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慣れてしまえばきっとなんてことないのだろうけれど、前の席に座る問題児の金髪が何かしでかすような気がして、山本が休み始めて1週間経った今日もまだ私は授業に集中できない。
そんな不安が無駄なものだということはその真面目な授業態度を見ればわかるはずなのだが、私の中にある固定観念のおかげでその場景と脳内の空想が一致せずにイマイチすっきりとしない。
江藤は私を含むクラスの誰とも口を利かず、昼休みになると机に突っ伏して居眠りをしている。下校前のホームルーム後は速やかに教室を去り、次の日の朝は遅刻にならない程度の時間に登校してくる。
人間は自分が嫌いな人物の様子が気になる生き物のようで、自然と江藤の動きを観察してしまう私がいる。
「江藤君は元気かい?」
会長のこの問いに返す言葉を考えるのは少し難しい。江藤の何をもって元気だと判断すればいいのだろうか。
そして気になるのは江藤は会長と仲の良かった時期からあのような人間だったのか。会長のことも『お前』と呼んでいるようだし、無愛想な面も鼻につく。
「以前の彼より言葉遣いは多少荒くなったが、人格的な部分は特に変わっていない」
会長はそう言うけど、だとしたらそんな奴がどうしてこの会長と親しかったのだろう。特別な接点でもない限り近付きそうにない2人だ。
「岡本君は江藤君に嫌悪感を抱いているのかい?」
「まぁ、割と大きく」
「参ったね」
そう言いながらも全く参ったような表情はしていない。私の反応を楽しむような笑顔だ。
「そういえば昨日僕が話した男子生徒は真面目な格好に戻っていたよ。時間は無駄でなかったようだ」
会長にそう言われ、ふと一日を振り返ってみると、今日はまだふざけた格好の人間を目撃した記憶がない。江藤が刺した釘がしっかりと効いているのだろうか。そうだとしたらあの連中は驚くほど根性のない奴らだということになる。
以前に学校で借りた小説の続きが図書室に見当たらなかった今日一日は、新学期が明けてから考えることの多い私に憂鬱を感じさせるものだった。
翌日は窓に叩きつけられる雨の音で目が覚めた。どんな目覚まし時計よりもこの音のほうがすんなりと起きられるのは人間の本能なのだろう。まだ鳴っていない目覚まし時計をオフにする。
――台風か。
小学校のときは、登校時間に台風が突撃しようものなら朝っぱらから連絡網が回ってきて学校が休みになることを告げられることがあったものだけれども、高校生ともなると大嵐でも来ない限りそんなことはまずないだろう。登校が憂鬱だ。
今こうして寝癖を直して整えている髪型も学校に着くころには崩れて寝起きよりも酷いものになっているかもしれない。わかっていても鏡に向かってしまうのは女の性である。私にも人並の女心があるというものだ。
家を出ようとする私にお母さんが一声かけた。なんと途中まで車で送ってくれるということらしい。学校の前の道がややこしい一方通行でなければ学校前まで送ってもらえたのに、と贅沢なことを考えてしまうとキリがないというものだ。
そう遠くない学校までの距離。風がそこまで強くないということは車窓から見える徒歩通学の生徒の救いになっているだろう。車の助手席で悠々としている私が言うと厭味に近いものがあるけれど。
学校まで徒歩4分程の場所に車を停めてもらい、そこから歩いて学校に向かう。昨日あたりにジャージを持って帰って来ていればそれで登校していたのだけど、外れる天気予報が予知できる能力なんてものは生憎持ち合わせていない。靴下が濡れないように気を付けながら学校まで歩いた。
割と遅い時間の登校になったにもかかわらず、教室にいる生徒は全体の半数にも満たない。言うまでもないかもしれないがこの台風の影響だろう。もしかすると休む生徒もいるかもしれない。
前の席の江藤もまだ登校していないようだが、彼は後5分程で教室に姿を現すのが普通なのでその時間にならなければわからない。こんな憂鬱な日だから、できれば来て欲しくないと思ってしまう私は少し嫌な性格をしているのかもしれない。
しばらくしてチャイムが鳴ると同時に教室に担任の川崎が入ってきた。
「はい席に着いて。いやぁすごい雨だな。人数も少ないが始めるぞ」
江藤はまだ来ていない。もし欠席してくれれば今日は授業に集中できるだろう。
川崎が出欠確認をしている途中に何人か遅れて教室に入ってくる。休みだと勘違いした生徒や、車に泥水を跳ねられて着替えに帰ったという生徒がいた。それぞれ川崎に理由を告げるとその生徒らは席に着き、川崎の出欠確認、朝の連絡事項が順に続けられた。
そして連絡事項が終わる頃、他の生徒よりも遅れて教室のドアを開けたのは本日欠席と思われた金髪の問題児だった。その派手な頭は傘を差していたにしては濡れすぎているようだ。
「江藤か。どうして遅れたんだ?」
「……」
相変わらず教師の言葉には一切の返答をしない。見ているほうはそうでもないがやられているほうは不愉快極まりないであろう。
「一応他の奴らにも遅れた理由は聞いている。お前はどうしたんだ?」
「……」
「もう一度聞く。何故遅れた?」
「……」
「無視してないで早く答えろ!!」
教壇を強く叩く音と共に川崎の怒声が教室に響き渡る。その一声でクラスの雰囲気は濁り、お喋りに夢中になっていた女子生徒も思わずその口を閉ざした。静寂が広がる。
「……」
「本当にお前は反抗ばかりだな! どれだけ頭が悪いんだ! そんなんだから暴力沙汰を起こすんだ!」
「……ッ!」
怒鳴る川崎に言葉ではなく睨みを返す江藤。持っていた鞄を床に叩きつけてその形相を更に鋭くした。
「おいおい! なんだよまた殴るつもりか? 社会のルールも守れないお前みたいな奴は都合が悪くなるとすぐ手が出るんだもんな!」
川崎は普段見せないようなその厭味ったらしい態度で江藤に喰らいつく。しかし相手があの江藤だからと言って言い過ぎではないのか? 間違ったことは言っていないかもしれないが、これは教師という立場の人間から出る言葉ではない。しかしここで江藤が川崎に手を出してしまえばもう江藤に理はひとつも残らない。色々な意味でここは江藤に耐え抜いてほしいものだ。決して味方をするわけではないけれど。
「……理由を言えばいいのか?」
ここでやっと江藤が口を開く。表情は相変わらず目線の先の人物を睨みつけているようだが、話をする気にはなったらしい。
「そうだと言ってるだろ。お前にまっとうな理由があるとも思えんがな」
「……休もうと思ってダラダラしてたが気が変わったから来た。遅れた理由はそれだけだ」
「言わんこっちゃない。ろくな理由じゃないな。お前はとりあえず遅刻にしておく」
「……それでいい」
「次にこんな態度をとってみろ。職員会議で取り上げてやるからな」
川崎がそう吐き捨てると江藤は黙って席に着いた。この不良は私の期待を裏切ることなく朝からトラブルを起こしてくれた。本当に迷惑な男だ。
それから1限目の英語が始まり、学級閉鎖の前日のようなこのクラスは通常の日課を迎えることとなった。
それはそうと、江藤が復学してからしばらく経ったが未だに解せないことがあるのだ。この授業でもそうだが教師は皆、金髪問題児の江藤に対して一切の接触を試みていない。無視しているというより、彼がそこにいないかのように授業を進めている。以前問題を起こしたこの生徒に関わらないように気をつけているのだろう。
暴力事件の被害者になるということは教師としての面目も丸つぶれであり、何より怪我をすれば自分自身が痛い思いをする訳で、いいことは何ひとつない。
しかし担任の川崎は違う。江藤の行動ひとつひとつに噛みつき、今日のように怒声を上げることもある。今日までとはいかないものの、鬼のような形相で彼を睨みつけることは今日までの短い間で何回と見受けられた。
川崎の人格から推測すれば、江藤のルールを守らないその曲がった根性が許せないということもあるだろう。コケにされるのが我慢できないようにも見えよう。
しかし、そのどれよりもこの2名の間にある確執めいたものを裏付けられるであろう予測が立てられる。江藤を不意に観察してしまっている私でなくとも、それはごく自然に浮かび上がってくるものであろう。
――2人は1年前の事件の当事者同士である。
川崎は江藤に殴られた被害者であるという推測はごく一般的であり、的を射た予想だろう。川崎は自分に危害を加えたその生徒の担任となったことで彼を追い詰めて退学に追い込むという手段を思いついた。その教師としてのプライドを傷つけられたことを深く根に持っていて、彼を相手にするとその憎悪が黒みを増す。当たらずとも遠からずではないだろうか。
2人の確執はきっとあの1年前の事件、いや、もっと前からあったものに違いないだろう。江藤や会長が入学してから秋の始業式の日までに、何かがあった。それが何かはおそらく会長が知っているであろう。気になるのでなるべく早く聞いておこう。
昼休みになると私はお弁当を食べる前に生徒会室に向かった。会長が生徒会室にいるかもわからないし、もしかしたら学校にすら来ていないかもしれない。あの人に限って学校を休むということはないと思うけれど、今日はなんせ台風だ。この時間になって風も相当強くなってきた。
――鍵が開いていない。
どうやらこの時間に会長が来る予定はないようだ。諦めて教室に戻ろうとしたとき、背後からあの甘いボイスが聞こえた。
「君は僕がここに来るタイミングが予測できるようだ。素晴らしい」
……たまたまだと思うけど。
「そう。君の予想通りだ。探偵でも目指しているのかい?」
「いえ。目指していません」
「だろうね」
生徒会室でまったりとしながら先程の推測を会長に明かし真実を尋ねたところ、私が探偵を目指しているととられる程に正確な推理をしていたことが判明した。まぁ会長のいつものジョークだろうけど。
「しかしそれから先の推理はできない。重要な部分で情報が足りていなくてね」
「重要な部分?」
「そう。2人の確執の存在はあの事件の前から確かにあった。しかしその理由が全くわからなくてね。そして以前に話した通り、事件の動機についても江藤君は一切口を開かなかった」
何故? 江藤に何か非でもあったのか? だとしたら暴力事件で尚更、分が悪くなるだろうし、それを隠すための行動にしては矛盾が生じる。
「彼はとてもプライドが高く、人情に厚い男だ。そう言った面でもしかしたら何かあったのかもしれない」
「弱みを握られたということですか?」
「可能性はある」
どうやら私は自分にとっておそらくどうでも良いことを気にして、出口まで何日かかるかもわからない迷宮に迷い込んでしまったらしい。気になりだすと止まらない。
体育教師と金髪生徒の確執は確かに存在するのだが、その実態は経緯を知る者が当事者だけという可能性の高い、あまりにも透明で不確かなものだった。