引っ越し
会社を起業すると決めた時に、こんなことになるとは思ってもみなかった。
この世界では「タントゥーチン(9番目の月)」という言い方をするが、健二の頭の中では9月という認識だ。
その9月1日のことだ。
健二は虫の声が聞こえてくる庭の方に向いたソファに座り、昼食を食べていた。メニューはアサリとトマトのボンゴレスパゲティーだ。そばには冷えたコップになみなみとつがれたミント入りのレモンサワーがある。中に入れている氷のせいで、コップの外にはびっしりと水滴がついていた。
スパゲティーソースに入れたニンニクバターと白ワインが、アサリやトマトのコクのある味に、より深みを与えてくれている。湯気と一緒に食欲をそそるニンニクの香りが漂っていた。
そんな貝と野菜の出汁が効いた美味い汁を、たっぷりと吸ったスパゲティーは、腹が減っている昼ご飯にぴったりだ。
スパゲティーを一口食べると、すかさず冷たいレモンサワーをごくりと飲む。
弾ける炭酸の刺激が、シュワシュワと喉を通っていった。
ああぁ、うまい! うまいが……明日からは仕事かぁ。
最初に休暇に入った健二研究チームの人たちが、明日から再びこの町へやってくるそうだ。
朝、その連絡を受けて、健二はがっかりした。
チームリーダーのソンバック博士は、一か月の休暇だと言っていたが、健二はトーサンと同じで、結局は二週間ほどの休みだったことになる。
早めに転移点を探しに行っといてよかった。後回しにしていたら、行けなくなるところだった。
オウさんは研究チームの中でも一番乗りでこちらへ帰って来たらしい。健二に話があったからだろう。
そのオウさんは、健二が会社を興すことに同意した途端、首都のエボルシオンへの引っ越しを勧めてきた。
「情報という面ではバーバルがあるため、世界中どこに行こうと遅れはとらない。しかし流通や企業連携の面では、どうしても首都にいた方が便利になるんだよ。我が家の敷地内に別宅があってね、そこなら家具も揃っているから、身の回りの服なんかを持ってくるだけですぐに生活できる。どうだい?」
どうだいって言われてもねぇ。
あまりに何もかもがスピードをあげて変化していくような怖さを感じる。
けれどいずれ首都へ出ていかなければならないのなら、知り合いが近くにいるというのは安心なことだし、家具を揃えなくていいというのは、資金の面でもとても助かることだ。
健二は少し考えた後で、思い切ってオウさんの気持ちに甘えることにした。
もう後戻りはできないぞ。
背水の陣をしいたような気分だった。
でもなぁ、最初にこの世界にやってきた時に受け入れてくれたこのウジャの町には愛着がある。それにトーサンやチャンと別れることになるのが一番つらい。
健二はレモンサワーをグイッと飲んで、庭の向こうのサオの家を見た。
サオさんにも会えなくなるなぁ。
翌日、健二が庁舎に出勤すると、いつもの部屋にもうチャンが来ていた。
どうやら早めに出勤して、健二が来るのを待ってくれていたようだ。
「スィンチャオ、健二」
「チャン、久しぶりだね。スィンチャオ!」
健二がカバンを置いて、筆記用具を取り出すと、チャンは椅子に座ったまま健二の方へ身体を向けた。
「オウさんから聞いたんだけど、エボルシオンに引っ越すんだって?」
「情報が早いね。うん、そうなりそうだ。この町には愛着があるけど、会社をやるにはやっぱり都会に行かなくちゃならないみたいなんだ」
「そうか、寂しくなるな。でも、国の調査が済むまではこっちにいるんだろ?」
「ああ、たぶんな。でもどうなんだろう? ソンバック博士が戻ってこないとどうなるかはっきりしないけど、国の研究者の人たちは首都に住んでるんだろ? 僕が早めにあっちへ行ったほうがいいのかなあ」
チャンは少し考えていたが、健二の肩をつかんで顔を寄せてきた。
「調査が終わるまではこの町にいてくれ。途中で予定を変えると宿泊手続きとかが面倒だしな」
「そうか。それならそうさせてもらうよ。この町が好きだから、できたらずっと住んでいたかったのもあるし。なんだか離れがたいんだよなぁ」
「隣に可愛い子もいるしな」
「な……なんでそんなことを知ってるのさ?!」
健二がうろたえると、チャンは訳知り顔をしてフフンと笑った。
「国の研究者が来る前に、健二と飲んで話したことがあるじゃないか。君が言ってた理想の女の子に、隣の子はそっくりそのままだよ。家庭的で、歩きっぷりがよくて、笑顔が可愛くて、それからなんだったっけ……」
「ストップ! 待て、朝っぱらから顔が赤くなるじゃないか」
こいつ、七三分けの内気な真面目君だと思ってたけど、見た目詐欺だな。
相互の意思疎通ができるようになると、よくしゃべる社交的な男だということがよくわかった。元の世界でいうとちょっと暑苦しいテニスプレーヤーによく似ている。
「チャン先生、宇宙物理学者のマッチャン先生がいらっしゃってますけど、もうお通ししていいですか?」
ドアがノックされて、受付の女の子が声をかけてきた。
「はいっ、いいですよー」
さぁ、これから仕事が始まるようだ。
今日も通訳として一緒に調査に付き合ってくれるチャンと、チラリと目で合図し頷き合う。健二は気を引き締めて、研究者との仕事に取りかかった。