【短編】風俗で働く頭のおかしい俺と可哀想な客
最初に俺を買ったのは、28歳のOLだった。
仮に、彼女をAと呼ぼう。
Aは、清潔な茶色い髪と整った顔立ちで、特別尖ったような様子もない。見た目も性格も街を歩く普通の女とそん色なく、どちらかと言えばモテそうだと言えなくもない女だった。家の扉を叩いた俺を迎え、初めて目を合わせた時、「こんにちは」と霞む様な声で言っていたのを覚えている。
「その、中々出会いが無くて。それに、時間も……」
Aは、俺にお茶を出してからベッドの下に座ると、モジモジとしながら時折顔を見て、何かの言い訳をしていた。後から分かる事だが、彼女のように俺を買ったはいいモノの、いざとなって尻込みしてしまう人は多い。経験の無さや、周囲への敗北感や、妄想した俺の感情を、勝手に背負い込んでしまうからだ。
溜まっている。そう口にすれば、それだけで終わる話なのに。後ろめたいなら、買わなければよかったのに。
「そうだったんですか。Aさん、忙しいんですね」
俺は、Aの目を見て笑い、そして距離を詰めた。ベッドに寄りかかって隣に座り、まるで心を重ねるかのように呼吸を合わせ、肩で触れて黙っていた。小さなテレビの音だけが、部屋には響いている。耳を真っ赤にして俯いている事についても、俺は何も言わなかった。少しずつ手に触れて、指先がピクリと動いたその時に、手の甲に平を重ねて優しく握った。Aが、胸が膨らむくらい、大きく息を吸い込んだのが分かった。
「シャワー、浴びましたか?」
「は、はい」
髪の毛は、とっくに乾いている。きっと、俺が来る一時間前には、全ての準備をしていたのだろう。妙に片付いた部屋。少しだけ捲れた掛布団。まだ残る芳香剤の匂い。こういう変な気遣いの一つ一つが、彼女が男慣れしていない事を分からせる。少しでも俺に自分をよく見せたいと、そんな下らない気持ちを察してしまう。
彼女は、世の中の女より少しだけ、理想が高かった。だから、俺を買ったのだ。
「どこが気持ちいいのか、自分で分かりますか?」
「えっと……」
言葉を失ってから、Aは横に首を振った。
「キスは、どうしますか?」
口をパクパクとさせて、答える事はしない。ならば、やらない方がいい。キスを特別視している女は意外と多い。それは、これまでの経験によって知っていたし、同業者の女にもそういうヤツはいる。
立ち上がらせて、ベッドへ誘う。先に座って膝に乗せ、乱れた髪の毛を横に流した。耳に唇で触れて、挟み込む。声を漏らしてから、Aは体を捩った。
Aは、典型的な理想の高い女だ。なまじっか自分の顔の良さを理解していて、それだから自分が誰かを選ぶ立場だと思い込んでいる。そんな生活を、学生時代から続けてきている。だから、誰からも選ばれず、待ち続ける間にこうなってしまった。
そういう女は、心の距離の近さに飢えている。だから。俺はAの事を呼び捨てにして、常に背中から手を回すように心がけた。
「大好きだよ」
囁く度に、Aはまた体をと動かした。男は、お世辞では絶対に「大好き」だとは言わない。むしろ、本気で愛していてもそうそう口に出来る言葉ではない。
そんな、今まで耳に触れた事の無い言葉は、次第にAの気持ちを蕩けさせていく。俺に預ける体重の重さで、彼女の気持ちがどれだけ傾いているのかが分かる。
28年。それだけ抱え続けた理想とプライドは、こんなにも簡単に崩れていくのだ。
Aは、それからも言葉を求め続けた。大好きだと言って欲しい。名前を呼んで欲しい。気持ちいいと言って欲しい。自分が、愛されているという証拠を欲して、イクたびに強く体を押し付けた。そして。
「キスして」
きっと、泣いていたんだと思う。男からの愛を知らずに、快楽に溺れてしまった自分を恥じて。しかし、もう抗えないところまで来てしまってると分かってしまって。ただ、「大好き」という言葉を呟き続けて、ひたすらに下手くそにキスをしていた。
後になって残ったのは、息を切らして目を閉じて、夢から覚めるのを拒んで、膝を折って俺に抱き着いた信念の抜け殻と、血の付いたシーツだけだった。もしかすると、また俺を買うのかもしれない。セフレでも作って、楽しくやっていくのかもしれない。
でも、きっとこれからも、Aが誰かに選ばれる事はないのだろう。そんな事を思って、俺は彼女から金を受け取った。
……こういう仕事をしていると、やはり変な性癖の持ち主に出会う事もあるワケで。むしろ、そう言った好みに合わせるのが、俺たちの仕事の本懐なんだと思っている。女の同業は相手をある程度選ぶことが出来ると聞いたが、俺たちにはそんな事は、絶対に許されていないからだ。
「えへへ、いらっしゃい」
マリファナのようなお香が焚かれた、ピンクの照明の薄暗い部屋。ピンク色の髪、素顔が分からないくらいの厚化粧、カラコン。幾つものピアス。手首の傷は、最早数えきれない。そして、やせ細った体と、汗の匂い。多分、少し前から風呂に入っていないのだろう。メンヘラ、と言うには、きっと進み過ぎた症状だ。
「おまたせ」
仮に、彼女をBと呼ぼう。
Bは、セフレや彼氏との予定が合わなかったとき、こうして俺を買う。歳は分からないが、多分それなりに金持ちのハズだ。キャバクラで働いているらしく、結構な額を貢がせていると言っていた。
「お酒、飲む」
Bは、自己肯定感が異常に低い女だ。だから、日常でも仕事でも常に酒を飲んでいて、ヘラヘラと笑っている。こうしていないと、心が押しつぶされそうなんだと言っていた。
化粧は、自分の顔を見ない為に。傷は、誰かに見てもらう為に。孤独が大嫌いで、なのに素直になる事は出来ない。そんな矛盾の塊が人の形をしているのが、Bという女の正体だ。
「ん」
酒を飲む。と言うのは、口移しで飲ませろという事だ。Bは俺に酒の缶を渡すと、いつものように「あ~」と口を開けて待っている。だから、俺は酒を口に含んで下を向き、抱き寄せて唇を密着させ、酒を彼女の体内へ流し込んだ。
液体フェチ。それが、Bの性癖だった。唾液や精液、涙や血液。そう言ったモノを、異常に好む。体液だと表現しなかったのは、飲料を飲むときにこうして男の口から飲んだり、雑貨も液体を使ったモノを好んでいるから。照明のネオン管や水晶玉が、時々風呂場で割れている。多分、水銀が垂れていく様を観察しているのだろう。
行為中は、何度も唾液を求められる。タバコを吸わない俺の唾液を気に入って、Bは俺を買う事を決めたのだと言っていた。そんな人間は、この世界に何人もいるのに。彼女の世界は、見つからないくらいに狭い。
かさぶたがある時に行くと、それを剥がして血を吸い始める。俺の首を絞めて、涙が滲めばそれを舐める。コンドームに溜まったモノは、当然のように保存する。一人の時に使って、オナニーをするらしい。
「もう来ないで」
そして、終わった後はいつもこうだ。金を叩き付けるように俺に渡して、か細い腕で何度も殴りつける。どうせ、二、三時間もすれば「許して下さい、会いたい」と連絡を寄越して来る。躁鬱の躁の部分が、セックスで如実に現れてしまっている。
このせいで、Bの体の痣は消えないのだ。相手の男からされている事を、やり返さない俺に発散しているんだろうから。彼女は、まるで親の真似をする小鳥のようだ。
きっと、近い未来に何かに巻き込まれて死ぬんだと思う。だから、それまでの間だけでも、俺は関係を持ってやりたいと思っている。
……そんな俺でも、少しは参ってしまうような客がいる。それは、俺よりも若い、大学生の客だ。
「付き合ってください」
仮に、彼女をCと呼ぼう。
親からの仕送りをつぎ込んで、こうして本気で交際を申し込んでくるC。彼女は、所謂お嬢様学校の出身で、東京の短大に通っている箱入り娘だ。
見た目は黒髪と眼鏡。素朴で純粋そうな、何のきっかけで俺を買ったのか見当のつかないヤツだ。
三十手前で俺に初めてを捧げるAのような女は、こういった面倒な事にはならない。しかし、若い女と言うのはどうにも不思議で、間に金を挟んでいるにも関わらず、こうして真剣な付き合いを申し込んでくる。
要するに、Cはまだ、金が何なのかを分かっていないのだ。だから、親からもらった大切な金を、俺のような人間につぎ込むことが出来るのだ。
「私、あなたの為なら何でもやります」
しかし、先に言った通り仕事を断る事も出来なければ、答えを出す事も出来ない。ただ、保留し続ける。自分がこういう人間だと伝えて、嫌いになってくれる事を待つ。そのやり方が間違っているのだと気が付いたのは、もう10回以上体を重ねた後だった。
行為は、どんどん過激になって行った。もはや俺の陰茎が触れていない箇所は存在していなかった。全ての場所に、俺の匂いを擦りつけたいのだとCは言っていた。金で俺を縛り付けているのだろうか。それとも、俺を養っているつもりでいるのだろうか。心の内は、知りたくもなかった。
それに反比例するように、Cはセックスで縛られる事を好んだ。そうされると、自分が支配されたような気がして、どうしようもなく、俺の物になってしまったような気がして。だから、縛って口もきけない様にして。
「逃げられると思うなよ」
脅される事で、自分が必要とされているのが分かって、幸せなんだと言っていた。その割に、ちゃんと目を見てキスをして、キツく抱きしめなければCはイカなかった。そんな、どちらにも割り切れない宙ぶらりんな女。
結局、セックスが好きなだけという本心を、俺への恋心に変換して自分を美化しているだけなのだ。いずれ、嘘を吐かずに誰かと付き合えることを願うしか、俺には出来ない。
……そして、そんな客たち全員に、本気で恋をしている俺は、きっと頭がおかしいのだろう。もう、まともな神経ではない。しかし、客は金の成る木であると割り切れない。
だから、俺は客を本気で好きになり、金を貰って失恋している。嘘はつけないから、こうするしかなかった。もう少しまともな生き方をしていれば、毎日泣く必要もなかったのだろうか。
誰かがまともを俺に教えてくれたら、毎日失恋せずに相手を金だと割り切れたのだろうか。それは、もう分からなかった。