7. エリシアの悩み
「……公爵領の北方にある湖が、青竜の生命の始まりであり終の場所となる。澄んだ湖水に育まれた青竜は水属性。戦場だけでなく平時においても有用な力を発揮する珍しい種である。竜の寿命は……およそ三百から千年! 神にも等しい存在である……」
黙々と読み進めている本は王国各所について書かれた一般的な本だ。しかし、王都で読んだ同じタイトルの本に比べ、北都に関する内容がとても詳しく載っていて面白い。エリシアは夢中になって読み進めていた。
背表紙には、本のタイトルに加え「北都版」と付記されているので、もしかすると他にも版があるのかもしれない。
しかし、事実を記した書籍や資料は多くあっても、伝説となると本の数はぐっと減る。
実際に目で見て確認していた、とディオンが言っていたことから、伝説の内容に関して本から学べることは限られているのだろう。
「伝説は真実って聞いたことあるけど、現実味が薄いから……確かめずにはいられないわよね。公爵様の気持ちも分かるわ」
うんうんと頷きながら、エリシアは本を閉じる。
両腕を上に伸ばし前傾で固まっていた姿勢を伸ばすと、机に手をついて椅子から立ち上がった。窓際に寄ると晴れ渡った空が見える。
ディオンと初めて会った日から一週間が経ち、エリシアは言われた通り、オルレアン公爵領について勉強する日々を送っていた。
公爵と会えたらまず、結婚について考え直してもらおうと決めていたのだが、……その話し合いは未だ持てずにいる。居場所を与えられたことで、エリシアは迷ってしまったのだ。
エリシアが話すことにも耳を傾けてくれるし、質問すれば答えてくれる。いないものとして扱われていた今までの生活とは全く違う。
(寂しいとか、ちっとも思ってなかったのに……、今の環境から離れたくないなんて)
ずっと一人で抱えてきた秘密を誰かと共有できたら、相談にのってくれたら……。そんな願いを叶えてくれる人が現れたように感じているのは間違いなのだろうか?
いつかディオンに尋ねてみたい。エリシアはそう思うようになった。
(あ~、どうしたらいいの! なんか、分かんない!)
「会ったばかりだから」と言い訳し、「早くしないと失礼よ」と叱咤する。毎日がこんな感じで動けずにいる。
(期待するから、いけないのよねぇ。どうしちゃったんだろう、私……)
ディオンが噂どおりの冷徹な人であったなら、迷うことなくここから出ていけただろうに……。エリシアは深くため息をついた。
「どうされましたか、エリシア様。お疲れならお休みになられますか?」
エリシアの深いため息が聞こえたのだろう。サリーが気遣ってくれる。
「いえ、大丈夫よ。そうだわ、サリー。散歩に行かない? 気分転換に付き合ってほしいのだけど」
「はい、構いませんよ。でもその前に、準備いたしましょう! 公爵様が贈ってくださったドレスをぜひ!」
どれになさいますか? とサリーが意気込んですすめてきた。エリシアは苦笑する。
(慣れないことをされたから、おかしな気分になるのよね、きっと)
クローゼットには、ディオンから贈られた普段着用の明るい色味のドレスが十数着かかっている。
エリシアが伯爵家から持参したドレスは隅の方に残されてはいるが、色味が地味なものばかりだったので、まるで影。
今日もそのうちの一着を着ていたのだが、サリーには不満だったのかもしれない、とエリシアは思った。
(きっと、公爵様もそう、お考えになったのよね)
ディオンと初めて会った日に着ていたエリシアのドレスが地味だったのかも……。
そう思わせるほど、贈られたドレスに使われている色味は明るく多彩だ。そのせいか、何を着たらよいのか迷ってしまうエリシアだった。
「選んでくれるかしら。着たことのない色ばかりだから……」
「はい! お任せください。ドレスに合わせて、髪も結い直しましょうね」
「……。えぇ、お願いするわ」
エリシアを飾ることに乗り気のサリーに、エリシアは大人しく従うことにした。
◇◇◇
公爵邸を一巡りする散歩道はエリシアのお気に入りだ。水鳥が集う池やそこから流れ出す小川、明るい森、芝でおおわれた丘などがあって、街暮らしが長かったエリシアには、見るもの、聞こえるもの、吸う空気に至るまで好ましい。
また、綻んだ蕾が多く見られる薔薇庭園に足を踏み入れれば、それまでの清々しい香りとは違う濃厚な香りに包まれる。
「蕾がいっぱい! 咲いたときが楽しみね」
「公爵邸自慢の薔薇園です。もう少ししたら一斉に咲きますよ。今年は花数が多うございますから圧巻でしょう。これもエリシア様のおかげです」
「……そ、そう、なのかな」
笑顔のサリーに対して曖昧な返事を返してしまう。それは、ディオンから受けた説明に、気安く同意するのが躊躇われたからだ。
目に見えるほど、神脈から放出される「気」が強まり、植物たちが生き生きしているのは、エリシアが公爵領にいるためらしい……。
特に今は、新たな竜の卵を迎える数百年に一度の時期にあたるそうで、エリシアが恵みをもたらす乙女、すなわち「竜の乙女」であると言われたのだ。
竜が生まれる地なら、そのような乙女が現れることは当たり前の話らしく、公爵邸の執事をはじめとした使用人たちは、エリシアがその乙女であることを微塵も疑っていない。
その理由は、エリシアが北都に近づくにつれて、その現象が強くなったからだとか……。
(……私にとって、乙女といえばあれなんだけど。関係あるのかなぁ)
書付に記された「聖なる石に導かれし……乙女」の一節。なんの乙女かは不明だが、ディオンたちが話す「竜の乙女」のことだろうか?
もしそうなら、実母は「竜の乙女」を知っていたことになる。
隠しておくように言われた不思議な石は「聖なる石」となり、エリシアがここに来ることがまるで定められていたかのようだ。
公爵から石の話はまだ聞いていないが、北都まで来て今さら悩んでいても仕方がない。隠さずに話すべきだと思う。
散歩にでて良かった。
エリシアの心のもやが晴れていく。
(……話してもいいわよね、お母様)
エリシアの心は決まった。
名前を呼んでくれて、話しかければ応えてくれる人。……オルレアン公爵、ディオンに全てを話そう。
(あの人ならきっと私を導いてくれる。今後のことは……また、考えればいいわ)