プロローグ
ひどい土砂降りの雨の中を、健二は黒い傘にしがみつくようにして歩いていた。
ここまで降るとは思ってなかったな、ズボンの裾の方は、ビシャビシャだ。
車まで行くとタオルがある。とはいえ、まだ家庭訪問をする家が残っているので、こんなに服が濡れてしまうと、家の中に入りにくい。
まいったなぁ。
さっきから重量のある大きな雨粒が、バタバタと打ち付けるように傘を揺らしている。
健二は雨に押されてしまわないように、滑りそうな傘の柄を両手でしっかりと握り直した。
今日は学校から一番遠いクラスの生徒の家に家庭訪問に来たのだが、彼の家は細い山道を五分ほど歩いて登っていかなければならないようなところに建っていた。
家庭調査票の地図を何度も確認しながら崖下の小さな駐車場に車を止めた健二は、ヒイヒイ言いながら雨で滑りやすくなっていた山道を歩き、何とか家庭訪問を終わらせてきたところだ。
いつもニコニコと笑顔を絶やさない生徒のまん丸い素朴な顔が頭に浮かぶ。
あいつ、いつもこんな道を歩いて通学してるのか。よく頑張って学校に来てるな。
こういう生徒の家庭環境を身に染みて知るのも、家庭訪問の目的っちゃあ目的だよな。しかし…教師っつうのもハードな仕事だよ。
足元の悪い山道を注意して下り、健二はやっと駐車場までたどり着いた。
けれど……。
あれ…?
車がない??
崖を削ってバラスを敷いてあった猫の額ほどの駐車場に、健二は20分ほど前にパジェ〇を止めたはずだ。
おかしい。
確か、上り路のすぐそばに車を止めたはず…。
前がよく見えないような雨の中を、健二は車を探してウロウロと歩き廻った。
しかし、乗ってきた車は影も形もなくなっている。
駐車場の前はアスファルトの県道だった…よな?
しかしなぜか今は、デコボコした土のままの山道になっている。
それに町から車で登って来た時よりも、道幅が狭くなっているような気もする。
こんなことあるか?!
川は? 道沿いにあった、成瀬川は?
健二は慌てて道の向こうにある崖を覗き込んだ。
ホッ、よかった。川はあるのか。
川の上流でも雨が降っているのだろう。盛り上がった濁流はゴウゴウと音を立てて下の方へ流れていっている。
車が雨で川に流されたということか?? まさかな……
健二はもう一度生徒の家に行って、雨宿りさせてもらおうと考えた。
こんな雨の中で車を探して歩き回っていても、どうにもならないだろう。
さっき降りてきた山道に戻ろうとして、崖下に行ってみた。しかしそこには繁った藪があるだけで、さっきまであったはずの道が消えてしまっている。
……おいおい、マジか?
「狐に化かされている」
そんな日本昔話のようなフレーズが健二の脳裏を横切っていった。
健二は引きつった頬をなでて濡れた片手を温めると、傘を肩にかけて胸ポケットから携帯を取り出した。薄暗くて顔認証が上手くいかなかったので、手早く暗証番号を入れてホーム画面を表示する。
短縮ダイヤルで学校にかけたが、繋がらない。
電話機の表示も圏外だ。
それでも一縷の望みをかけて、広い場所を探して川の側まで行き、知り合いに電話やメールをしまくってみたが、どこにも繋がることはなかった。
山奥の電波塔が被害を受けているのかもしれないな。
おい、俺。
本当にそう思ってるのか? そう思いたいんじゃないのか?
神隠し、タイムスリップ、異世界転移……
そんな超常現象に関わる言葉が、ザワザワした胸の谷間から、押さえても押さえても飛び出そうとしていた。
健二は細かく震え出した手で携帯をポケットにしまうと、自分を落ち着かせるように傘の柄をギュッと握った。
とにかく山を降りよう。
そうだ、町に出れば人がいるはずだ。
ここで、ずっと立ってるわけにいかないしな。
健二は川沿いの道を、南に向かって歩き始めた。
崖崩れの兆候を聞き逃さないようにと、頭の中の冷静な部分が忠告していたが、健二の耳にはザーザー降る雨の音とゴーゴー流れる川の音、それにバラバラと傘を打ち付ける雨音しか入ってこなかった。
何時間歩き続けただろう、足が怠くなってきた。ふと川を見ると、川幅がずいぶん広くなっている。中州に生えている木々は茶色の濁流に飲み込まれ、今にも溺れそうになっている。
まだ、雨は降り続いていた。
でも、あの中洲があるってことは、ようやく麓に降りてこれたってことだよな。
それに目の前に見えているこの川沿いの風景は、健二が住んでいる町の景色と同じだ。
健二は何とか山間に広がる深山地区の町並みが見えはしないかとあちこち見回した。
その時、荘厳な鐘の音が聞こえてきた。
ゴーン ゴーン ゴーン ……
鐘は、雨に負けない太い音を山々に響き渡らせながら、やがて鳴りやんだ。
町役場で夕方に流している軽い童謡の音楽ではない。
鐘だ。
これは…………自分が住む町ではないな。
胸の動悸はますます早くなっていき、頭は白くなり、耳鳴りもしてくる。
とにかく「人」はここにも住んでいるらしい。
健二は、勇気を振り絞って、泥のように重たくなった足を一歩前に出した。