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生神 ――いきがみ――  作者: T.K
雨雲を払う手
3/39

少女

 「今日も……雨ね……」


 少女は、深くあおい空をながめてつぶいた。


 少女の隣にはヒマワリが一輪咲いていた。ヒマワリは雲一つない空からたたえる光を全力で浴びていた。


 少女は裸足はだしであった。

 それどころか、服はところどころほころび破け、破けた箇所かしょから恐るべき打擲ちょうちゃくの跡が見て取れた。

 恐らく、2、3日お風呂にも入っていないようだった。まるで、戦後間もないころに不幸にも孤児こじとなった子供のような外見であったが、そういった子供たちに特有の『あかにまみれたすえた匂い』というものはしてこなかった。


 そして、少女は孤独こどくであった。

 孤独であるがゆえに小学校へと通ったが、まるで浮浪者ふろうしゃのような見た目で、体中あざだらけであるみにくい少女に対し、純真無垢じゅんしんむくな子供達はしばしば残酷ざんこくであった。

 倫理りんりを教育する能力のかけらもない『教師の皮をかぶった悪魔』によって教育を受けている子供達は、弱弱しく救いを求める小鳥の羽をぎ、その痛ましい体に石を投げることに、なんら罪悪感ざいあくかんを持ってはいなかった。


 少女は学校に行く度に、ありとあらゆるイジメを受けた。

 教師までもそのイジメに加担し、少女を学校から追放しようとありとあらゆる嫌がらせを、悪魔のひらめきをって実行していた。


 少女は、学校に行って友達を作りたかっただけだった。

 しかし、学校に行くと「くさいから近寄るな」とののしられた。

 教師からは「匂いがこもるから」と廊下へ立たされた。

 その為に、自宅のアパート近くの公園で体を一生懸命洗った――夜の公園はまだ肌寒く、冷たい水道水で体を洗うとクシャミが出そうになったが、それでも家に帰ってシャワーを浴びる事は出来なかった。


 家に帰れば『お父さん』にお風呂だとしょうして熱湯をかけられ、ご飯だと称して残飯を食べさせられ、勉強だと称して暴力を振るわれた。

 母親は、そんな『お父さん』に対して口を出す事はなく、ただ黙って、その『お父さん』の鬼畜の所業しょぎょう傍観ぼうかんしていた。


 だが、それでも少女は母親の事が好きだった。


 「いい子にしていれば、いつか、お母さんは私を守ってくれる――抱きしめてくれる――」そう思って、少女は自身に向けられる全ての悪意に耐えてきた。


 しかし、華奢きゃしゃな体でありながら誰よりも強く美しい意志を持っていた少女でさえ、身震いがするほど下劣げれつ陰湿いんしつ鬼畜きちく達によって、徐々にその瞳はにごり、くもっていった。

 

 そんな、少女でも唯一、その瞳から失われた輝きを取り戻してくれる者がいた。

 ヒマワリの傍を住みかとしていた、野良猫であった――。


 少女は野良猫に『きなこ』と名付け、言葉にするのも恐ろしい事実であるが、自分の夕食である『キャットフード』を『きなこ』に分け与えていた......。

 ところが、つい先日『きなこ』にキャットフードを与えているところを『お父さん』に見つかり『きなこ』は無惨むざんにも、少女の前で惨殺ざんさつされてしまった......。


 誰もが怒りに震えてくるであろうこの理不尽で邪悪じゃあくな行いは、少女の瞳から再度輝きを奪い、少女が見るこの世界を、陰鬱うんうつ悲壮ひそうな雨がとめどなく降り注ぐ世界へと変えてしまったのだった――


 ――


 「――おう、この学校じゃな」


 ふわふわと空を飛びながら、上空から小学校の校舎こうしゃを指さす市松いちまつ。その後ろには、空を飛ぶ不思議な感覚に戸惑いながらフラフラと浮いているとおるの姿があった。


 「うへー、なんか空を飛ぶってのは、気持ち悪ぃなー」


 徹は吐き気を催しているようで、気分が悪そうに「おえぇ......」とえずいている。


 「コラ、阿呆あほう! こんなところで吐くでない!」


 そう言って、市松は徹の腕をつかみ、学校の校舎へ降りて行った。


 ――校舎の屋上に降り立った市松は、まずは、塔屋とうやの奥で嘔吐おうとを繰り返している徹の頭を引っぱたき、頭を押さえながら涙目になっている徹に今回の対象者の特徴を伝えはじめる。


 「――今回の対象者は、この枯葉かれは小学校の2年1組に在籍ざいせきしておる『奥野未来おくのみく』という女の子じゃ」


 「彼女は、口でこそ自殺をほのめかす言動はしておらんようだが、その環境と境遇をかんがみ、緊急性が高いと判断してのう――」


 「彼女が自死を選択すれば、例外規定れいがいきていによって天界行きが決定される事は明白だが、天界へ行けるような者をみすみす自殺させる訳にはいかんのじゃ! 徳を充分に積んだうえで天寿てんじゅを全うしてもらい、もっと高位の天界へと上げてやらねばならぬ――」


 市松の説明を、胡坐あぐらをかいて黙って聞いていた徹は、矢庭やにわに立ち上がり――


 「――ヘイ、分かりやした! ほんじゃ、早速その『未来みく』ちゃんのツラをおがみに行きやしょう!」


 などと軽口を叩き、塔屋の扉をバンと開けて、階段から下へ降りようとする――


 「――コラ、コラ。 全く貴様はいつも早合点はやがてんをするのう……」


 市松は徹の様子をあきれた顔でながめ、徹の服のえりつかんだ。


 「なんだよ! 2年1組は下じゃないのかよ!」


 徹が不貞腐ふてくされた顔でうったえると、市松は「……確かに下じゃが、貴様はそろそろ、己が霊体である事をよくよく認識しておかねばならんのう……」と言って、突然、屋上の床にズブズブとその体を沈ませていった――


 「――うぇ!? お前、一体何やってんだ!?」


 徹が驚き、大声でわめき散らす。


 「やかましい! ほれ、貴様もやってみろ!」


 「やってみろったって――」


 徹が困惑した表情を浮かべていると、市松は「何度も言うが、貴様は霊体なのじゃ。 霊体は地に足を付くことがない。 現に今お前は屋上に立っていると思っているだけで、実際はわずかに足が地に離れておる」と言って、半身を床に浸かりながら徹の足元を指さした。


 「ほれ、貴様の足元をよく見てみぃ――」


 徹が自分の足元を見ると、確かに床に足が接地せっちしておらず、フワフワと浮いていた。


 「何――!? 俺はちゃんと地面に足を付けていると思っていたのに!」


 徹の感覚では、足が床についていたものだと思っていたのだが、実際は、足は床から数センチ離れて浮いていたのであった。


 市松は、半身を床に沈めたまま徹に言う――


 「――現世で生きて来た時の常識を一度リセットしてみぃ。 空を飛び、物体をすり抜ける事が出来ると思うんじゃ。 それが死後の世界では当たり前の事なんじゃと」


 そして、腕組みをして、さらに話を続ける――


 「よいか? 人間の最大の武器は『想像力』じゃ。 自分が物体をすり抜けているイメージをもっと強く持て! さすれば、貴様の体は物体をすり抜ける」


 市松にそう言われ、徹は自分が屋上の床をすり抜けるイメージをした……ところが、何の変化もない。


 「……」


 「なにも起きねーぞ……」


 徹は市松に訴える。


 「……もっと、床に落ちて行くようにイメージしてみぃ」


 市松の言葉に徹は目を閉じてつぶやく――


 「落ちる、落ちる……」 


 すると、徹の足元はコンクリートの床をズブズブと――


 「うぇぇ――!?」


 ――ゆっくり沈まず、徹は床を勢いよく突き抜けて真っ逆さまに落下していった......。


 「……全く……」


 市松はひたいに手を当てて、呆れた様子で徹の後を追った――。


 徹は、2階の天井に体を半分出して引っかかっていた。

 市松が天井からポッとすり抜けて来たのを見た徹が市松に助けを求める。


 「――おーい、助けてくれー」


 天井に、さかさまになって半分埋まっている徹が市松に助けを求めると、市松は徹を一瞥いちべつし、クルっと後ろを振り向いてスタスタと廊下ろうかを歩きだした――。


 「――って、おい! マジ助けてくれよ!」


 徹が叫ぶと、市松は「馬鹿もん! もう一度体をすり抜けるイメージを思い浮かべてみろ!」と怒鳴った。

 徹はまた目を閉じて「すり抜ける――すり抜ける――」と呪文のように唱えた。

 すると、体がスッと天井からすり抜けて、廊下に頭からズドンと落ちた。


 「――痛ってー!」


 徹が頭を抱えてもだえていると、市松があわれみの表情を浮かべ「はぁー、コイツに任せるのは失敗だったのではないのかのう、閻魔えんまよ……」と、閻魔に徹を押し付けられた事に対してうらぶしを呟いた。

 

 「……おい、チンピラ! 何度も言うように、全ての行動は、その行動する前にイメージを持つことが大事なのじゃ。 こうして廊下に立っている時でさえ、常に『立っているイメージ』を持ち続けろ。 そして、廊下をすり抜ける時は『すり抜けるイメージ』を持つ――」


 そう言って、市松は廊下をスーッと下へすり抜け、また下から出て来て廊下へ着地した。


 「まあ、そうは言うけどよ、やってみると難しいんだわ……これが……」


 市松を見ながら、頭をポリポリきながら徹が弁解をする。

 市松がそんな弁解に納得するはずもなく「……ふん。 お前は大体邪念(じゃねん)が多すぎるから、一つのイメージに集中できんのじゃ!」と言って、目の前にある教室の表札を見た。

 すると、「2年3組」と書いてある――。


 「――ここは、2年3組か。 すると、2年1組はあちらの階段の手前にあるのかのう――」


 そう言って、廊下の奥の階段区画の方を指さし、歩き出した。


 階段の手前の教室まで進み、表札を確認すると「2年1組」と書いてある。


 「ほう、ここじゃ。 それでは壁をすり抜けて――」

 

 「――――!?」

 

 『――ガラッ――』


 教室のドアが突然開け放たれた!

 

 「――チーッス!!」


 ――教壇きょうだんに立っている教師、生徒たちが一斉にドアの方を驚いて見つめている――


 「――お? なんか俺の事みんな見てるぜ? おかしいな、俺の姿って見えねーはず――ゴハッ――!?」

 

 徹の言葉を待たずに、市松の恐るべき鉄拳が徹の頭に容赦ようしゃなく打ち付けられた。


 『――この大馬鹿もんが――!!』


 「壁もすり抜けずに、いきなりドアを開け放ちおって――! 貴様、何考えておるんじゃ!」

 

 市松の叫びは、もう徹には届いておらず、徹は市松の強烈な折檻せっかんを受けて伸びてしまっていた――


 「――なっ!? いきなりドアが……」


 教師は、恐る恐る開け放たれたドアに近づいて、廊下を確認する――


 「……誰もいないわ……」


 不審そうな顔をして、教師が後ろを振り向いて教壇へ戻ろうとすると、生徒たちがザワザワして皆立ち上がり、ドアの方を見ている。


 「みんな――! 席について、授業を続けます!」


 教師が叫ぶと、生徒たちは「なんか、怖い――」「いきなり、ドアが――」「誰か来たの――?」などと、口々に言いながら席に着いた。


 すると、教室の奥、掃除用具などを入れているロッカーの手前、段ボール箱が置いてある場所にドアの方を見て立ちくしている少女が見えた。


 「――アンタ! 何ボサっとつっ立ってんの!」


 教師は叫びながら少女の前にツカツカと近づき、矢庭やにわに少女のほおを平手で打ち付けた!


 「ご、ごめん……なさい……」


 少女は鬼のような形相ぎょうそうの教師に、弱弱しく謝る。


 「ただでさえ、アンタは腐ったミカンなんだから、こういう時くらい『空気』みたいに大人しく座ってなさい!」


 教師がそう言って教壇へ戻っていくと、クスクスと周りの生徒達の嘲笑ちょうしょうが聞こえて来た。


 少女はジンジンと痛みが走っている頬に手を抑えながら、生徒たちのさげすみの眼差まなざしの中、ミカン箱のそばに正座をして目を伏せた――。


 「――うーん」


 徹が目を覚ましたようだ。


 「おい、貴様。 早く起き上がらんか……」


 少女の様子を見ながら、市松が徹に声をかけた。


 「くぅー、相変わらず強烈なパンチ食らわせやがって! てめぇ――!」


 徹は市松を口汚く非難するが、市松は何食わぬ顔をして「……阿呆か。 貴様がワシの指示も聞かずに勝手にドアを開け放つからじゃ」と言った。


 しかし、徹は何も分かっていない様子で「あっ! そういえば、俺はあいつらから見えないはずなのに、何で教室のドアを開けたら、みんな俺の事を見たんだ?」と間抜けな事を口走る。


 「はぁー、貴様のぅ……。 突然、誰もいないのに扉が開け放たれれば、皆驚いて扉の方を見るに決まっておるだろうが……」


 市松は徹のあまりのボケっぷりに、頭を抱えてもう怒る気も失せたようだった。


 「あー、そう言えばそうだな。 すまんかった……」


 徹は「てへへ――」と言って舌を出した。

 

 「――ところで、俺たちの『ターゲットちゃん』は何処にいるんだ?」


 徹は、机に座って黒板を見ている生徒達を見渡す――。

 教師は黒板の前で一生懸命、算数の式を棒で示しながら何やら叫んでいる。


 ――すると、徹の目に、奥のロッカーの傍にあるミカン箱の前に正座をしている少女が目に映った。


 「あー、あの子か……」


 明らかに他の生徒達とは異質な少女であったので、いくら阿呆の徹でも一目で分かった。


 「そうじゃ。 あの子が今回の対象者である『奥野未来おくのみく』じゃ」


 「――んで、どうすんだよ?」


 未来の痛々しい姿を見つめている徹は、物憂ものうげな様子で言った。


 「……とりあえず、しばらく様子をみるのじゃ」


 市松はそう言って、教室の窓枠に腰を下ろして教室をながめ出した。


 窓は開いていないのに、窓をすり抜けて窓枠に腰を下ろしている市松を見て、徹は「うへぇ……。 そんなことも出来るのかよ……」と感心した様子であった。

 徹は市松のように出来ないと思ったのか、未来が座っている後ろにある掃除用具の入っているロッカーの上に腰を下ろした。


 ――市松たちが来た時間はちょうど昼前だったようで、授業が終わったら給食に入った。

 未来は正座をしていた床から立ち上がり、当たり前のように給食の配膳はいぜんにとりかかろうとしている。

 男の子のグループが、未来を見て「お前、いつもトロいんだよ。 早く給食もってこい!」と言って、未来のおしり蹴飛けとばしている。

 未来は黙って教室を出て、給食の入った重たい鍋をヨロヨロと持ってきてテーブルに置いた。

 器を持って未来の前に並ぶ生徒達は、皆一様に鼻をつまんでいる……。

 その様子を未来はチラっと見るが、すぐ目を伏せて黙々《もくもく》とシチューの入った鍋から生徒達の器にシチューをよそっていった。


 「――くせー、やっぱ未来が持つとメシがくさくなるわ!」


 男の子が悪態あくたいをつく。


 未来はそれでも何も言わずに、ひたすら20人分の給食を器に盛りつけていった。

 教師はその様子を見て、ニヤニヤと薄気味悪いみを浮かべている……。

 『カミナリ様』のようなモジャモジャの頭をした中年女性は、幼い子供が友達に指図され、こき使われているのを、その薄汚うすぎたい笑みで眺めていたのだった。


 「奥野さん、みんなに給食をよそったら、アンタは廊下へ立ってなさい――」


 薄茶色の大きな眼鏡をかけたモジャモジャ頭は、全世界の『いやらしい』人間を凝縮ぎょうしゅくしたような意地の悪い顔をして、未来に冷酷な命令を下す。


 未来は、一瞬給食をよそう手が止まったが「……は……はい……」と言ってうつむいたまま教師に返事をした。


 未来が廊下へ立っている間、教室からは生徒たちの嬌声きょうせいが聞こえて来ていた。

 未来のお腹が大きく音をならして、食料の催促を始めている――


 ......未来が一体何をしたというのか......?


 あの畜生のような教師は、先ほど教室のドアが突然開いたときに、未来が『教師の命令』を聞かずに、立ち上がって開いたドアを見続けたばつだと言う――。

 それならば、立ち上がった生徒達にも一様に罰を与える必要があるのだが、そんな下らない事はそもそも罰を受けるに値せず、ただ未来を不幸ならしめる為に適当な理由をつけて未来の悲しい姿を般若はんにゃ微笑ほほえみで気味悪く眺めていたかっただけに過ぎなかった。


 未来は給食が終わるまで、廊下へ立たされ続けていた。

 未来が教師から『許しを得て』教室へ戻ると、未来の机であろうミカン箱の上にシチューの入った器が置いてあった。


 「俺たちが、未来が可哀そうだと思って、給食取っておいてやったぜ」


 未来に意地悪そうに笑顔を向ける男の子たち。


 未来は嬉しそうにミカン箱へ駆けつけて、シチューの器を手に取った。


 すると、シチューには雑巾ぞうきんが入っていた……。


 未来は酷くお腹を空かせていた。

 邪悪な笑みを浮かべている男の子たちの周りには「ははは、可哀そー」などと、茶化している女の子たちがいる。


 他人事だと自覚して対岸たいがんの火事を眺め、火事で亡くなった人を「運がなかった」と笑うような浅ましい性根しょうねを、この学校の生徒達は教師に教え込まれているようだった。


 未来は雑巾の入ったシチューを手に取り食べようか迷った。


 (ウチのご飯よりは――)


 未来にそう思わせる家庭が提供するご飯というのは、一体どんな恐ろしいご飯なのであろうか?

 恐らく、それはもう幼い子供が食べるべきものではなく、ご飯というのもはばかられるような何かであるに違いない――。


 未来は皿を手に取り、思い切ってシチューを口に運ぼうとした――


 ――その時、教師が思い切り皿を持つ未来の手を棒で叩いた――!


 未来の手に激痛が走り、シチューは床にこぼれてしまった。


 「奥野さん――! 給食の時間はもう終わっているの! 早く床を拭いて『席』につきなさい!!」


 そう言って、薄汚れた巨大な尻を左右に揺らしながら、きびすを返して教壇へと戻ってく女教師。


 ――未来の目には薄っすらと涙が溜まってきた――。


 しかし、未来は涙を流し過ぎたせいか、こぼれ落ちる事はなく、そのいじらしい瞳の奥にとどまっており、未来は雑巾を手に取り黙々と床をき始めた――。


 未来の様子をロッカーの上から黙って見つめていた徹が、口を開いた。


 「……なあ、市松……」


 「……なんじゃ?」


 「あのババァ、ぶんなぐっていいか?」


 市松が徹の顔を見ると、徹は未来を真剣な表情で見つめていた。


 「……お主と同じ考えになるのは初めてじゃな」


 市松はそう言って「だが、生物には直接触れる事が出来ぬし、よしんば触れる事が出来たとしても、生物に物理的な危害を加える事は出来ぬ」と徹をたしなめる。


 「じゃ、どうすればいいんだ?」


 徹は先ほどまでとは違って真剣な表情を崩すことはない。


 「先ほどワシが説明したように、生物に触れる事が出来ずとも、物体に触れる事は可能で機械の操作も出来る。 貴様は自分の出来る事を把握し、その中から最善の選択をするのじゃ」


 徹は「なるほど、俺たちが直接ぶん殴れねーんだったら、誰かに殴ってもらうしかねーな」と言って、ロッカーから降りて、未来の後ろに立った。


 未来は、疲れたのかウトウトしているようだった。

 瘦せこけた体と、生気のない横顔が徹の目に映る――。


 徹は自分の中で形容しがたい怒りを感じていた。現世で生きてきた中でそんな感情を抱いたのは、ただ1回のみであった。


 ――すなわち『殺意さつい』――


 しかし、生前、その恐るべき感情を抱いた時は、自分がおとしめられ、はずかしめられた時であった。

 この未来という少女が置かれている恐ろしい『イジメ』――いや、もはや『虐待』の現場を目の当たりにし、少女の悲壮な横顔を見て抱いた『殺意』は、徹が今まで経験したことが無かった。


 「この子を助けたい」とは思っていなかった。


 しかし、激しい怒りと「殺意」を、あの女教師と周りの生徒たちに感じざるを得ない……何故そんな感情を抱くのか、まだ徹にとっては良く分からなかった――。

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