抜き打ち診断
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ああ、こーちゃん、健康診断の結果、どうだった? 僕、レントゲンのところで突っ込みが入っちゃったよ。「ブラ」ができているんだって。
下着のことじゃなくて、肺の状態を指す言葉みたい。何でも、肺の壁の一部が風船状に膨らんで薄くなっている状態のことを指すんだって。これが破れると空気が漏れ出して、その溜まった圧力が外から肺を潰しにかかる。これが「気胸」と呼ばれる病気のおこりらしいんだ。
これ、レントゲン技術がなかったら、まず気づけなかったよねえ。昔の人とか、これらも天啓として受け入れて苦しんで、命まで差し出しちゃう羽目になるんだもんなあ。やっぱ今とは違う世界に生きている印象が強いや。仕組みが判明しているせいか、「もっとあがけよ!」と感じちゃうんだよねえ。
健康診断。それは僕たち自身が思ってもいない症状をあぶりだす、奇妙な儀式かもしれない。
僕の兄貴も、昔にこれをめぐって少し不思議な体験をしたんだけど、聞いてみないかい?
学生時代。一人暮らしを始めた兄貴は、好き勝手ができる環境に、大いに羽を伸ばしていたそうだ。休みの日なぞ、昼夜を問わずにパソコンで遊ぶことにふけるのは当たり前。携帯電話も電源を切っちゃって、外部からの接触を遮断。自分の作業に没頭することが多かったんだ。
その土曜日も、同じような流れ。朝からこもりっぱなし。
一週間の中で土曜日は兄貴がもっとも好きな曜日だった。いわく、その日は動く必要がなく、明日も休みだと分かっているから、色々と無理が利く。精神的にも一番楽だとのこと。
で、日付も変わろうかという時間帯。「コツン」とドアポストのあたりから音がした。新しく放り込まれたものがあるらしい。
郵便やポスティングなら、せいぜい午後7時か8時くらいには終わるように動くはず。それが、こんな真夜中にドアポストへ直接投入など非常識の香りがする。普段ならスルーしてポストの中身が溜まるに任せる兄貴だったけど、ちょっと興味が湧いて、のぞいてみたらしいんだ。
投函されていたのは白いはがき。宛名、宛先、郵便番号も書いておらず、ただ下部に、速達であることを示すのと同じ、赤いラインを伴なった文字で「健康診断実施のお知らせ」と横書きで記されてている。
通っている高校で、つい最近、受診したばかりの兄貴。特段、必要なものだとは思えず、そのうえはがきの裏面も真っ白で、実施に当たっての文言とか、実施する場所についての地図とかも印刷されていない。
「リーズナブルないたずらだな」と、兄貴はすぐ脇にあるゴミ袋の上へ放る。玄関入ってすぐは、指定された分別にのっとる複数のゴミ袋を置くのが、兄貴の常だった。
翌日。寝落ちしていた自分に気づく兄貴。時計を見ると、午前8時を少し回ったところ。
陽気によっては起きる時に部屋が蒸していることもあるが、今日は特にそれがきつい。じっとしているだけで、服の中を汗がひとりでに滑っていくのを感じる。
窓はすぐ手近。寝ながら手を伸ばして鍵を外し、乱暴に窓を開けた。だが雨戸まではやや遠く、指先を引っかけてじわじわ開けるよりない。すき間が開き、そこから陽の光がひと筋入ってきたところで。
「カシャ」と、大きいシャッターの音。兄貴は飛び起きた。すぐそばから聞こえたような気がしたんだ。
部屋を見回す。そこには通学鞄や、本棚とその足元に鎮座するビニール袋に入ったままの文庫本たち。クローゼットと、食べ散らかしたお菓子の袋や、飲み干したペットボトルが転がるくらいだ。枕元にはスリープ状態になったノートパソコン。
パソコンにはカメラが内蔵されているけど、自動で撮影する機能はない。遠隔操作ができるソフトも入れていないし、クラッキングの類だろうか。
一応調べてみるものの、素人知識で見た限りでは被害はない。カメラで新しく撮影された画像もない。パソコンに入っている個人情報も、せいぜいがゲームのデータくらい。抜かれて致命的になるものはないはずだった。
それでもあのシャッター音はしっかり耳に残っている。ここで悠長に着替えたり、ゲームをしたりしているような心境でもない。
寝巻のままで、午前中を丸々、家探しにあてる兄貴。動かせるものは本でも棚でも動かして、その裏を見ていくけれど、出てくるのはほこりや食べかすばかり。まだ虫が現れていないのは、幸運かもしれない。
それでも目当てであるカメラの類は見つからず。ましてや人が潜んでいる気配など。結局、掃除するのと変わらない成果で、ちりとりに溜まったゴミたちを件の袋の近くまで持っていって、兄貴は「あっ」と声をあげる。
ゴミたちの上に放ったはがきが、変わっていたんだ。白紙に赤いラインが入っているのは変わらないが、文字が「受胎告知」。
どくん、と心臓が跳ね上がる。震える手ではがきを拾うと、昨日は何も書かれていたなかった裏側を見てみた。
「診断の結果、急遽、しかるべき処置をとることにいたしました。どうかそのままでお待ちください」
表の文字と同じ色、同じ筆跡の縦書きで、ど真ん中に堂々と書き記されていたんだ。
もちろん、待っているつもりなどない。慌ただしく着替えを済ませた兄貴は、貴重な品だけポケットに突っ込み、出かけようとする。部屋の鍵を閉めたら、少なくとも今日はもう戻らないつもりだったんだ。
でも、戸を開けた先にあったのは、緑色に染まった空。一面にコケを生やしたかのごとくで、そのところどころにピンク色の塊が浮かんでいる。おそらくは雲だ。
目に見えるものが、本来の色を失っている。白かったフェンスは紫色、向かいにある某社の社務所の青い屋根が緑色。アパートの塀越しに歩いていく人の顔は焦げ茶色に。いずれも元の色が同じものは、変わった後も同じ色に染まり、本質は変わらないらしい。でもあれに交わりに行こうとは思えない。
さっとドアを閉めたけど、その時、空気も一緒に中へ取り込んでいる。外気の軌跡を示すかのように、白い壁へじょじょに紫色の染みが広がっていく。玄関に置いた自分の靴、そばにあるコンロと出しっぱなしの鍋。シンクもその下のキャビネット部分、ゴミ袋さえもそれぞれの色合いに染まって……。
いや、染まらないものがある。あの届いたはがきだ。世界を塗りつぶしていく波の中で、あれだけは不思議と元の色のまま。
兄貴はもはや土気色に染まった自身の腕を伸ばし、もう一度はがきを手に取った。書かれた文字も赤いまま、「緊急」に変わっている。
裏面。「一刻の猶予もなし。すぐさま治療にかかる」。
次の瞬間、兄貴の身体は勝手に、ポーンと軽く、台所から奥の居間まで吹き飛んだ。畳についた背中はほとんど痛みを感じなかったけど、大の字のまま、のりづけされたかのように動くことができない。色替えの波は、まだ居間までは及んでいない。
電灯がおのずとつき、まぶしさに兄貴が目をつむりかけたところで、また「ドクン」。一緒に身体ごと跳ね上がってしまうほど、強烈な鼓動。
そのまま心臓のひとうちに合わせて、身体は跳びはね続ける。ドシン、ズシンと床を大きく揺らし、先ほど掃除した棚たちも、その動きにならって床から浮いては着地していた。
自分から動けず、兄貴の視界は電灯と、それを囲む天井しか映らない。床のフローリングと同じ材料を使った天井が、台所に近い右端から、じわじわ元の空を思わせる青色に染まっていく。フローリングは、空の色だった。
鼓動は増す。身体は弾む。意識も波に揺られる小舟のように落ち着かず、今にも沈んでしまいそう。夢中で認識する視界の中で、ついに天井の青は電灯を囲い込んだ。
だが白く輝く電灯は、いつまでも紫色に染まる気配はない。それどころか、ますます輝きを増して、もはや直視もかなわない。
「太陽だ」と兄貴は感じた。今、かりそめの空の中に浮かぶただひとつの光源は、自分と畳に余さず光を注いでいる。
もう口を開けば、そこから心臓が飛び出るんじゃないかと思うほど、喉の奥が強く拍動していた。ぴくりぴくりと、唇が震えながら、かろうじてその進軍を押さえている。
電灯が、不意に強く輝く。とうとう完全に目をつむった兄貴は、全身に無数の縫い針を落とされたような痛みが走る。パリンと音がして、顔や胸に細かい破片が散らばる感触。同時に、苛めるような熱とまぶしさが消えた。電球が割れたんだろう。
腕は動く。顔に乗っかる破片たちを追い散らすと、兄貴は目を開く。二重に設置されていた円型の電灯は、予想通り粉々。傘と豆電球のみが寂しげに残っていた。
もう、あの強い鼓動はない。心臓に手を当てて、ようやく感じ取れるほどに弱まっている。視界の色も元通りだ。抜けるような青は消え、フローリングの色が戻ってきていた。
だが上体を起こそうとすると、さっきほどじゃなくても抵抗を感じる。それでも力を入れると、バリバリと背中が解放されると共に、ジュウジュウと泡立つ音が混じってきた。尻から足にかけても同じ。
見ると、兄貴が寝転がっていた跡は、腕の部分をのぞいて黒く焦げ付いていたんだ。それどころか、胸が触れていた辺りだけは大きく白みがかり、表面にあぶくが浮かんだままで固まっている。それは木のベンチの側面や裏側に生える、キノコのかさが連なった形に見えたとか。
それから兄貴は畳をすぐに入れ替えたんだが、例のキノコらしきものに刃を入れたところ、黄色がかった臭い液が吹いたらしい。兄貴自身はかわしたけれど、液が垂れたところはたちまち溶け始めてしまった。入れた刃も同じくで、その日限りでお役御免となってしまう。
例の診断の紙は、鼓動と色の変化がおさまった時、こつぜんと消えてしまっていたらしい。「あのまま放っておいたら何が生まれていただろう」って、兄貴は時々話しているよ。