易を主な資金源としていますから、それが滞ると」
「それはいつから?」
「一年ほど前から少しずつ魔獣の生息範囲が拡大しているようで」
「比較的、新しい魔獣か。まあ、一日もあれば大丈夫かな」
「引き受けて頂けますか?」
「暇つぶしにはちょうど良さそうだ」
ウィンジーは暗闇を睨んだ。
闇はあるだけで人を恐怖させる。それを湛えた郷は、全体を暗鬱たる面持ちにさせていた。その中に彼女はほんの僅か、禍々しさを含有しているのに気がついた。
「これを見せれば問題なく通れると思いますので」
ハンレイは、そういって木製の印章を差しだした。