6.
周囲の空間を満たす霧の濃度が上がっていた。
一寸先も見えない……という程ではなかったけれど、このままだと自動車を動かせないレベルになるかもしれない。
「……どうしたものか……」
ジムニーの運転席に潜り込み、ハンドルに両手を当てて暫し考えた。
このコンビニの駐車場で夜を明かすか?
それが一番の安全策だとは分かっていた。
一方で、一刻も早くこの店の敷地から出たいという気持ちにもなっていた。
理由は、あのロボット店員だ。
『幽霊センサー』とやらを搭載しているらしい、あの赤みを帯びたカメラレンズでジッと見つめられた瞬間の気持ち悪さを思い出すたび、僕は背中にヒヤリとしたものを感じた。
コンビニの駐車場に留まろうか、それとも出て行こうか、と何度か迷った末に「ええい、ままよ」と、僕はエンジンを掛け、フォグ・ライトを点灯させ、ゆっくりと幹線道路へ戻った。
さっきより一層遅い速度で、安全に、安全に、白く濁った空間をかき分けて進む。
万が一、視界の向こうから何か障害物が現れても確実に止まれる低速度だ。
マラソンランナー以上、自転車以下といったところか。
低いギアを使った低速運転は無駄に燃料を食うが、まあ、それも仕方がない。
前方に何か障害物を発見したら直に停車できるよう、フロントガラスの向こうに満遍なく注意を払う。
(ゆっくりと、進むんだ)
ゆるい登り坂の先に橋の欄干が現れた。
そのまま進んで、橋を渡る。
意外に長い橋だった。
こんな長い橋を掛けなければ渡れないような大きな河が、この辺りに有るのか?
(いったい何という名の河だ?)
ナビを起動させて確認しようと思ったけど、結局やめた。
アパートを出てからここまでずっと、ナビは待機モードにしておいた。
『目的地もない自由気ままな旅』を気取りたかったからだ。
終始、ナビゲーション・システムに自分のいる場所を表示されては、何だか興冷めだと思った。
だからダッシュボードの液晶画面に地図は表示されていない。現在時刻がデジタル表示されているだけだ。
突然、後方から走行音が聞こえてきた。
次の瞬間、リアガラスごしに強いハイビームの光が差し込んでルームミラーに反射し、後ろの霧をかき分けて銀色のセダンらしき自動車のフロントグリルが現れた。
円い枠の中に、放射状に三つの腕を伸ばす星のマーク。
(ベンツか)
車間距離が殆ど無い。
銀色のベンツがクラクションを鳴らし、その音がジムニーの車内に反響した。
ベンツは急ブレーキをかけながら右に鼻先を向け、僕のジムニーを追い越して、あっという間に前方の霧の中に消えた。
「何なんだよ、あのベンツ……」僕は、悪態を吐きながら左手で額の汗を拭った。「この霧の中であのスピード……正気の沙汰じゃねぇな」
この濃霧の中、いくら自分が安全速度で前方に注意を払っていても、後方から来る無謀運転車には対処しようがないと気づいた。
やっと長い橋が終わり、ジムニーは坂を下って川向こうの町に入った。
僕は、幹線道路から外れて、名も知らない町の細い道へ入ってみることにした。
住宅街の中にある比較的細い生活道路なら、さっき僕のジムニーを追い越したベンツのような無謀な自動車は無いだろうと思ったからだ。
やはり、この濃霧の中を動き回るのは危険だ、とも思った。
どこか適当な場所を見つけて駐車し、朝まで……あるいは霧が晴れるまでの間……仮眠を摂りたい。
住宅街の道を低速でノロノロ走りながら(ほとんど歩くような速度だ)僕はナビのスイッチを入れた。
この際、『あてもない旅の風情』とか呑気なことも言ってられない。
いま自分が何処の何という町に居るのか? 自動車を駐車させて安全に仮眠できる場所が近くにあるか? とにかく知りたかった。
ナビが起動した。
液晶パネルの地図に表示された町の名は……
「境界県……魔降利町?」
そんな地名が、この日本に存在するはず無い。
日本の自治体、都道府県市区町村すべての名前を暗記しているわけではないが、『境界県』なんてデタラメな県名が実在しないことぐらい小学生でもわかる。
『魔降利町』という町名も怪しい。わざわざ町の名に『魔』などという不吉な文字を使う自治体があるとも思えない。
ナビが狂ったのか? ソフトウェアのバグ?
霧に遮られた狭い視界の中、ゆっくりゆっくり、ナビの地図と前方に見える現実の道とを見比べながら進んだ。
どうやら、地図に描かれている道そのものは正確のようだった。
地名表示だけが、何らかの理由で誤動作しているのか……それとも……
「まさか、この町は本当に境界県魔降利町っていうんじゃないだろうな?」
……ありえない。
……そんなわけがない。
左側に、公園の柵らしきものが現れた。
柵の向こう側に、うっすらと木々が見えた。
まず、公園で間違いないだろう。
しばらく走っても道の左側の柵と、その向こうの木々は途切れなかった。
どうやら、かなり大きな公園らしい。
突然、フロントガラスの向こう、自動車の真正面に人間が現れた。
痩せた中年の女だった。
僕は慌ててブレーキを踏んだ。
歩くほどの速度で運転していたから、霧の中から現れた女に打つかる事もなく、安全に停車できた。
ホッと息を吐きながら、心を落ち着けてフロントガラスの向こうに立つ女を見た。
霧の中から現れたその女は、痩せていて、顔色が悪かった。
ちょうど、さっきのコンビニに居た客と同じような顔の色だった。
……ロボット店員に『幽霊だ』と言われた、あのマツダ3のオーナーと同じような……
女は、虚ろな目で僕を見つめ返しながら、停車しているジムニーを避けて歩き、後方の霧の中に消えた。
僕はギアをニュートラルに入れパーキングブレーキをかけて、しばらくバックミラー越しに女の消えた方を見つめ続けた。
また突然に、前方の霧の中から何者かが現れた。
制服を着た男子高校生と女子高校生のカップルだった。
仲良く手をつないでいる。
こんな真夜中にデートというのも奇妙な話だが、僕をゾッとさせたのは、その顔色だった。
二人とも、コンビニで店員に『幽霊だ』と言われたあの初老の男のような……たった今ジムニーの横を通り過ぎていった中年の女のような、青白い顔をしていた。
高校生カップルは、手をつないだまま、僕のジムニーの横を歩いて後方へ消えた。
そのあいだ、ずっと虚ろな目で、自動車の外から車内の僕を見つめ続けた。
それから何人もの通行人が、公園傍の路上に停車した僕のジムニーの前方から現れ、横を通り過ぎて後方へ消えた。
杖をついた老人、ランニング・ウェアを着た女、幼稚園くらいの女の子を連れた若い母親、ビジネス・スーツを着たサラリーマン風の男……
みな顔色が悪く、虚ろな目をしていて、ジムニーの運転席に座る僕をジッと見つめながら歩いて行った。
僕は、本能的に(やばい)と思った。
何だか分からないけど、とにかく、この町はやばいと思った。