序章2
2024/4/28 加筆修正
翌朝、陽が顔をだして間もなくミリスは仙人小屋をでた。その時間に起きるのは彼女の習慣だった。扉を開けると、ウィンジーは例の真黒な外套を目深に被って待っていた。ミリスが歩き始めるのを見ると、一言もなく歩き始めた。
太陽へと続く道のようになっている山路は朝靄のせいで空気が茜色に染まり、幻想的な光景になっていた。ミリスはちょっと立ち止まってみたが、ウィンジーは一向に気にせず進んでいく。少し開いた間を、彼女は駆足でつめた。
ウィンジーはしばらく使われていないような獣道に躊躇なく這入っていく。山暮らしのミリスでさえ臆してしまうような鬱蒼とした細道を、文字通り颯爽と進んでいった。一瞬でも立ちどまってしまえば、二度と追いつくことはないだろう。彼女が振りかえって誰かを待っている姿はとても想像ができなかった。既にミリスの知らない場所へと踏み入っており、離れたら小屋に帰られる保証もない。その気持ちがミリスの背中を押していた。
しばらくあって樹々が疎らになり始めると、ミリスの足取りのゆとりが生まれ始めた。彼女は小さく、しかし確かに息を吸って、勇気を固めた。それから遠慮がちに口を開いた。
「ウィンジー様。先ほどの話なのですが」
「さっき?」
「あの。……お弟子さんの話です」
「あー。見損なった?」
「いえ。賢い魔法使いは危険には近寄らないものだと教わりました」
「弟子を戦地に送ってでも?」
「…………」
「そう。黙っちゃうよね」
「……お優しいのですね」
「今の話聞いてた?」
「ウィンジー様はその方をよく想っているのが伝わってきましたから」
「私は不弔のウィンジーだよ」
「なんですか? それは」
「……私の通り名」
心なしか、ウィンジー様は肩を落としている。葉音が無言を紛らわしているが、物淋しさ残ったままだった。私が俯いているとウィンジー様が居心地悪そうに綺麗に纏まった髪を撫でた。
「あれさ、気にしなくていいから」
「あれ、とはなんですか?」
「弟子の話だよ。どうせ老いぼれの言葉さ」
「仙人様はもう長くないのでしょうか」
「さあね。でも私についてきたら、あれの最後は間違いなく看取れないね」
「……そうですか」
「あまり悲しそうじゃないね。人間には故人を祀る習性があるはずなんだけど」
「実感が湧かないのです」
「死を見るのは初めてじゃないよね?」
「初めてではありません」
「元が孤児なら当然か。この時代の孤児なんて大抵が戦争か魔族だからね」
「私は魔属でした」
「怨んでる?」
「よく判りません」
「うんうん」ウィンジーは何度も頷いた。「怨みに支配されるのは良くないからね」
「でも、戦える術は欲しいと思っています」
「敵討ち?」
「それも、あるのかも知れません」
「……そっか」
二人は顔を合わせることなく、坦々と歩を進めた。
また足場が変わった。高野草は葉の下に湿気を蓄え、踏むたびに苔のような躰から水を滲ませた。
沈黙が一回りして、次はウィンジーから口を開いた。
「あいつ、最後は君の意志に任せるつもりだよ。私が断らないのを知ってるから」
「ウィンジー様の意志はどうなるのですか?」
「子供が気を使う必要なんてないよ。それに、五百年来の友の最後の頼みを無下にするほど野暮じゃないさ」
「ウィンジー様はやはり優しいです」
「私にとって、君が大人になるまでの数十年が大した時間じゃないだけだよ。呆けて暮らすよりはマシってだけさ」
ウィンジーが足を降ろすと、ピチャリと音を立てて水が跳ねた。それがもう片方の足にかかっているが、彼女が気にする様子はなかった。
「……少し考えさせてください」
「すぐに答えは求めないよ。あと一応いっておくけど、危篤の伝達とかもないから」
「鳩は飛ばないのですか?」
「あったとしても絶対に間に合わない。旅にでるというのは、そういうことだよ」
ミリスは答えなかった。ただ無だった表情が微かに曇った。先行したウィンジーは振りかえらず、けれども少し歩を緩めた。
「やはりお優しいのですね」
「なんの話?」
「…………」
「私だってすぐに発つわけじゃない。ゆっくり考えるといいよ。これから世界一の絶景を見るんだ。余計なことは考えないほうがいい」
それきりウィンジーは口を開かなかった。ただ黙して山を登った。頑なに無言を貫くウィンジーにミリスから声のかけようもなかった。
いつの間にか道が岩場に変わり、殺風景という名に相応しい高所に到達していた。そこまでくれば山頂はもう目と鼻の先だった。ミリスが息巻いて踏みだすと、ウィンジーが不意に足を留めた。
「待って。まだ夜には早いよ」
「そうですけど」
ミリスが頂上を見あげた。まだ山巓は遠く、このまま歩き続けても登頂するころには日が暮れていそうなほどだった。
「休憩ですか?」
「お昼寝、かな?」
「お昼寝ですか……?」
「もしかして山頂まで登る気だった?」
「登らないのですか?」
「登らないよ。目的地はここからすぐ歩いたところだから」
「そうなんですか」
「登りたかったら登ってきてもいいよ。君のペースなら日が暮れるくらいに戻ってこられるんじゃない?」
ウィンジーは唯一の樹木の傍から離れなかった。たっぷりと木葉を蓄えた孤高の古樹も彼女にかかれば平凡な日傘にすぎないようだった。ミリスが頂きに一瞥をくれると、ウィンジーは既に木の根元に腰を下ろしている。ミリスが落胆の目をするのも意に介さず、ウィンジーは外套のフードを目深に被って背中を樹幹に預けた。ミリスが呆然としているうちに孤独な葉音に寝息が混じった。
ミリスはその隣に腰を下ろした。根は固く、樹皮が尖っていて、とても眠れるような環境ではなかった。彼女は仕方なく幹から少し離れたところで横になった。




