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江藤と担任教師の川崎との間にある確執は平穏な高校生活を送りたい私にとって迷惑でしかない。昨日の遅刻の一件で少しはおとなしくなったのだろうか。できればもうあのような心臓に悪いトラブルは控えて欲しいものだ。
昨日あれだけ雨を降らせた天も、今は満足したように雲ひとつない快晴が広がっている。教室の空気もこの空のように濁り気のないものだったらどれだけ幸せだろう。
「江藤! いい加減返事をしたらどうだ!」
幸せとは願っているだけではやってこないものである。
今日も朝から教師対生徒の戦場となる我がクラス。どうしてだろう。非があるのは確実に江藤の方なのに、何度も教室で怒鳴り声をあげる川崎のほうが鬱陶しく感じるのは。
江藤は怒鳴られても怒鳴り返すことはない。基本的には静かに冷たく睨み返すか、鞄を床や壁に叩きつけるかの二択だ。彼が復学してから何度か見ているこの光景そのものには少し慣れたが、そのやりとりがいかんせん不快なものであることは変わりない。
江藤は何故この様な不良になったのだろうか。会長曰く見た目はかなりの変貌を遂げていて、人格はほとんど変わっていないとのことだけどそれは会長の基準でしかない。少しずれた感覚を持つ会長の言葉を鵜呑みにしていては、私から見える現実とは食い違うところが生じるだろう。もしかしたら江藤は本当に全く現在のままだったのかもしれない。
――今日、会長にもう一度詳しく聞いてみよう。なんてことはないただの暇つぶしだ。
授業中は至って静かで、そのトラブルメーカーに突っかかってくる猛者もいない。むしろそれが静かである理由なのだと思う。
少し変わったことと言えば昼休み。いつも昼食を終えると机に突っ伏して仮眠に入る江藤が珍しく本を読んでいるのだ。
そういえば会長が言っていた気がする。江藤と夏休み最後に会ったのは一緒に図書館に行ったときだと。もし今の風貌で静かな市民図書館に来られたらそれこそまさに場違いで、迷惑甚だしいものだろう。
『真実(下)』
あぁ、私はどうして見てしまったんだろう。江藤が読んでいたその本のタイトルを。ここ最近気になって仕方がなかった3部作小説の続きを何故江藤が今、その手に持っているのだ。
もちろん理由は2部まで読んでいた江藤がその続きを見る為に借りたに違いないが、問題はどうして『江藤が』持っているかだ。
クラスの他の生徒なら一声かけて読み終わった後に貸してもらえばいい話なのだけれども、江藤にわざわざ話し掛けるのは気が進まない。黙って江藤が読み終わるのを待つか、それともいつ返却する予定なのか思い切って江藤に聞いてみるか。
江藤が本を閉じた。その閉じ方は読書好きである私の怒りを呼び覚ますようなものだった。
ページ数を覚える様子も、栞を挟む訳でもなくただパタンと閉じられた3兄弟の末っ子。間違いない。江藤はあの本を読む気がないのだ。
「それ、いつから借りてるの?」
我に返る前に江藤に声を掛けていた。痛恨のミスである。さぁこの答えがどう返ってきても私はその返事となる言葉を持ち合わせていないぞ。どうする、私。
「あ? 停学になった日からだよ」
なんということだ。この男は実に1年もの間学校の図書室の本を所持していたというのか。ということは私の他にも下巻が図書室に返却されるのを待ち続けていた人がいたに違いない。
「随分長い間借りていたみたいね。貸出期間は1週間のはずだけど」
「しょうがねぇだろ。学校に来れなかったんだからよ」
「言い訳はいいわ。とにかくその本を返して」
「ていうかお前、アイツには敬語で俺にはその口調かよ。差別なんじゃねぇの」
「敬語というものは尊敬する相手、もしくは目上の相手に使うものよ」
「嫌な女だな、お前。ほらよ」
江藤は表情を渋らせながら本を差し出した。今の私は江藤の言う通り嫌な女に違いない。しかしこればかりは譲れないのだ。3部作の小説の最後が読めないということがどれだけ苦痛なことか。最後の30分がカットされているミステリー映画を見せられているようなものだ。
「で、お前それの『(中)』持ってるか? まだ読んでないんだよ」
「もう図書室に返したわ。ていうか真ん中を読んでないのに最後を借りたの?」
「俺がこれを借りた時は(中)がなかったんだよ」
「だったら待てばよかったじゃない」
「うるせぇな。渡したんだからさっさとどっか行けよ」
本当に気に食わない男だ。これのどこが『誠実で頭の良い人間』なんだろう。会長は一体この男のどこを評価しているんだ。もう本当に江藤に話しかけるのはこれっきりにしよう。今回だって一瞬の気の迷いなんだから。
その後はいつものようにクラスメイトとの雑談で盛り上がりながら午後の授業開始のチャイムを聞いた。
「例えばこんな話がある」
放課後の生徒会室で会長は私の質問にそう答えた。
「いつも悪いことばかりしている嫌われ者が、道端に落ちている空き缶をゴミ箱に入れた。すると周りの人間は何故かその悪人が本当は善人なのかもしれないという錯覚に陥る」
それ自体はよく聞く話だけど、それだと会長がその錯覚に捉われているだけのように聞こえる。江藤が悪人ということに変わりがないと認めていることになるのではないのだろうか。
「ではこれならどうだ。1日1回必ず悪いことをする人間が、1日1回必ず人の命を助ける。果たしてこの人間は善人なのか、それとも悪人なのか」
どうだろう。一言で表せるものではない気もする。それよりどうしてその人間がそんなことをするのかが気になって仕方ない。ただの善人でいればいいものを、どうして悪いことをするのかと。
「以前の彼は何があっても悪いことをしない善人だった。口下手で不器用で、少しコミュニケーションが苦手な一面もあったが、人を陥れてやろうなどと考えるような人間ではなかった。感情が豊かで、正義感の強い男」
「会長の話が本当なら一体何が江藤をあのような人間に変えたのかが気になります」
「きっと中身までは変わってはいないだろう。そんな人間が例え悪人の衣装を纏っても、以前の彼をよく知る僕にとっては何も変わっていないように見えるのだよ」
それはきっと会長の独特な捉え方だろう。ごく一般の人間はきっと会長と同じように物事を見ていない。
「善悪は絶対的な基準があるかもしれないが、善人悪人なんてものは人々のそれぞれの捉え方でしかない。少なくとも善人だった者をいきなり悪人と捉えるのには無理がある。どうしてそんなことをしたのだろうと疑問に思うのが先だ」
「では会長はまだその疑問を持っている段階だと?」
「疑問にすら思っていない。彼を信じているからね」
やっぱりそうか。会長が江藤について『人格までは変わっていない』と言ったのは、その内心を見抜いたり、以前と変わらない何かを見たりしたからではなく、ただ単にいつものお人好しな性格から出た特に深い意味のない一言だってわけだ。
私が江藤に持つ嫌悪感は私怨込みの部分も少なくはないけれど、他の生徒もおそらくあの不良を嫌っていると思う。毎日を普通に平和に過ごしたい人間は特に。
「彼はきっと自分の中で譲れないものを守っていたり、見えない何かと戦っていたりするんじゃないかな。理由も無しにあそこまで尖っているとしたらそれはもう反抗期としか言いようがない」
理由もないただの反抗期に一票。そこまでして江藤の肩を持つ会長の真意が掴めない。まぁ元々なんとなく掴めないところのある人であることはわかっていたけどさ。
そして家に帰ると私は早速あの小説を鞄から取り出し、ベッドに転がってその表紙を開いた。
期末試験後に(上)を読み、夏休み前に(中)を読み、始業式にまた(中)を借りて読み返した小説。10月までに図書室に返ってこなければ買ってしまおうと思っていたが、結局待ち切れずに本屋に向かったものの既に絶版となっていたことを知ったあの時の絶望感は忘れられない。
最初に(上)を借りたときにもなかった(下)。続きもそのうち返ってくるだろうからとあまり気にせずに借りた(中)。そして今やっとこの段階まで辿り着いたのだ。3冊の連続ものの小説を読破するのに2か月以上の期間を費やすなんて初めてだ。もしかしたら前回の内容を少し忘れているかも? いや大丈夫。そんなことがないようにと、新学期明けてからもう一度(中)を借りたんじゃないか。
しばらく読み進めているうちに窓の外が薄暗くなってきたことに気付いた。
9月の半ばに差し掛かろうとしている今は真夏に比べて日が短くなり、夜になるとほんの少しだけ涼しい気がする。
これは私だけかもしれないが、8月と9月にそれぞれ抱く季節的なイメージには相当の違いがある。9月と11月にはそれほどの差はないのだけれども、11月と12月にはまた大きな違いを感じる。
実際のところは8月と9月よりも、9月と11月の方が季節的な変化は大きい。気温、植物、虫などの生物の活動、衣服、食などで比べれば一目瞭然だ。
しかし私の中ではどうしてだろう、3月から5月までが春、6月から8月までが夏、9月から11月までが秋、12月から2月までが冬という感覚が既に固定されているのだ。暦の上では立春だとか夏至だとかいうけれども、そんなものは人間の感覚には全く当てはまらない。
風が冷たいのかと気になって少し窓を開けてみようと思い、一度本を閉じようとしたそのときにふと気付いた。
一番後ろの空白のページの隅に『江藤』と三文判が押されている。しっかりとまっすぐ押されたその印は、大分時間が経っているものに見えなくもない。
――学校の本を自分の物にしようとしていたのか? そうだとしたらもう紛れもない悪人だろう。会長の言葉をまだ少しは信じていたいのだけれども、この印を見るとなんだか複雑な気持ちになる。
そこでもうひとつ気づいたのだが、この本には学校の図書室特有の貸出ナンバーが書かれたテープが貼られていない。剥がせば表紙に大きな後遺症が残るであろうあのテープ。その後遺症もないということはこの本が学校の図書でないことを証明していることになる。
この本は江藤個人の所有物なのか? まぁあり得ない話ではないだろうけど、何故この本を江藤は偶然にもあの場で持ち合わせていたのだろうか? いや、だとしたら教室での『借りたときがなんたら』という会話もかなり不自然なものになる。
……ふとひとつの考えが浮かんでしまった。が、それはそれでなんとなく嫌に感じる点もある。まぁ深く考えず気にせずとも問題はないし、もしこれが江藤の所有物なら急いで学校の図書室に返却する必要もないから気が楽なことは確かだけど。
開けた窓から生ぬるい風を感じた。