転移点へ
健二が住んでいるウジャの町からこのバスクへ移動するのには、セーオムというバイクタクシーを使った。
他にもセーブイッという大勢の人を運ぶバスのようなものもあるのだが、それは蛇腹状になった金属で二つの客車を連結して運行しているため、スピードが遅い。
元の世界へ帰れなかった時のことも考えて、健二は一泊二日の予定で『転移点』を探すことにしていた。
「お疲れさん、ここがバスクのタクシー乗り場だよ。お客さん、どこかへ行くんなら、俺がこのまま連れて行ってやるぜ」
気のいいバイクタクシーの兄ちゃんにそう言われたが、健二は誰かに知られる危険を冒すつもりはなかった。
「ありがとう。でも、この近くに友達が住んでるから」
「ふーん、そうか。じゃまた、何かあったらよろしく!」
健二がヘルメットを返してお金を払うと、兄ちゃんは営業所に歩いて行った。これからウジャ方面へ帰る客を探すのだろう。
その隙を見て、健二は客待ち姿の他のバイクタクシーをつかまえた。
「これからフソウに行きたいんだけど」
「ああいいよ。もう橋も通れるようになったしね」
バイクは健二を乗せるとすぐに、その場から急発進した。今度の運転手は見た目は大人しそうだったが、スピード狂らしい。
これは遠慮してつかまっていたら振り落とされるな。
健二は、運転手のガタイのいい腰にギュッとすがりついた。
男の二人乗りって、なんだか悲しくなると思うのは健二だけなんだろうか。日本にはバイクタクシーなんてないからなぁ。
バスクは川の下流にある大きな町なので、架かっていた橋も立派なものだった。
これだと橋が通行不能になっていたといっても、一部が少し壊れただけだったのだろう。
健二が渡ったあの眼鏡橋は、全壊してしまったので、いまだに復旧の見通しがたっていない。トーサンは国の援助が決まらないと、工事を頼むこともできないと言っていた。
古い橋だったから、あの橋が再び渡れるようになるには何年もかかるんだろうな。
バイクは四車線もある幅の広い橋を一気に渡って、川沿いの土手道を今度は上流の方へ向かって走り始めた。
そう、健二はウジャの町から見て川向うにあるフソウの町を目指していた。
あの壊れてしまった眼鏡橋を渡るとすぐにある町らしい。健二がこの世界に来た時には大雨が降っていたので気づかなかったが、橋を渡らなくても竹藪のある坂を降りていけば町があったようだ。
日本での町の位置取りが頭にこびりついていたので、あの時は橋の反対側に人家を探そうという気が全く起きなかった。
でももしフソウの町の方へ行ってたら、トーサンにもチャンにも会えなかったんだよなぁ。
そのことを考えると、眼鏡橋を渡っていて良かったのかもしれない。
川の向こうに今朝出てきたウジャの町並みが見えてきた時、バイクは土手を降りて川から離れ、フソウの町中へと入っていった。
「町のどこへ行くんだ?」
運転手が風に負けないように大きな声で健二に聞いてきた。
「川に一番近いタクシー乗り場に行ってくれ!」
「ああ、わかった!」
フソウの町はどちらかというと村といってもいいぐらいの規模で、人家は少なくてタクシー乗り場もさびれていた。
うーん、これは一泊二日ですむだろうか?
いや、日本に帰るつもりで部屋も片付けてきたし、トーサンたちへわかるように手紙も置いてきたんだろ。
「おい、お客さん! 着いたよ」
「……あ、ありがとう。あの、ここのタクシー乗り場って、普段は人がいるのかな?」
「うーん、俺はここには滅多に来ないからよくわからないな。フソウだといつもはもっと西の方のタクシー乗り場に行くことが多いから」
「そうか。じゃあ、チップをつけとく」
ここでは戻りの客は拾えないだろう。健二は運転手にちょっと多めの運賃を支払った。
運転手は嬉しそうに健二に礼を言うと、爆音を響かせてもと来た道を走っていった。
「さてと、行くか」
健二は背中のリュックサックから出した帽子をかぶって、川土手を目指して歩き始めた。
蝉のような虫、コンチュンの降るような鳴き声が、夏の山々から聞こえてきた。
健二の背中がじっとりと汗ばんできた時に、やっと川の土手までやって来た。
鬱蒼と茂った竹藪の坂を登りきると、夏の強い日差しの中に眼鏡橋の残骸が見えてきた。
レンガ造りの黒い橋脚だけが、ポツンと川の真ん中に残っている。橋の両側はまるで巨人にでも引きちぎられたかのように木やレンガがむき出しになっている。橋を支えていた太い木は、途中で折れて川に突き刺さったままだ。ここ三か月の間、雨風にさらされていたので、木肌は灰色にくすんでボロボロになっている。今にも崩れて流されていきそうだ。
川はあの日の濁流が嘘であったかのように、涼やかに大人しく流れている。鷺に似た白い鳥が一羽、魚を探して浅い水辺を歩いていた。
健二は目に焼き付けるようにしてしばらく対岸のウジャの町を眺めていたが、やがて上流に向かって歩き始めた。
山道はだんだん狭くなり、西側の崖が健二の歩く道へ迫ってくるようになってきた時に、木陰を見つけて弁当を食べることにした。
こんな道だとは思わなかったな。全然、日本の道とは違うじゃないか。
それに気づかなかったなんて、あの時はだいぶパニクッてたんだろうな。
食料は全部、保冷バッグに入れてきたので、朝早くこしらえた弁当がまだひんやりとしている。
健二は川のせせらぎを聞きながら、ニンニク醤油で下味をつけた鶏の唐揚げを一口でパクリと食べた。
「美味い! 俺もますます腕を上げたな」
ほどよい砂糖の甘みもあって、疲れた身体に力が戻ってくるのがわかる。
梅干しとおかかのおにぎり、それに新ショウガの甘酢漬けを入れた卵焼きもある。野菜はキュウリの塩漬けだ。デザートはプチトマトと、チュオイと呼ばれているバナナを三本持って来た。
プチトマトとバナナはこれからのことも考えて、一つだけ食べて残りは保冷バックにしまった。
食後に、水筒に入れてきたハイボールを一口飲むと元気が湧いてきた。
「よーしっ、もうひと頑張りするか」
けれど異世界からやって来た場所に近付くにつれ、健二の心の中は焦りと不安でいっぱいになってきた。
この異世界で死ぬまで生きていくことを、現実のものとして目の前に突きつけられてしまうのは辛い。いやしかし、もしかしたらすんなりと帰れるんじゃないか?
さっさと走って行って早く日本に帰りたいという急くような気持ちと、もし帰れなかったらどうしようという恐怖、そんな二つの思いがせめぎ合っていた。
しかしどんな気持ちになろうとも、確かめなくてはならない。
そうしないと自分はどこにも進めないだろう。
「ここだ。ここ……だよな?」
見覚えのある猫の額ほどのスペースと崖下の藪が、健二の目の前にあった。
「神様、もしいるんなら、俺を元の世界に返してくれ!」
健二は震えながら手を合わせ、神に祈ると、勢いのままに崖下の藪に入っていった。
クッ………………!
道がない。
いや、もう少しこっちの方だったかもしれない。
健二は角度を変えて何度も藪の中に突入したが、そこに生徒の家へ向かう崖沿いの道が現れることはなかった。