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 ――しまった。まずい、どうして、何故。朝の陽ざしはカーテンに遮られ、時を知らせる無機質な朝のパートナーは針を止めていた。

 焦燥感に包まれながら枕もとの携帯電話を開くと既に家を出る時間になっていたことに気付いた私は、いつもの何倍ものスピードで洗面所に駆けた。

 ――絶対に遅刻したくない!

 高校生活が始まって約半年、これまで遅刻も欠席もなく毎朝決まった時刻に登校していた私。昨夜は夜更かしもしていなければ二度寝もしていない。目覚ましが電池切れになったというくだらない理由で無遅刻無欠席の記録を止めてしまうなんて絶対に嫌だ!

 5分で一通りの支度をし、玄関から飛び出した。朝ご飯を食べないと頭が働かないだとか思っていた私だけど、こんな状況に置かれると短い時間で恐ろしいほど思考が働くことに気付いた。


「優華、ギリギリセーフっ!」

「あぁ! よかった……間に合った……!」


 一塁にヘッドスライディングする野球選手の気持ちがよくわかった。席に座ってやっと安心。朝から走り回っていい汗をかいたなどとは思えないけどね。


「しばらく休みだったから夜更かししたんでしょ?」

「それどころか早く寝たわ」


 鞄から手鏡を取り出し、乱れた髪を軽く整える。よく寝たから顔色はいいんだけどね……。


「……いじめ受けたときもショックだったけど、まさかうちの学校でこんな事件が起こるとはねぇ」

「……そうね。これから大丈夫かしら、この学校」

「今日もマスコミが来たりして」

「登校許可下りてるし、今日はさすがに来ないんじゃない?」

「まぁそうだろうねぇ」


 学校内で起きた傷害事件。同じ学校の生徒が刃物で人を刺すだなんて、誰も予測していなかっただろう。それを目の前で見てしまったらトラウマにでもなりそうなものだけど、どうやら私という人間は思ったよりも図太いところがあるらしい。


「ういっす」

「おはよう江藤君!」

「あぁ、おはよう」

「……あんた遅刻なのに堂々としてるわね」

「まだ先公来てねぇから遅刻じゃねぇよ。そもそも遅刻ごときで汗だくになって走る奴なんかそうはいねぇだろ」

「……」

「そうそう。今日はアイツの見舞い行くぞ。理子もな」

「あ、私も? 行く行く!」


 あの日学校は急遽休みとなり、翌週まで登校は無しということになった。ニュースにまで取り上げられたのだから、そうなっても仕方がなかっただろう。

 生徒総会で行われた会長の演説を聞いた直後は、これからまた平和な日々が続くと思ったものだけど、次の日にはぬか喜びに変わってしまったわけで。いつどんなときでも約束された安穏なんてものはないんだと痛感した。


「……そういえばあんたさ、理子のこと名前で呼んでるわよね?」

「……あ? それがどうしたんだよ?」

「……別に。似合ってないと思っただけよ」

「相変わらずだな、お前」

「まぁまぁ2人とも。仲良く仲良く、ね?」


 ……まぁ、理子がその辺のチャラチャラした奴に引っ掛かるよりは幾分かマシか。

 見慣れない朝のホームルームが終わると、久々に受ける生物の授業の退屈さに思わずあくびがこぼれた。

 予定になかった連休が明けてこうして授業を受けてみると、今度こそ本当に平凡な日々が帰ってきたんだと思える。

 4つの授業に耐え抜いた後のお昼休みも、今食べているお弁当のおかずも、目の前で愛らしく笑う理子も、私が安心して生きていく為の大事な要素である。


「ねぇねぇ。江藤君って生徒会入るのかなぁ?」

「どうだろう。会長はそうするつもりらしいけど……」

「……そしたらさ、私もお願いできないかな?」

「そうね。私も会長も大歓迎よ」


 この学校の生徒会の活動や立場は、これから変わっていくのかもしれない。もし4人で活動することになれば、今よりも多くの活動が出来て教師からの信頼も上がるだろうし、生徒会役員の選挙が始まる日も訪れるだろう。

 会長が毎日確認する投書箱も活用されて、学校がどんどん心地よい場所になっていく。卒業するのが惜しくなるほどにこの学校に思い出を残せたらいいな、なんて思ったりね。

 放課後はいつものように生徒会室に向かう。今日はすぐに外に出ちゃうけど、もうなんだか行かないと調子狂うのよね。

 生徒会室のドアが見えると同時に、投書箱をチェックする人物も見えた。このタイミングでこの光景が映るのが、当たり前の日常。


「お疲れ様。随分久しぶりな気がするよ」


 この笑顔を見ると、心が落ち着く。理由はきっと、自分でもわかってる。

 会長が専用のひじかけ椅子に座り、私はいつもの椅子に腰かけた。会長が卒業したらあの席に座るのは自分なのだろうか。


「新学期が明けてから、だいぶバタついた日々になったね」

「そうですね。でもこれでやっと普段の生活に戻りましたよ」

「岡本君。僕は『絶対』という言葉を使っていいものの一つに『無常』があると考えている」

「無常、ですか」

「そう。人も、世も、自然も、時が流れれば必ず変わっていく」

「維持、ということはないですかね?」

「結果的に維持という状態になっていることはあるだろうが、1日経てばその1日を過ごしたという事実が、昨日までとは異なるものだろう?」

「まぁ確かにそうですね」

「普段の生活に戻ったのではなく、しっかりと前進して今日という日が訪れたのだよ」


 すこし回りくどい会長の伝え方は、決して無常とは思えないんだけどね。


「君も、この2カ月足らずで変わった」

「……そういえば少し前にも言ってましたね」

「僕が今まで知らなかった姿が見えただけかもしれないけれどね」

「私はいつでも私ですよ」

「口数が少ない印象がなくなり、頼もしい姿が僕の目に映る」

「……そうですかね?」

「大切な人の為に怒り、自分にできることを探し、解決に悩み、悲しい時には涙を見せた。岡本優華という女性が、更に魅力的になった」

「……恥ずかしいからやめてください」

「すまないね。でもそう伝えたかったのさ」


 今までに関わったことのなかった問題に正面から向かう形で関わったのだから、確かに少しは変わったのかもしれない。でも言った通り、私は私なのだ。他の誰でもなく、岡本優華自身なのだ。


「おっそくなりましたぁ!」


 勢いよくドアを開けたのは私の親友で、その後ろにやる気のなさそうな顔で立っていたのは会長の親友だった。


「2人ともお疲れさん。じゃあ、行こうか」


 生徒会室の鍵を閉め、予定通り近くの国立病院へと向かうことに。家族が入院したことのない私にとって、病院へのお見舞いは初めての体験だ。


 学校の門を出てから、バス停2つほどの距離を歩いたところにある病院まではそう遠く感じなかった。会長が前もってアポを取っていてくれたおかげで、病院に着いてからもスムーズに足が進む。


「205号室は……あそこだね」


 203号室の隣のその部屋の前に来ると、理由もなく緊張する私がいた。病院ってなんだかそういうところなんだよね、私にとって。


「失礼します」


 休養中の他の患者さんがいなくても声のボリュームを下げるのは病院のマナー。どうでもいい話なのだけれど、公共の場における静けさの度合いは国内でも地域によって違うらしい。


「……来てくれてありがとう」

「いえいえ。先生が少しでも元気になってくれればと思いまして」

「……すまないな」


 いつも険しい表情でホームルームを行う川崎の表情は、見たこともないほど穏やかなものだった。こうして病院のベッドに入っているところを見ると、健康そうな体育の教師には見えないものだ。


「……あのときは、ありがとうございました」

「いや、それはこっちのセリフだ。お前たちには謝っても謝り切れんし、礼を言っても足りることはない……」

「そんなことはありません。自分の身を盾にして僕を守ってくれた先生は、間違いなく人間の鏡です」

「……」

「仕方ないことじゃないですか。誰もあなたを恨んだりはしませんよ」

「……本当に……申し訳ない……!」


 唇を噛み締めて目に涙を溜めているその表情は、あのとき見たそれよりも悲しみが滲んでいた。川崎だって、被害者なのだ。


「川崎、アンタが咄嗟にとった行動はコイツを助けたんだ。色んな意味でしっかり責任とれたじゃねぇか」

「……しかしな……俺は……俺は……!」

「自分の身を守る為だったのですから、仕方がなかったんですよ」

「……俺は……教師失格だ……」


 自分より一回りも大きい大人が泣きじゃくっている姿を見るということは、そう楽なものではないみたいだ。人の涙ほど心を揺さぶるものはない。


「先生……私、怒ってないです! 事情は皆から聞いたけど、川崎先生は被害者の1人です! 理由もなく人を傷つけたわけじゃあないじゃないですか!」

「……」

「あの事件で副校長も山本君もいなくなりましたが、川崎先生の籍は学校に残っています。これが何を意味しているかわかりますか?」

「……いや、わからない……」

「2人が、あなたを共犯者だと思っていないということです」

「……」

「2人なりのけじめでもあるかもしれませんが、川崎先生が巻き込まれた側だということは誰が聞いてもわかります。そんなに気を落とさないでください」

「……本当に、すまなかった……しかし……それでも……」


 川崎のプライドは、教師としてのものであり、人間としてのものでもあるだろう。責任を感じることのできる人間が川崎のように考えてしまうことは当然だ。

 私が言えること、私は川崎になんて伝えたらいいのだろう。怒ってないですとか、もう大丈夫ですとか、そんなことじゃなくて……。


「あ、あの!」

「……」


 私が、岡本優華が伝えられること。


「先生自身が納得できないなら、納得できるまで行動してみたらいいんじゃないですか……?」

「……俺自身が……納得……?」

「はい。私を含め、もう先生を責める人なんていないはずです。そういう環境の中で、自分が納得できるほどの責任を、自分で考えて果たせばいいんじゃないでしょうか?」

「……」

「自分を責めても、過去を悔やんでも、何も変わらないでしょう?」


 それと同時に、他人を責めても、未来を憂いても何も変わらない。

 『今、自分が、何をするか』。あらゆる真実や道徳を求める上で、それは欠かせないはずだ。柄にもない泣きっ面を見せた体育教師は、涙を拭いたそのごつごつした拳を強く握りしめていた。



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