2 (5)
待ちに待ったあの最終巻を二日で読破したはいいものの、この本を江藤に返すタイミングが掴めないが故に、気になったあのことも聞き出せずにいる私を内気で健全的な女子高生だと思いたい。
私がもし緊張して男子とうまく話せないシャイな女の子だったなら、借りたものを返しそびれてしまっても許されるような気がする。
もっとも私にいたっては緊張が原因で口数が少ない訳ではなく、ただ単に不必要な言葉を並べてお喋りに興じることをあまり得意としていないというだけ。聞く方なら全く苦痛も感じないし苦手意識もないんだけど。
登校時、10分休み、教室移動、授業中。今この昼休みまでの時間では無理だった。おそらくこの後も声がかけられずに時間が過ぎてしまう可能性は高い。
こう言っているとなんだか私がグジグジしていて情けないようにも思えるけれど考えてもみて欲しい。
外見からはとても『いい人』とは受け取れないチンピラのような風貌に、クラスはおろか学校中の人間を寄せ付けないその冷たいオーラ。近寄りにくい人物としての表現方法やその理由は溢れるほどなので割愛するが、そんな江藤だ。
気軽に気楽に声を掛けて用事を済ますなんてことができる人間なんて会長くらいのものなんじゃないか。少なくとも私には難易度の高いシナリオだ。
そうだ。会長に頼めばいい。やり方はアンフェアかもしれないが何より確実な方法だろう。何より今日渡せなかったとしたら話は来週までもつれ込むことになる。
そう思った私は、今のうちに会長にことの流れを伝えるべく生徒会室に向かった。
「お疲れ様」
会長はいつものように、そして当然のように定位置に腰かけていた。
「今日も君がこの時間にここに来る気がしてね。新学期はなかなか勘が冴えているようだ」
「本当はいつもいるんじゃないですか?」
「そんなことはないさ。昼休みに生徒会室を利用するようになったのは今月からだ」
そんな会長の冴えた勘を無駄にしない為にもしっかりとお願いをしておこう。今から伝えることが我が儘な行為はでないと思いたい私の言い訳。
「いいよ。君の頼みは断れない。いや、断りたくないのかな」
言い直したことに特に意味はないだろう。あまり考えすぎると火傷を負うというのが会長にまつわる噂でもあるのでそこは気にせずに置いておく。
頼りがいのある笑顔をした会長は、席を立つと私と一緒にクラスまで来てくれた。
クラスの入り口に立つといつものひそひそ話が少しばかりうるさくも感じたがここでそのノイズに反応している暇はない。もう既に会長が江藤を呼び出したところなのだから。
「忙しいところ申し訳ないね。少し用があって」
「なんだよ。別に忙しくはねぇけど」
「僕じゃなくて岡本君が、なんだけどね」
ここまで来てようやく気付いたのだがこれじゃあ私が直接江藤に話しかけているのと大して変わらないような気がする。というより変わらないだろう。会長に本を手渡しておけばよかった話じゃないか。
いや、ここは前向きに考えよう。話を切り出すタイミングを会長に作ってもらったと思えばいいんだ。
「あぁもしかして本のこと?」
先に言われてしまった。
「お前もう読んだのかよ。家に帰って本読むだけの生活でもしてんのか」
「……違う! じゃあ返すからね! ありがとう!」
習慣だろうか。無意識に言いたくもない礼の言葉を発してしまった。こんな奴に。
「礼はもっとおしとやかに言えよ。いつも静かなくせに」
あぁ腹ただしい。なんなんだこの男は。もっと普通に『どういたしまして』とか『気にするな』とか言えないのか。もう二度と借りなんか作るもんか。
「用はもう済んだのか?済んだなら戻るけど」
「あ、僕からも話があるんだ。というより今話したくなった」
「なんだよ。手短に頼むぜ」
「何があっても、君の退学だけは勘弁だからね」
「あぁ、わかったよ。そんなことはしねぇさ」
会長は江藤にそう伝えると満足気な笑みを浮かべて江藤に手を振り、江藤は振られた手を振り返さずに教室に帰って行った。
「彼はやはり誠実な人間だ。素直ではないかもしれないがね」
会長のその澄んだ目に『誠実でない人』が映ることはあるのだろうか。どんな極悪人も会長の目というゴーグルを通して焦点を当てれば『疑いのない善人』に見えてしまうのでは。
「もう特に困ったことはないかい?」
当り前のようにそう聞いてくる会長の性格に少し困惑する私がいて、少し安心する私がいた。困ったことと言えばその少しの困惑に尽きる。
そしてその少しの安心を大切にしまっておく隙もなく、5時限目の悪夢が始まろうとしていた。授業内容が理解不能な訳でもない、強力な睡魔に襲われている訳でもない。次の授業はホームルーム。そう、担任の川崎と不良の江藤のバトルが繰り広げられる可能性を感じるのだ。
「席に着けー!」
いつものように大きな声で教室に入ってくる川崎。体育教師特有のその力強さは、授業中においてはハッキリ言って無駄なものでしかない。それどころか頭に響いて迷惑ですらある。その辺の自覚がないところがこれまた迷惑である。
「えー、今日はちょっと図書委員会のほうから連絡事項があってなぁ」
大抵の場合、生徒にとって委員会からの連絡事項とはどうでもいいことである。私の所属する生徒会からの連絡事項も、おそらくこのクラスの誰にとってもどうでもいいことなのだろう。
「最近休んでる山本の代理で図書委員の仕事を山本が登校するまで手伝ってもらいたいんだが、誰か自分がやってもいいっていう奴はいないか?」
その前に山本が図書委員だったという事実を今日この日まで知らなかった。正確に言えば『忘れていた』になるだろうけど、委員会決めの際に他の生徒の配属について興味を持たなかった結果だろうから、知らなかったでも間違いではないだろう。
まぁそんなことはどうでもいいけど、案の定誰の手も挙がらないね。そりゃそうだ。放課後や昼休み等の課外時間に、わざわざ学校で決められた活動をしたいなんて思っている人間がいれば今頃生徒会も賑わっているだろうし、生徒会選挙も実施されているはず。そういった真面目な人間が集まるような学校ではないから仕方がない。
それでも中には極稀に会長のようなタイプの人間や私のような暇を持て余した人間、ノーと言えない人間や貧乏くじを引く人間がそういった面倒な活動を引き受けてしまうのだが、これがなければバランスも何もない滅茶苦茶な学校となってしまう。
かろうじてバランスをとっているように見えるその裏には、今も前の席でふてぶてしく座っている金髪を生み出すような環境もある。特進科の平和な日常が羨ましく思える日も少なくはないのだ。
「誰もいないってのは困るなぁ」
そんなことを言われてもこちら側も困惑するばかりだ。もし30分程の沈黙が続けば、さすがに誰かが折れてその手を挙げるだろうけど、今はまだ誰1人として立候補する気配はない。
そもそも図書委員の代理の仕事とはなんだろう。新しく入る図書の管理や、図書室の貸出管理、図書室の掃除とか? 本に囲まれる生活なら悪くはないけれど、読む時間が削られては元も子もないというものだ。
「誰も希望者がいないとなると図書室の利用が少し不自由になってしまうなぁ」
なんと。そんなまずいことがあるのか。
余談も混じるが、私にとってこの学校の残念なところがいくつかある。職員室までの異常な距離、冷暖房のない教室、そこまで偏差値も低くないのに特進科の高偏差値のせいで馬鹿に見られる普通科。
そんな残念な一面があるこの学校で唯一、私が評価しているのはかなり質の良い図書室である。
おそらく全国でも三本の指に入るであろう本の貯蔵量の多さは実に中学校のときのそれの20倍近くはあり、新刊の入荷も非常に早い。どこにそんな予算があるのかは知らないが生徒のリクエストがあった本は大抵1週間後には入荷されている。面積は軽く教室の5倍以上、冷暖房完備、そして基本的に自由開放。どうしてこの図書室を受験生たちに売りにしないのかが謎だ。
そう、私にとってはまさに心のオアシス。読みたい本は本屋で探すよりも楽だし何よりタダ。1学期はほぼ毎日のように通って色々な本を読み漁ってきた。この学校の図書室の本を全て読むことはおそらく不可能だけど、卒業までに推理小説の類は制覇しておきたいものだ。
そんな心のオアシスの利用が不自由になるということは相当まずい。何がどう不自由になるか聞いておきたいところでもあるが、どんな不自由があっても困ることに変わりはないだろう。
「誰もいないなら私がやりますけど」
いつぞや生徒会に立候補した時と同じセリフで私は手を挙げた。生徒会のこともあるが、代理ということなら本業に差し支えはあるまい。そこは職員のほうでも気を使ってくれるだろう。
「おお。岡本か。生徒会のほうは大丈夫か?」
「図書委員代理の活動内容次第ですけど」
「それならおそらく問題はないな」
さっきまで曇っていた川崎の表情が緩んだ。代理が見つかって一安心というところだろうが、それなら山本が学校に来るように説得するとかそういった教師の役目を果たす方が優先なのでは? その辺の考え方は異なるものがあるんだろうけども納得はいかない。
しかし納得がいかないからといってこのまま図書室を不便にしてしまうのはまた違う話だ。それだけは全力で阻止させていただく。
「おい。やめとけよ、図書委員なんてよ」
――江藤だ。
座る向きを少し変えて私のほうを向く江藤はいつもより格段に目つきが悪い。まるで私に対してメンチを切るような……。
「生徒会に支障がねぇだと? お前は二足草鞋を履けるほど器用な人間かよ」
「江藤! 何わけのわからないことを言っているんだ!」
「うるせぇんだよ!!」
江藤が、怒鳴った。
これまで何度かこのような空気に包まれる場面はあったのだが、決まって言葉を発するのは川崎だけだった。江藤はどれだけ反抗心を剥き出しにしても言葉を発することはほぼ無いに等しく、今のように怒鳴ることなんて絶対になかった。
「おい副会長さんよ。お前は生徒会を裏切ってまで図書委員やりてぇのか?」
「何言ってるの。裏切るってのとは違うでしょ?」
「いつも生徒会室で先に待ってるアイツを更に待たせるってことだろうが!」
何? この男は何が言いたい? いくらなんでも大袈裟ではないだろうか。たかが欠席生徒の代理をするだけで、何をこんなにムキになる必要があるのだ。
「江藤! いい加減にしろよお前!」
「黙れつってんだろ!」
額に青筋を浮かべる川崎に江藤はいつになく反抗的に向かう。ここまで怒るなんて、今日は機嫌が悪いのだろうか。
そしてその突然の出来事に教室の時が止まったように沈む。静寂が神経を過敏にさせ、緊迫が神経をチクチクと突いてくる。冷たく、痛々しい空間。切り裂くように江藤が小さく呟いた。
「……アイツをもう1人にするなよ」
「はぁ? 元はと言えばあんたが1人にしたんでしょ?」
「うるせぇよ! とにかく俺は認めねぇ!」
「勝手にすれば」
もう本当にこの男は嫌だ。遂に私にも直接被害が及んだということか。教師が手を焼く様子は見てきたけど、自らが被災地となるとまた違った感情が生まれてくるものだ。腹が立つ。
「江藤!!」
川崎は怒鳴り散らしながらこちらに詰め寄ってくる。正確には江藤のほうにだが、そいつが私のすぐ前に位置するわけだからあながち間違いではないだろう。
その真赤な顔で江藤の目の前に仁王立ちする体格のいい教師。
「なんだよてめぇは」
江藤が立ち上がり、迎え撃つ。
川崎の方が少しばかり背が高いが、江藤のその今時のヤンキースタイルが暴力的な雰囲気を醸し出す。1年前の事件はこのような2人から起こったものだというのか。事件の全貌は知らないが、今ここで戦闘を繰り広げられても大迷惑だ。
「なんだその態度は! 授業を妨害するだけでなく、反抗しようっていうのか!?」
「てめぇマジでぶっ殺されてぇのか!!」
まずい! 止めなくては! 今目の前で火花を散らす2人。
会長から聞いたあの事件の再来は誰も望んでいない!
……でも、どうして声が出ないんだ……。止めたいのに。止めたいのに!
会長だったらこの場面……どうする? 冷静に考えろ、私。学校の平和を守るのも生徒会の役目じゃないか!
「口の利き方を考えろ馬鹿者!」
「てめぇに聞いてやる利口な口なんかねぇよ糞が!!」
止めて……。江藤、何を考えてるの……?
「この糞餓鬼……!」
「離せ! 汚ぇ手で触んなよ!!」
「職員室まで来い!」
「ふざけんなよ! 誰が行くか!」
襟首を掴まれた江藤はそれを振りほどこうとする。江藤を無理矢理にでも引っ張ろうとする川崎は必死にドアの方に連れて行こうとしている。
止めたい……! でも……『怖い』!
何度も壁に叩きつけられるように揉み合う2人。黒板の桟から落ちたチョークは踏まれて粉々になり、壁の掲示物も破れている。
――誰も、止めない。
この状況に泡喰らったようにポカンとしている様子の者、怯えるように俯く者が視界の端に映る。どうすればいいのか、わからない。
「てめぇ! 殺すぞ!」
江藤が川崎の胸倉を掴み、壁に叩きつけた。
……止めて!
次の瞬間、鼓膜を嫌に刺激する、ガラスが叩き割られるような酷い音が教室に響いた。