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「やることがくだらねぇ……」
すぐ横で江藤がそう言ったのが微かに聞こえた。でも、それだけ。眼の前に見えるものが何を意味しているのかは誰でもわかる。
白い菊の花が挿された花瓶。葬儀でよく見かけるその花が、生きている者に供えられる。その花瓶が置かれている場所が理子の机の上でなければ、落ち着いていられたかもしれない。
「会長! なんですかこれは!」
「……菊の花だ」
ほんの数分前に、自分に気を保てと言い聞かせたばかりの私。そんな自分に対する呼びかけが一気に砕け散った。
もう間違いない。理子は確実にいじめを受けている。
いつから? そんなことは考える必要もない。理子が図書委員代理になり、次第に生気が抜けていったのは昔のことなんかじゃない。
「なんですかこれ! 理子に死ねって言ってるんですか!? あんまりですよ!!」
「……」
「会長!! もう演説なんて待ってられません! 今からでも掴みかかってやりましょうよ!」
これもまたほんの数分前に決めたこと。公の場で確実に大きなダメージを負わせ、勝負に出る、それに私は頷いた。
だけど、これに黙っていられる? 親友の心が傷付けられるのを見て、まだ何もせずにいられる? 残念だけど、私にはそんな青い血は流れていない。全身の血が頭に上るような怒りを感じるのは当然のこと。
「岡本、コイツに怒鳴ってどうすんだ。落ちつけよ馬鹿」
「落ち着いてるわよ! まともな感情でしょ!」
「頭にキテるのがお前だけだと思うな!」
「……!」
江藤は私の肩を掴み、真っ直ぐ私の眼を見つめた。眉間の皺が、眼を尖らせている。冷静を装うことに、息を整えることに、拳を握り締めることに、必死。一目見てわかる程に。
「この状況で何も感じねぇ奴なんかいねぇよ。見ろ」
「……」
「会長……」
いつも爽やかに微笑んでいる会長が、背筋が凍るような表情でそこに立ち、ただ一心に目の前の花を睨みつけている。滅多に鞘から抜かれることのない名刀が、今そこに剥き出しの状態で刃を光らせている。
怯える間もなく、見る者を震わせるその姿はすぐに会長の内側へと消えていった。
「江藤君」
「なんだ」
「僕を殴れ」
「しょうがねぇな」
意味のわからない言葉が交わされたと思うと、江藤はなんの躊躇いもなく会長の右頬を正拳で打ち抜いた。鈍い音が耳に余韻を残す。
「な、何やってんのよ!」
「いや、コイツが殴れって言ったからよ」
「はぁ?」
「はは、いいんだよ岡本君」
会長は殴られたにも関わらず、えらく上機嫌な様子で笑みを浮かべた。
「助かったよ」
「なぁに。俺んときも頼むぜ」
「任せてくれ」
「いや、意味がわからないんですけど」
「おや、女性は男の友情が好きだと聞いたが……」
「女らしくなくてすみません」
「いや、そういうわけじゃあ……」
少し困ったような顔をする会長を見て、なんだか可笑しくなってきた。男の友情、いいかもね、まぁ意味はわからないけど。
「あ、優華」
「理子お疲れ」
男の友情の区切りもいいところで、理子が図書委員の活動を終えて教室に戻ってきた。こっそり会長の真似をして出迎えてみたことは気付かれていないだろう。
それより、まずはこの花のことを聞かなければならない。
「はじめまして。岡本君がいつもお世話になっていると聞いているよ」
「いえいえこちらこそ! ていうか私的には『はじめまして』って感じはしないかなぁ」
「理子、今日は色々と話があってさ……」
「……その花のこと?」
理子の机からどかしておいた花瓶を、理子が静かに見つめた。その様子を見ると、今日が初めてというわけではないようだ。
「今日もあったんだ……」
「以前にも同じことがあったんだね」
「ここ最近は毎日ですよ……」
俯く理子。天真爛漫な彼女が見せるその暗い表情が、私の心を締め付ける。
「私さ、こういうことって初めてで、最初は自分が何かしたかなって思って、考えたよ」
「……」
「でもやっぱり身に覚えはなくて、自分のせいだとは思えなかった……」
それはそうだ、理子のせいなんかじゃないんだから。人の心を忘れた、汚くてずるい生き物の仕業。
「図書委員の皆もさ、私が話しかけても一切反応ないし、そんなに私ってうざったいのかなって」
「……そんなことない!」
「……でね、毎日何かしら嫌なことがあるの。物がなくなってたり、壊されてたり」
「……」
「2週間でこんなに参っちゃうとは思わなかったなぁ。自分では結構図太いところあると思ってたから……」
理子の声色が曇り、音量が下がる。彼女のその声を聞き漏らさない為なのか、江藤も会長も静かにただ一点を見つめている。
「なんでこんな風になっちゃったんだろって思うとさ、もう1つしか考えられなくて……。でも人のせいにしたくない自分がいて、人に言えない自分もいた……」
「……」
「笑っちゃうよね……。たった2週間ぽっちしか経ってないのに、いじめられてる人の気持ちが全部わかったような気がして……。こんなに苦しくても、闘わなくちゃいけないんだって……」
「理子……」
「でもさぁ……毎日……毎日死ねって言われたら……! 闘う気も削がれるよぉ……」
初めて見る理子の涙。私の何倍も元気がある女の子だって、斬りつけられれば傷付くんだ。声をあげて泣く理子に、私はどんな顔で、なんて声をかければいいの?
『よく頑張ったね』、『大丈夫?』、『辛かったね』、どれもありきたりで、何を言っても薄っぺらになる気がしてならない……。
人を追い詰めることって、こんなに単純なくせに、こんなにも酷いことなんだ。理子、私も闘うから……、絶対負けないから……!
「……私、何か間違ってるのかな……? 私がおかしいのかなぁ……?」
「おかしくなんかないさ」
「……」
「おかしくもないし、間違ってもいない」
会長が、その透き通った声を言葉にのせる。
「迫る問題に立ち向かおうとした気持ちも、人を巻き込まずに1人で背負い込んだことも、何も間違ってはいない」
「生徒会長……」
「それが間違っているという世界なら、そこで生きている必要だってない。正しいことをしている人間が、間違ったことをしている人間に負けるはずがないんだ」
会長の会長らしいその言葉が、今まで張りつめていた理子の心を和らげる。理子の綺麗な瞳から溢れる涙が、心に突き刺さる。もっと泣いてもいい。綺麗な顔がぐしゃぐしゃになるまで泣いたっていい。明日からまた思い切り笑う為に、死ぬほど泣いたっていいんだ。
「まだ君は屈してなんかいない、負けてもいない。自分を信じて、想いを貫き通せばいい」
「はい……!」
『逃げてもいい』とか、『頼ればいい』とか、そんなセリフが出てこないのが会長らしい。理子がこれまで我慢してきたことを、そんな一言で無駄にしたくないのだろう。
「闘っているのは君だけではないんだよ。なぁ、江藤君」
「……そうだ」
腕を組んで黙っていた江藤が口を開いた。
「……悪い奴ってのはよ、人が悲しんでるのが大好きなんだ。自分がそいつより強いと勘違いして舞い上がって、何度も何度もつついてくる」
「……うん……」
「でも、そういう奴らは正真正銘の大馬鹿野郎だ。虫が弱いと知って食い漁る鳥は、いつか虫を食って悶え死ぬんだ。毒持った虫を噛み潰してな」
「……うん」
「何も知らねぇ馬鹿野郎を、ぶっ潰してやろうぜ」
「え、江藤君……」
江藤が、笑った……。これから始まる闘いを自分が制すると言わんばかりに不敵な笑みを浮かべている、という訳でなく、ただ目の前で泣きじゃくる理子を元気づけるように。
「理子、ごめんね……。力に……なれなくて」
「ううん……」
そんなことない、と言いたげな表情で首を横に振る理子。でも、私が何もできていなかったのは事実。綺麗な言葉も、力強い励ましも送れないけれど、これだけは言わせて。
「私が、傍にいる」
「……うん!」
涙で化粧が崩れても、こうやって笑顔になればもういつもの理子がいる。大丈夫。もう泣かせないから。
会長は花瓶に挿してある菊を手に取り、理子に向かって言った。
「白い菊の花言葉は『誠実・真実』。真っ直ぐで偽りのない君にぴったりじゃないか」
どうしてこの人はこうも恥ずかしいセリフが言えるのかね。ん? そういえば前も同じことを思ったような気がする……。
「そして濃色の菊の花言葉は……」
「……」
「『私を信じてください』」
そう言った会長の目を見つめ、理子は大きく頷いた。そう、信じていて。