失意
――暮れも押し迫った12月の冬空の下、元宿駅前のロータリーでは『死刑制度反対!』という横断幕を掲げたワゴン車が止まっていた。
数人の男女が何やらチラシのような物を手に持ち「ご協力をお願いします――!」と笑顔を振りまきながら、駅へと足早に向かう人々の前に立ちふさがり、強引に手渡している。
その様子を見下ろすようにワゴン車の上に立つ二人の男――『死刑を許すな!』という襷を掛けた不破慎二と仲村聡が、マイクを握って通行人に死刑制度を反対するように訴えかけていたのであった。
大越誠の再審請求は、過去に類を見ない異例の速さで認められたが、検察の抗告によりあっけなく取り消され、不破と仲村は最高裁判所へ特別抗告をした。 再審理請求が光の速さで処理された事を見ると、恐らく特別抗告もそれほど時間がかからずに是非がはっきりするだろうと思われた。
不破と仲村は、最後の抵抗として全国的に死刑反対の気運を高めようと『いかに死刑が悪逆非道な刑罰か』を国民へ訴え続けていた。 だが、そもそも『罪を憎んで人を憎まず』と言った者は神か仏の類しかおらず、殆どの人は、罪を犯した者を憎み、因果応報を望んでいた。 したがって、不破と仲村の訴えなど国民の心に響かず、不破や仲村を『凶悪犯を擁護する悪徳弁護士』というレッテル貼っていたので、彼らの旗色はもはや色を成していないほどに悪かった。
仲村がワゴン車の上で死刑反対を必死に訴えていると、数えるほどの聴衆の中で、見た事のある人物が、仲村の顔をしげしげと見つめていた。
丸々と出た太鼓腹に、きっちりと整った角刈りの白髪が凛々しい初老の男性――元刑事の『星野仁一』その人である。
ここ最近、星野は不破と仲村が集会を開く度、必ず、聴衆として参加していた。 そして、不破には目もくれず、仲村の顔をただジッと見つめており、集会が終わると知らぬ間に居なくなっているといった様子であった。
――このように、いくら集会を開いて声を枯らして死刑反対を訴えたところで、聴衆は人権派団体のメンバーと、星野のような奇妙な人物だけであり、一般市民は誰も耳を貸さなかったのである。
そんな状況であるからして、最高裁への特別抗告は恐らく棄却されるだろうという見通しがマスコミや世論の大半を占めていた。
――
「――皆さん! 諦めずに最後まで戦おう!」
集会が終わり、寒空の中、ワンカップの酒を片手に気勢を上げる不破。
元宿中央公園に集結した人権派団体は、ホームレスの為に炊き出しを行いながら、反省会を開いていた。
仲村は大きな鍋に入ったスープをお椀に注ぎ、列をなして並ぶホームレスに渡していた。
一人、また一人と列に並ぶホームレスにスープを渡す中、一人のホームレスが仲村に前に立った時に、仲村へ声を掛けた。
「――アンタ、サトちゃんじゃないよな?」
スープの入ったお椀を手渡そうとした仲村の手が思わず止まった……。
仲村は、ホームレスの顔を見た。
真っ黒に煤けた顔をした禿げ頭の老人は、そう言って仲村が差し出そうとしたお椀を奪い取るように受け取った。
「――いえ、私は……」
仲村が否定しようとすると、老人はスプーンを手に持ち、スープをうまそうに食べだした。
「――まあ、オラはアンタがサトちゃんであろうが、なかろうがどっちでも良いんだ」
「だが、この間、若いアンちゃんと熊みたいなオッサンが『ジュンちゃん』のところに来てのう……。 アンタの事をジュンちゃんに色々と聞いて行きおったわい――」
そう言いながら、お椀に入ったスープをあっという間に平らげ、さらにお代わりを要求するように空のお椀を仲村に差し出す老人。
「アンタがサトちゃんを名乗って何をしたいのか分からんが、アンタも結構良い奴だからのぅ……。 オラはアンタの事を気に入っているから、アンタに一つ忠告をしたかったという訳じゃ――」
「人間、他人に過去を探られるとイヤなものだからのぅ」
老人がそう言うと、列の後ろから「おい、早くしろ!」と怒鳴り声が聞こえた……。
「おっ、スマン、スマン――」
老人はそう言いながら、怒鳴り声のした列の後ろを振り返り謝罪した。 仲村は、老人から差し出された空のお椀にスープを注いで、老人に返してあげた。
「おぅ! やっぱりアンタは良い奴じゃ!」
老人はそう言うと、仲村に歯の抜けた笑顔を振りまいて、足早に列から離れて行った……。
――
――元宿中央公園から自宅への帰り道、仲村は顎に手を当て、考え込むように俯きながら自宅へと歩いていた。
最高裁への抗告は、世論の耳目を集めている事件であるからか、年内にはその是非が判断されるであろう。
仲村は焦っていた――。
「このまま行けば、抗告は棄却、大越誠の死刑は確実のものとなる……」
「いっその事――」
仲村はそんな事を呟きながら、トボトボと自宅へと歩を進めていた。
そんな仲村の姿を、空の上で見下ろす市松と徹――。 知っての通り、二人の任務は仲村の『自殺』を阻止する事であった。
「――なるほど、あの救えねぇガキが死刑になれば、コイツの希望通りにはならず、コイツは責任を取って自殺するかも知れねぇって事か……」
徹は仲村の歩く姿を見下ろしながら、分かったように手を叩いた。
徹は、大越の死刑が確定すれば、大越の無罪にしようとした仲村がその失敗の責任を取って自殺するものだと思っていたのだ。
「……残念ながら違うのぅ。 問題はもっと根深いのじゃ」
市松はそう言って、徹の憶測を否定した。
すると、仲村の前から見た事のある男が近づいて来るのが見えた――。
「あっ、あのオッサンは――!」
徹が驚いて立ち上がり、仲村に近づいて来た男に目を遣った。
仲村は俯いていたので男の接近に気が付かなかった。 男が目と鼻の先に近づいて来た時にくたびれた黒い革靴が目に入り、ようやく人が近づいて来たことに気が付いて、顔を上げたのだった。
「どうも、先生。 お久しぶりです――」
仲村に近づいて来たのは、星野仁一であった。
星野はニコニコしながら仲村の行く手を阻み、お辞儀をした。
「……どちら様でしょうか?」
行く手を阻まれた仲村は、星野の挨拶に表情を変えずに言った。
すると、星野は「ガハハ――」と笑い、自身の丸々と突き出た腹を摩りながら言葉を続けた。
「――いや、先生の姿を先ほど元宿駅前で拝見しましたもので」
星野の言葉に仲村は眉一つ動かさずに「ああ、我々の集会に来ていらっしゃった方ですか――」と言って、丁寧にお辞儀をした。
「いつも、反対集会をご清聴いただいて感謝しております――では、そういう事で」
仲村はそう言って、目の前に立ちはだかる星野を避けて前へと進み出した。
すると、星野は背中から遠ざかる仲村に振り返りもせずに、言葉を送る――。
「大越誠の死刑は、確定ですな――」
星野の言葉に仲村は思わず立ち止まり、星野の方へと振り向いた。
星野は、こちらを振り向きもせず、仲村に背を向けたまま仁王立ちをしていた……。
「……」
仲村が黙ったまま星野を見つめる。 すると、星野はさらに言葉を続けた。
「……良かったじゃないですか。 これで、被害者遺族の無念は晴らされる――」
星野はそう言うと、仲村の方へと振り向いた。
「貴方の無念も……ね」
仲村は星野を凝視した――。 ほんの一瞬であったが、二人の間を時が止まったかのような静けさが包んだ。
「……仰っている意味が良くわかりませんね。 私は彼を死刑にさせないように主張している身――無念など在りません」
仲村はそう言うと、再び前を向いて自宅マンションへ歩いて行った……。
――それからというもの、星野は度々仲村の前へ姿を現すようになった。
仲村の自宅マンション前で待機しては、帰宅する仲村に向かって挨拶するだけの星野――。 仲村はそんなストーカーのような不気味な行動を取る星野に対し、特に警察を呼ぶわけでもなく、黙って会釈してマンションへと入って行く日々であった。
2人の様子を空から見下ろす金髪の男と和服の少女――。
「……あのオッサンは一体何しに来てんだ?」
星野の様子を見下ろしながら、徹が市松に聞いた。 市松は徹の隣で正座をして、茶を啜っている。
「――ズズッ。 ワシにも分からん――。 しかし、人間特有のカンというものがあるからのぅ……。 あ奴のカンが、このような行動をさせているのじゃろう……」
徹は市松の答えを一ミリも理解出来なかった。
「ふーん。 まあ、そんなもんかねぇ……」
そう言って、徹は両手を首に回して、空中でゴロンと寝転んだ……。
――そんな日々が続く中、ついに最高裁への抗告の是非がはっきりした。
結果は――『棄却』であった。
つまり、再審は認められず、ここに大越誠の『死刑』が確定したのであった。
抗告棄却の報を受け、仲村の弁護士事務所では重苦しい雰囲気が漂っていた……。
大越の死刑回避に全身全霊を捧げた仲村の気迫が皆に伝わっていたからこそ、死刑確定の知らせは、それこそ、仲村とその仲間たちにとって『死刑宣告』と同様であった。
仲村は焦燥し、疲れ切っていた……。
時々、デスクに両こぶしを打ち付けて「クソっ――!!」と怒鳴る仲村は、まるで人が変わったような様子であった。
そんな悲痛な様子の仲村を責める者は誰もおらず、不破は仲村をかばい「よく頑張った――」と言って、仲村の肩を抱いて励ました。
大越に家族を殺された『仁村八尋』は、抗告棄却を受けて、マスコミの記者会見の場に姿を現した。 仁村はマスコミに今の心境を聞かれ、こう答えたという――。
「死刑判決が終わりではない――。 加害者の死刑が無事執行され、この世から加害者の存在が消えるまで、被害者の無念は終わらない……」
――
――もはや、仲村は心身共に限界まで達していた……。 不破は、仲村の青白い顔が次第に土色に変わって行く様を心配し、しばらく仕事を休んで慶子と一緒に過ごしたらどうかと提案した。
「……慶子さんにはこんな無様な姿をお見せ出来ないので、もう少し体調が良くなったら、慶子さんと旅行にでも行こうかと思います……」
そう言って、仲村は心配する不破に寂寞とした微笑を向けて、不破の申し出を断り、しばらく自宅で療養する事となった。
――その日の夜――
仲村は久しぶりに仕事の事を考える事なく、自宅のリビングで酒を飲んでいた。 リビングの床には幾つか酒瓶が転がっている……。 そして、酒瓶に混ざって、何かの薬品が入っていたであろう茶瓶も転がっていた。
月の光が照らす薄暗いリビングで俯きながら両手でウィスキーグラスを握っている仲村。
絶望に打ちひしがれる仲村の心を投影するように、グラスを握る仲村の手は激しく震えており、ウィスキーはその震えにより床に零れ落ちている……。
仲村の体は上下に激しく揺れていた……。
「ぜぇ、ぜぇ――」という激しい呼吸が薄暗いリビングに響き渡り、仲村の容態がかなり悪い事を知らせていた。
リビングの天井では、仲村の様子を心配そうに眺める市松と、亀の甲羅のような物を背負った園児――『北山玄』がフワフワと浮いていた。
「――玄。 お主がワシのところへ来た理由は、ワシを監視する為じゃろ……」
市松が出し抜けに玄に言った。
すると、玄は気まずそうに「えっ……へへへ……。 まあ、閻魔がそうしろっていうもんだから、仕方無く……」と手を後ろに回して頭を掻いた。
「ふん……。 閻魔の奴め……」
市松はそう言うと、玄の傍へとトコトコ歩き出し、何を思ったのか、いきなり玄を抱きしめた――。
「――えっ!? お、オロチっ! 一体何のマネだよぅ!!」
玄は顔を真っ赤にして、市松の顔を見上げた。
すると、市松は可愛らしい少女のような瞳で玄を見つめ、玄の額に口づけをした。
玄は夢見心地であるかのような、間抜けた表情を浮かべている……。
「――ねぇ、玄。 これから私が『マナス』を使う事、閻魔に言わないで欲しいんだ♪」
市松がそう言うと、玄は夢から覚めたように市松の腕から離れ「いや、いや――」と言って、くるりと振り向き亀の甲羅を市松へと向けた。
「……いくらオロチの頼みでもアレはダメだい! だって、アレは……」
「この世界の法則外である『イェネ・ヴェルト』――!」
「使い続ければ、いずれこの世界に影響を及ぼす……」
玄はそう言って、市松に背を向けながらプイッとして腕を組んだ。
――市松と玄がそんなやり取りを行っている間にも、仲村の体調は益々悪化していた。そして、ついに、仲村は座っていたソファから転がる様にして床に伏せ、両手をついて吐血をしたのであった――!
「マズイ! 玄――このままだと、任務失敗するぞ!」
市松は大慌てで、玄の両肩を掴みユサユサと揺さぶった。
「うぇぇ、分かったよ! じゃ『マナス』使う事に目を瞑る代わりに――」
「――オレのいう事を何でも聞いてくれる?」
玄の言葉に、市松は一瞬「ウッ……」と言葉に詰まり、玄の両肩を揺さぶっていた手を止めた。
後ろを向いている玄の表情は市松には分からなかったが、玄が今どういう表情をしているのか何となく想像がついた……。
「むぅ……分かったわぃ。 お主の言う事はなんでも聞いてやろう――。 但し、一度きりじゃぞ!」
市松の言葉に、玄は嬉しそうに振り向いて「本当――!? よっしゃ、ウラぁ!!」と拳を握りしめて飛び上がった。
市松はそんな玄の様子を無視し、慌てた様子で目を瞑った。
「――アラトロン!!」
市松の叫びと同時に、足元から紫色の魔法陣が輝きを放ちながら浮かびあがった。 魔法陣は市松の身体をすり抜けながら上昇していく――。 そして、魔法陣が天井をすり抜けると、すり抜けた場所から天使のような少女が舞い降りて来たのであった――。
――この間、徹は何をしていたのかと言うと――
徹は市松の指示で、星野を探しに行っていた。
市松のカンでは、恐らく星野は元宿中央公園か、『大門さやか』の診療所にいるだろうと予想していた。
徹は、はじめ元宿中央公園へと行ってみた。 ところが、公園には星野はおらず、代わりにイケメン然とした中川がホームレスの集団に交じって酒盛りをしていた……。
ホームレスの集団に交じると一際目立つ中川の清潔感ある服装に違和感を抱きながら、徹は傾九町にある大門の診療所へと向かった――。
徹が大門の診療所に向かっている時、診療所は市松の読み通り、星野が訪ねて来ていた。
相変わらず暗い電灯がぼんやりとついているだけの薄暗い部屋で、星野は診察台と思しき机の前にある丸椅子に、巨大な尻をはみ出しながら窮屈そうに座っており、部屋の奥で何やら書類を見ている大門へと顔を向けていた。
「――おぅ、作造! お前、まだ悪事に手を染めてるわけじゃないだろうな……」
星野は大門に向かって怒鳴り、自分の両膝をペシンと叩いた。
星野の言葉に、大門は振り向きもせずに、書類を見ながら答える――。
「……はぁ? 悪事なんてする訳ないじゃない。 それと『昔の名前』で呼ぶのはやめて頂戴!」
大門の答えに星野は「おう、そうか――」とあっさりと追及を止め「まあ、いいじゃねぇか、作造。 全く『さやか』なんて女みてぇな名前を名乗りおってからに……」とブツブツ言いながら、机に置いてある缶コーヒーをガブリと飲んだ。
大門はようやく書類から目を放して、星野の方へと振り向いて呆れたような顔をして言った。
「――全く。 アンタのデリカシーの無さは死んでも治らないんでしょうね。 こう見えても、私は女よ……」
大門はそう言ってツンツンした様子を星野に見せる。 すると、星野は「ワッハッハッ――!」と豪快に笑い大門に詫びを入れる。
「お前が女だっちゅうことは、とうに分かっとる! 冗談だ、そう怒るな。 あの時、お前に助けられなかったら、俺は死んでいた身だ。 こう見えても、お前には感謝しとるんだぞ――」
星野の言葉に、大門は微笑みながら俯き、言葉を返す――。
「ふふっ、まぁ、それはお互い様でしょ……」
――星野と大門の出会いは、星野が現役バリバリの刑事だった20年前に遡る――
その時、大門はまだ20代の男性であり、傾九町で違法な医療行為を行っている闇医者として悪名を轟かせていた。
星野は大門を不正医療行為で逮捕しようとしており、星野と大門は、刑事と容疑者という犬猿の関係であった。
大門は、筋骨隆々の男性でありながらも、心は女性であるという『心の病』を抱えていた。
その為、同じ境遇の男女に対し違法に性転換手術を施したり、容姿に悩む男女の整形を違法に行ったりしていた。 しかも、そう言った性と容姿に関わる医療行為は全て無料で行っていたので、傾九町界隈では『青ひげの女神』と言われ、多くの悩める男女から慕われていたのであった。
大門は当時から傾九町を拠点としていたが、今の診療所のような特定の住処を持たずに、支援者であるスナックのママや、ゲイバーのマスターに匿ってもらいつつ、不法な医療行為を続けていた。
そんな大門を星野はずっと追い続けていたのであるが、大門を追い続けていたのは星野だけではなかった。
世の中には多様性を良しとしない『保守派』が必ず存在するものだ。 そう言った保守派は、大門のように『心と体の性別が異なる』人間を、頭から理解しようとしない。 ただ、自分たちと異なる境遇の人間に対し『生物学的に無意味な人間である』と批判し、差別し、弾圧する。
――つまり、彼らは自分達と違う人間が存在する事を許さないのだ。
もし、自分達と違う人間がいるのであれば、彼らにとって、その人間は『劣等』であり『野蛮』であり『邪悪』であるのだ……。
――大門はそんな保守派から、善良なる人間を邪悪な道に引きずり込む悪魔と言われ、憎悪の対象として見られており、彼らは巧みに夜の街に隠れる大門を執拗に追い続けていたのだ。
そして、ついに彼らは大門を捕らえ、拉致監禁した。
そんな大門を救ったのが、当時40代であった星野であった。
星野は、大門を慕う女性からの通報を受けて、保守派のアジトを突き止め、大門を慕う者達と共にアジトに乗り込んだ。
保守派のアジトではドラマさながらの銃撃戦が行われた。
星野は銃撃によって負傷し、保守派の凶弾が尚も星野へと襲い掛かろうとしていた。 しかし、星野に救出された大門が逆に星野を窮地から救い、保守派のメンバーを全員打倒したのであった。
保守派の打倒と同時に、星野にとって大門の救出は、長年追い続けていたホシをようやく逮捕出来る瞬間でもあった。
ところが、星野は大門を逮捕せずに、そのまま仲間達と共に大門を逃がしたのであった……。
星野は大門を救出する過程で、大門を慕う若者が、何故大門を慕っているのかを理解し、大門の人柄に共感を持ったのである――。
その後、大門は自身を救ってくれた星野を慕い、何か事件が起こる度に星野の捜査に協力をするようになった。 そして、星野もまた何かアンダーグラウンドな情報を知りたいときには、大門の診療所へと赴き、情報を収集するという『持ちつ持たれつ』の関係を築いたのであった――。
――
――星野は丸々とした太鼓腹を摩りながら、出し抜けに大門に質問を投げた。
「ところで、お前の患者で仲村というアンちゃんがおるだろ?」
「お前……。 アイツの顔をイジったんじゃないのか?」
星野は大門に仲村の素性を聞く為に、診療所を訪ねて来たのだ。
「……うん? 何で、仁ちゃんがサトちゃんの事知ってんのよ?」
大門は星野が仲村の事を知っている事に驚き、密かに身構えた……。
星野は、仲村が大門の世話になっていた事を一体何処から聞いたのか?
元宿中央公園に居るホームレスの爺さんである『ジュンちゃん』から聞いたのである。
――仲村に炊き出しのスープをねだっていた爺さんは、その前日、ジュンちゃんと一緒に星野と出会った。 ジュンちゃんは星野からワンカップ酒をおごってもらう代わりに、仲村の過去について自分が知っている事を全て星野に話したのであった。
ジュンちゃんが言うには、2年ほど前に仲村は元宿中央公園から忽然と消えた。 ちょうどその時、元宿中央公園の片隅でガソリンを体に被って焼身自殺を図ったホームレスがおり、その遺体は身元が分からないほどに炭化してしまっていたので、ホームレス仲間の間では、恐らく仲村が自殺したのだろうと思ったそうだ。 そして、どこからか数珠を拾ってきて、皆で冥福を祈ったとの事であった。
ところが、一カ月ばかり経ったある日、ひょっこりと仲村が元宿中央公園へと戻って来たと言うのだ。
仲村と仲が良かったジュンちゃんは、仲村が戻って来た事に喜んだ半面、身元不明の焼死体は一体誰であったのか訝しんだ。
それに、今の仲村を見ると、どうも今までの仲村と様子が違う……。
ジュンちゃんは戻って来た仲村に「今まで何処へ行っていたのか」聞いたことがあった。 その時、仲村は「傾九町の大門先生の世話になっていた」と言ったそうだ。
ジュンちゃんは、仲村の言葉を聞いてピンと来たそうで、これ以上、仲村が何をしていたのか聞く事はしなかったと言う――。
『傾九町の「青ひげの女神」ったら、訳アリの人間が救いを求める事で有名だからのぅ』
『……恐らくサトちゃんも、何か訳があって別人になってもうたんじゃろ。 まあ、この界隈じゃ良くある事じゃ』
ジュンちゃんは平然とした顔で、星野にそう言ったそうだ――。
――
「……まあ、俺も色々と情報網があるもんでなぁ」
そう言って、大門の問いをはぐらかす星野――。 大門はジトっとした目で星野を見つめた。
「……ふーん。 まあ、確かにサトちゃんはアタシの患者だけど、人の質問をはぐらかすような輩には何も言いたくないわ――」
そう言って、プイっと後ろを振り向いて星野に背中を見せる大門。
「まぁ、まぁ、そんな事言わずによ――。 俺とお前の仲――」
星野がそう言って、丸椅子から立ち上がり、大門の背中に近づいた時であった。
天井から紙に包まれた『何か』が二人の前に落ちてきた……。
「――ん!? 何か落ちてきたぞ?」
星野は不審そうな顔をして、床に転がった紙を手に取る――。 紙は何かを包んでいるようだった。
星野が包み紙を開く――。 すると、中から鍵が出てきて、星野はそれを見て大声を上げた――。
「おい、作造! これは――!?」
星野の叫びに、大門は驚いて振り返る――。 すると、星野は目の前に鍵を包んでいた紙を広げ、その紙に書いてあった文字を大門に見せた。
『仲村聡が危険だ。 すぐに助けに行け! これは自宅の鍵』
大門は、その紙を見た瞬間、奥の部屋へと猛然とかけて行き、上着を羽織って外出の準備をし出した――。
星野もすぐに外へと飛び出して、大門が医療用具の準備をしている間にタクシーを呼び止めた。
――こうして、2人は仲村の自宅へと急行した。
その様子を空から見ていた徹は「ふぅー」とため息をつき、タイヤを鳴らして仲村の自宅へ向かうタクシーについて行った。
――
――星野と大門が仲村の自宅へと着いた時、仲村は意識をなくしてリビングの床に倒れ伏していた。
床に広がる夥しい量の吐血の跡が、仲村の容態の深刻さを物語っていた。
「――サトちゃん!」
医療器具が入ったカバンを片手に大門が仲村の傍へと駆け寄り声を掛け、仲村の腕を手に取り脈を測る――。
「――!? これは!?」
仲村の脈を測る大門の手がにわかに震えた。
「――何故、一体こんな事が……」
大門が驚愕したのも無理はなかった……。
仲村の脈は全く正常で、しかも、今までの仲村よりもさらに力強く、仲村の顔色もまるで瘧が落ちたかのように良くなっていたのであった。
(あれだけ長期に渡って『毒』を飲みながら……何故……?)
眼前に広がる状況に理解が追い付かず、大門は一瞬呆然とした。 ところが、大門の背中から星野の怒鳴り声が聞こえ、気を取り直した。
「おい、作造! 何やっている! 早く救急車を呼べ!」
冷静さを取り戻した大門は、おもむろに仲村を抱きかかえ、星野に言う――。
「いえ……。 救急車を呼ぶほどの状態じゃないわ……」
夥しい血がリビングの床に広がっている状況にも拘わらず、思いもよらない言葉を口走る大門に、星野は耳を疑った。
「あぁ――!? そんな訳――」
大門の逞しい両腕に抱えられた仲村を見て、星野は大門の言葉を理解した。
仲村は誰の目から見ても正常であり、まるで眠っているような様子であったからだ。
「……一体、何があったんだ?」
星野の問いに、大門は首を振り「アタシにも分からないわ――」と言って、言葉を続けた。
「でも、言える事は――サトちゃんは今、健康そのもの……。 恐らく、アタシの家で少し休めばすぐに意識を取り戻すわ……」
大門の言葉に、星野もただ黙ってうなずくしかなかった……。
――こうして、2人は仲村を抱えて、傾九町へと戻っていった。
そして――
2人の様子を天井から見ていた徹も、同じく驚愕の声を上げていた。
「――おい、おい! なんで、市松がいねぇんだよ! どこ行きやがったんだ、あんにゃろう!」
徹は叫びながらリビングへと降り立つ――。 すると、リビングのテーブルにメモ用紙が一枚ヒラリと置かれていた。
「――ん?」
徹がメモ用紙を手に取って見ると、メモ用紙にはこう書いてあった――。
『徹へ。 大菅拘置所で待つ。 イチマツより』




