1章-6 人の道
2023/11/19 加筆修正
2024/5/5 加筆修正
気の向くままに進むことを信条しているウィンジーが珍しく迷っていた。いつもは朝食を終えるとすぐに発っているのに、今日は焚火を前にしばらく座ったままだ。
ミリスは焚火に両手を翳して、悴んだ指先を温めていた。コートは畳んで彼女の隣で眠っている。着こむほどではないが、朝晩の冷えこみは手先を凍えさせるのには十分だった。
ミリスは所在なげにウィンジーのほうを見た。彼女は懊悩を顔にだしていなかったが、首を右へ左へと傾けている姿は表情以上に悩みを表していた。
消し炭になって崩れた薪を眺めていると段々を目が乾いてくる。ミリスは今にも泣きそうな空を見あげた。冷気が乾燥した目に沁みる。何度か目弾きをして、もう一度ウィンジーを見た。その童顔にはやはり感情はなかったが、どこかに焦点が向いているようだった。
しばらく空とウィンジーを交互に見ていたが、やがてミリスは痺れを切らした。
「まだ発たないのですか?」
「一度戻ったほうがいいのかなって」
「盗賊の情報も仕入れたいし。そうしたらミリスをマスターに預けられる」
ミリスの背に悪寒が走った。彼女は身震いして、同時に激しく首を振った。ウィンジーは酒場のマスターと打ちとけた気になっていたが、ミリスは違った。
「私もいきます」
と、その言葉は前のめりだった。
「そう?」
不思議そうにウィンジーは首を傾げた。彼女は少し考えた素振りを見せたが、すぐに普段の無表情に戻って、山に向き直った。
「じゃあ、このまま進もうか」
ウィンジーは焚火を消し飛ばして歩き始めた。その後ろで、ミリスが落ちつかない様子で視線を泳がせていた。
「あ、あの!」
それは口元で躓いたような声だった。ミリスは一つ咳払いをして、それから口を開いた。
「もしかして、迷っていたことってそれだけですか?」
「そうだけど」
「…………」
ミリスは胸に溜まった余熱を、長い溜息と一緒にはきだした。それを横目で見たウィンジーは頭上に小さな疑問符を浮かべている。その疑問符は彼女が首を左右に傾けるたびに増えていく。
「私は戻らないですからね」
やや経って、ミリスは足元の熱気に気がついた。よく見ると、真夏の煉瓦道のような揺らめきが地上を覆っている。
「この先は火山帯なんだよ」
「でも……」
見あげると上空に白い粒が浮かんでいる。しかし、どれも地上には降りてこない。
「不思議だよね。さっきまで冬だったのに、ここはもう真昼の砂漠みたいだ」
「はい」
ミリスは額を拭った。その袖が湿っている。
「暑い?」
「少し、」
「そっか」
ウィンジーは懐中から短杖を取りだし、軽く宙を叩いた。すると、二人は淡い光に包まれた。暑気が遠ざかり、残った汗はやや寒気を感じさせる。
「ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。これより先は本来なら人が侵入するような領域じゃないんだ」
「大丈夫なのですか?」
「準備していればね」
「…………」
ウィンジーは愉快そうに鼻を鳴らした。その隣で、ミリスは不安そうに暗雲を抱く山岳を見あげた。
山域に立ち入ると、足場が土から石に変わった。ジャリッジャリッ、と砂利道を踏んで進む。いつも空ばかり見ているウィンジーが珍しく足元を見て歩いていた。
けれどもミリスはそれが気になって仕方がなかった。今日のウィンジーは朝からおかしい。ミリスはもう疑問を抑えきれなかった。
「どうかしたのですか?」
「ん? 別に」
「歩きにくいですよね」
「そう? そんなことないと思うけど」
「え?」
「ここ。石の山路にしては歩きすぎやしないかな」
「そうですか?」
ミリスは首を捻った。
石畳など整備された道どころか、村と村とを繋いでいるような踏み固められただけの土の道よりもずっと歩きにくい。だが、この感覚に、ミリスは少し覚えがあった。森とは異なるが、これは獣が何度も何度も藪を掻き分けて作ったあの道と似ている。道、その言葉に、ミリスはやっと思い至った。ここは道になっていた。ウィンジーいわく、本来なら人が侵入するような領域ではない、のに。
これは――。
「獣道になっています」
「そうだ。でもちょっと違う」
「間違っていますか?」
「これは、人の道だよ」
「それにしては……」
これは少々杜撰過ぎる。
「そう。一見して、これが道だとは判らないよね」
「はい」
ミリスは頷いた。獣道は藪を掻き分けて存在しているから歩かずとも存在が判る。だが、岩山に関しては藪などの障害物がそもそも存在しないから、傍目に道を認められないのだ。
「でも、そこが重要なんだ」
「ここを人が通れることを隠したいということですか?」
「たぶん、そんなところだと思うよ」
ウィンジーが不気味な微笑を浮かべた。
「この先で、なにか面白いものが見られそうだ」