4.
真夜中、僕はジムニーを駆って、住み慣れた大都会から西へ伸びる街道を進んだ。
一般道、いわゆる「下道」だ。
僕のジムニー以外、道を走る自動車は殆ど無かった。
二時間走って、一台すれ違うか、すれ違わないか、という程度だった。
路肩に駐車している車両も殆ど無かった。
わざわざ高速道路に乗らなくても、気持ちよくスイスイと運転できた。
もちろん数百メートルごとに交差点がある。
赤信号なら、青になるまで停止だ。
別に目的地があるわけでも時間制限があるわけでもない。急ぐ理由は無い。
ほかに自動車の居ない夜の道をほどほどのスピードで気持ちよく流すだけで、心地の良い〈孤独〉に、頭の天辺まで浸れる。
商業ビルや量販店の駐車場が現れては後ろへ、現れては後ろへと流れ、やがてそれら都市郊外の建物群も無くなり、いつのまにか街道は深海のような暗闇の中にあった。
等間隔で並ぶナトリウム灯が投げるオレンジ色の光を浴びながら、僕のジムニーは暗闇の中の一本道を西へ西へと進んだ。
バックミラーの中で動く「何か」に気づいて、ミラー越しにチラリと車の後方を見た。
オレンジ色の光の中を、長さ三十メートルはありそうな白い細長い物体が、ニョロニョロと体を波打たせながら、悠然と街道上の空中を横切って行った。
深海魚だ、と思った。
小学校の図書室にあった図鑑で見たことがある。
リュウグウノツカイという魚だった。
僕は思わず目蓋を二度ほど瞬いて、アクセルからブレーキに移した足に慎重に慎重に、少しずつ少しずつ力を入れ、ジムニーの速度を徐々に落とし、街道の路肩に停車させた。
ヘッドレストに後頭部を押しつけ、狭い車内で、すぐ目の前にある天井の裏地を見つめた。
目を閉じた。
二十九年生きて来て、幻覚を見たのは初めてだった。
疲れているのだろうか?
そんな自覚は無かった。
仕事から帰って直にジムニーに乗って長距離を走ったのは、これが初めてという訳でもない。
たかが数時間クルマを運転しただけで幻覚を見る程に疲労するとは思えない。
そもそも、疲労が溜まったくらいで人間の脳は幻覚を見るものなのだろうか。
それとも、自分自身気づいていないだけで、七年間勤めていた会社が今日突然に無くなってしまって、潜在意識に大きなショックを受けたのだろうか?
自覚できない潜在意識の作用で、妙な幻覚を見てしまったのだろうか?
何にしろ、これ以上の運転は危険だと判断した。
今夜はこの場所で車中泊をすることに決めた。
ナトリウム灯が照らす幹線道路の路上に風情も雰囲気もあったものじゃないが、ここで一旦休息を取るのが得策だと思った。
ジムニーを降りて、助手席側へ廻り、ドアを開けて助手席のヘッドレストを抜き、背もたれを倒した。
後席の背もたれは出発の時に既に倒して、荷物を載せてある。
後ろに廻ってリアハッチを開け、中の荷物を運転席側に寄せた。
助手席の座面に木の板を置いて、なるべく荷物室の床面と面一になるようにして、その上にエアーマットを敷き、さらにその上に寝袋を敷けば、立派な車中泊ベッドの完成。
僕の青ジムニーは、4ドアのロング・ボディ仕様だ。
2ドア仕様よりホイールベースが長いぶん、ランプ・ブレイク・オーバー・アングルが減ってしまっている。
つまり、悪路走破性が犠牲になってしまっているということだ。
道なき道を分け入る『真のジムニー乗り』に言わせれば、ホイールベースの延長など言語道断、何たる冒涜……という事になるのだろうが、僕にとっては、オフロード性能が多少低下しても、室内長が伸びて車中泊が楽になるほうが有り難かった。
後部座席の窓とリアハッチの窓を黒い布で覆い、さらに前席と後席の間にも黒い布を下げる。
これで、前席直後からリアハッチまでの空間が完全に車外から隠される。
寝るときはリアハッチ側を頭にして前方へ足を向けて横になる。
助手席の座面に載せた足がフロントガラス越しに外から見える格好だが、上半身が完全に隠れれば、それで良い。
僕は車中泊のための「ベッド・メイキング」を終え、運転席に戻って、カロリーメイトを2本、ミネラルウォーターで胃に流し込んだ。
今夜の食事は、これで終わり。
食料の節約という面もあるが、それよりも、さっさと栄養補給を終えて、さっさと寝たかった。
こんなオレンジ色の光に照らされた幹線道路の路肩じゃ、何を食べても風情が無い。
再び外へ出て、助手席側のドアから中に入り、鍵を閉めて靴を脱いで、「車中泊用ベッド」の寝袋へ潜り込んだ。
三冊だけ持ってきた文庫本のうちの一冊を荷物から出して、枕元に置いた充電式LEDランタンの光で読んだ。
読んでいるうちに眠気を催してきた。
ランタンを消した。
真っ暗になった。
布で覆った車内後部に街灯の光は入ってこなかった。
眼を閉じた。
目蓋の裏側に、先ほど見た、宙を飛ぶ巨大なリュウグウノツカイの姿が浮かんだ。
(結局あれは何だったんだろう?)
そんな思いも直に薄れて、僕の意識は眠りの中へ沈んでいった。
* * *
旅の第一日が終わった。