2. ディオンの憂鬱
公爵領の北側には広大な森が広がり、その中心に切り立った崖に囲まれた深い湖がある。
その湖の深淵部を注意深く見つめる一人の青年がいた。少し長めの黒髪を首の後ろで括り、紺色の軍服を着た長身の青年である。
「あ、戻ってきた!」
視線の先にある湖面から気泡が浮かび上がってきた途端、勢いよく何かが飛び出してきた。
それは一瞬で、整備された中洲にいる黒髪の青年の傍らに立った。
飛び出してきたもの、それは人だ……。
下半身はぴったりした脚衣に包まれているが、上半身は惜しげもなく肌をさらしている。
湖水に濡れた長身の体は細身だが引き締まり、滑らかな白い肌が若々しい。付着した水滴が弾けるように瑞々しく浮いている。青年が頭を振って水滴を飛ばすと、見事な銀色の髪が陽に照らされて煌めいた。
「ディオン様、お帰りなさい! どうでしたか?」
黒髪の青年が体を拭くための布を手渡しながら、銀髪の青年に声をかける。
「卵はすべて孵化を終えている。あの子竜が、ギリオン公の最後の竜で間違いない……」
「と、いうことは……。やはり! ディオン様が青竜の創出者なんですね。すごい、伝説どおりだ!」
「……だろうな。印もあるし」
ディオンと呼ばれた銀髪の青年は、自分の胸元を見下ろす。
青年の胸の中心には、人にはありえない物……水晶が埋まっていた。親指の先ほどの大きさのその水晶は、湖を現したかのような青い色をしている。
「印をもって生まれたからには覚悟していたが……。その時が来たということか」
「そうですよ! 間違いありませんって。……見てください、周りの景色を! 湖も今まで以上に水が湧き出しています」
黒髪の青年、副官のカイルが興奮している。
先ほどまで濁っていた湖水は清らかな清水となり、湖から勢いよく流れ出していた。また、萎れていた木々の葉は上を向き、青々とした葉を風に揺らしている。
その喜ばしい変化を確認して、ディオンは秘かにため息をついた。
カイルが言うことは確かに正しい。その時が来たのだ。視察と称して公爵領を見回り、最後に訪れた湖で解決する術を確信したのだから。
豊富な水を湛える湖水の表面も太陽の日差しを反射し、キラキラとした輝きを取り戻している。
「素晴らしい! 素晴らしいですよ~」
両手を広げたカイルが、気持ちよさそうにその場で一周する。そして感嘆の吐息をついた後、黒色の軍服に着替えを終えたディオンに詰め寄り、迷いなく申告した。
「早く帰りましょう! 花嫁様が待ってますよ! ……もう、いくら女性が嫌いだからって、逃げるように視察に出掛けてしまわれるんですから。いいかげん諦めてください。公爵様の、いいえ、公爵領の、ひいては王国の未来がかかってるんですよ!」
「……大げさだな」と呟いた後、ディオンはメルトアへ戻ることを告げる。
「はい! どんなお方か楽しみですね!」
「……本物であれば問題ない」
ディオンは、今日、何度目か分からないため息をつき、ここ半月ほどの短い間に起きた出来事を思い出していた。
◇◇◇
神脈が通っているオルレアン公爵領は、竜を生み出す土地として知られている。神脈があることで大地に気が集まり、そこに生きるもの全てに生命力が与えられる。人や動物だけでなく水も植物もだ。
普段から気の変化に敏感であった、オルレアン公爵こと、ディオン・アーク・オルレアンは、近頃、公爵領にある森や湖、収穫される作物に至るまで、生き物としての気力が失われつつあるのを感じていた。
その矢先、領地の北にあり、王国の建国以前から豊富な水を湛える湖が、水量を減らしていると報告を受けた。絶えず湧き出ていた湧水がその営みを止めたのだ。
南の平野部に向かって勢いよく流れ出ているはずの湖水が水流を止めると、平野部の穀倉地帯に水が回らなくなり、秋の実りは望めない。
この変化をもたらした原因をディオンは知識として知っている。だが、正直それを認めたくなかった。なぜなら、自分の花嫁となる女性が関係しているからだ。
そうこうしているうちに、湖の底にある最後の卵から竜の子どもが孵った、との連絡を受けた。
……迷っている場合ではない。そう結論付け行動するしかなかった。
湖の深淵部で産出された竜の卵たちは、水の恵みを受けながら育ち、長い年月をかけて順に孵っていく。
卵が無くなるのも産まれるのも四百年に一度と言われているため、卵が無くなった今が産まれるときである。
竜の卵が産まれるとき、それは竜の印を持つ者であるディオンが、竜の乙女と結ばれるときに他ならない。
結婚に前向きでないディオンは「女性が嫌い」というわけではないのだが、女性に興味が全く持てない。「可愛い」とか「愛しい」とか……。これまでたくさんの異性を見てきたが、これっぽっちも感じない。人として存在しているというだけにすぎない。
そんな自分が結婚できるのか、甚だ疑問である。
しかし、それとこれとは別である。
私情はさておき、自分と結ばれる予定(?)の竜の乙女を探さねばならない。竜の卵のため、公爵領の危機のために。
すると、どこからか噂を聞きつけた王国の貴族たちが、オルレアン公爵家との姻戚関係を狙い、偽物の竜の乙女を仕立てて、メルトアまでやってきた。何組も……。
竜の印を持つ者とその伴侶となる乙女の伝説は、北都付近では有名な言い伝えであるし、ディオンが竜の印を持つ者であることは知られている。
しかし、何を証拠に竜の乙女となるのかは広まっていない。そのため、やって来た乙女たちの真偽を見分けるのは簡単なことだった。
ー王国のどこかに竜の乙女がいることは間違いない。
たとえ王国中を巡ることになっても、竜を使えば時間を大幅に省くことができる。
ひとまず従兄弟である国王に、公爵領の現状を報告しようと王都に出向いたところで、……見つけたのだ。
竜に乗り、王都上空を飛行していたとき、自分の胸に埋まっている水晶に共鳴するかのような震えが起きた。
目を凝らして眼下を注意深く視れば、そこそこ大きな屋敷の一角が淡く光を帯びている。
……それがサークライス伯爵家であった。
当主一家が住む区画で反応があったため伯爵家の娘であろうと推測し、また古ぼけた外観から伯爵家の内情も調べさせた。困窮する伯爵家に有利となる条件を示せば、あとは簡単に進む。
こちらの意向が伝わると、すぐに「諾」という返事が返ってきた。当たり前だが、貴族の最上位に位置する公爵家からの申し出を断わることは難しい。
その家には娘が二人いて、姉が嫁いでくることになった。伯爵家としては妹を推していたようだが、こちらとしてはどちらでも構わない。もしも姉が竜の乙女でないなら、妹の方を娶ればいいだけだ。
視察で訪れた公爵領の至るところで大地が力を復活させ、目に見えるほど力が沸き出している。
この大地の変化は、王都から呼び寄せた花嫁の到着が近づくにつれ強くなっていた。
ー花嫁は本物だ。
竜の乙女とはどのような娘なのか……。
ディオンは緊張とも期待ともとれる高揚感に包まれていた。また、竜の印を持つ者としての責任を重苦しく感じてもいた。