薬
「坂きっついな。こんな辺鄙なとこに建ってんのかよ」
あの『美馬精神病クリニック』のオンライン診療を受けた二週間後、俺は今度は現実世界でも診察を受けることに決め、こうして自分の足を使い坂道を登っていた。電車を乗り継ぎ、駅から徒歩五分とのことホームページの記載を信じて歩いてはいるのだが、予想以上の傾斜とかかる時間とに、先程からわき腹がさすような痛みを訴えていた。
「どんな健脚なら……、はっ、これが徒歩五分になんだよ……っ!」
俺は額の汗を拭いながら、うんざりして後ろを振り返った。距離としてはまだ大したことがないはずだが、いかんせん、その角度三十度もあろうかという坂道のせいで、駅はすでに遠い彼方のよう。
行くも地獄、戻るも地獄……。
くじけそうになる心を叱咤激励して、なんとか駅から続くこの傾斜をただひたすらに上を目指して登っていった。そしてようやく辿り着いた天辺には、鬱蒼とした木々が立ち並んだ、だだっ広いコンクリートで出来た広場のような道があった。
ただしその行き先は一つだけ。突き当り正面、影を背負って登場するのは件のクリニックで間違いない。やたら広い駐車場には数えるほどしか車が止まっておらず、もしかしたらそのまま乗り捨てられた車もあるやもしれない。
来る前にインターネットで調べたところ、昔は入院施設もあったようで『美馬精神病院』と呼ばれていたらしい。だが現在は外来診察のみの『クリニック』へと変化している。
「こんな交通の便も悪い、なんもねえ場所……、好き好んで来る奴はいないだろうな」
三階建ての建物は大学病院程大きくはないが、それでもあきらかに町の診療所とはレベルが異なる。十分、立派な施設と言って差し支えがないだろう。とは言え、結局のところ現在では一階部分しか使用されておらず、オンライン診療を始めたのもそういう経緯があったのかも知れない。
あの何代目かは知らないが、『美馬 隆二』というドクターの肩にこれが乗っかっているのかと思えば、少し気の毒に思えてきた。この様子では、どう考えてもいずれ朽ち果てるであろう未来しか見えてこない。
歴史ある精神病専門という先入観からだろうか。一度足を踏み入れれば二度と出ること叶わず、そんなただならぬ雰囲気が辺りに漂っている。薄く汚れた本来は真白くあるべき外壁は、行き場をなくして蓄積された澱みの塊のように見えていた。
玄関がやっと見えてきたところで、入口から一つの影が外へと出てくるのが分かった。
患者だろうか? その人は麦わら帽子を被り、腰までの黒髪を艶やかに揺らしてこちらに向かって歩いてくる。淡いピンク色した膝丈のワンピースは、女の清純さと夏の儚さを醸し出している。すれ違う瞬間に垣間見た顔には、匂い立つかのような清廉な色気が浮かんでいた。振り返って声をかけたいという衝動にかられる。だが、その長い黒髪が目に入った途端に俺のそんな気も霧散する。
たしかに綺麗な女だった……。が、陰気な表情を浮かべていた気がする。そうやって自分の事を棚に上げて考えた。だいたい、髪の長い女は駄目だ。
あれは情念が強すぎる。
病院内は驚くほどに静まり返っていた。現在、正午過ぎのはずなのに、陽が入らない院内は薄暗くひんやりとしていた。
本当にやっているのだろうか? 誰もいない受付前でたたずみ、電話予約くらい取るべきだったなと今更ながら後悔をする。流れる汗を乱暴に拭って、俺は息を大きく吸い込んだ。
「すいませーん。診察をお願いしたいんですが、どなたかいませんかー?」
返事もなく、かすかに聞こえるのは時計の針が動く音のみ。ひび割れたコンクリートの壁を見つめていると、だんだんとそれが不気味なスマイルマークに見えてきた。俺はここに来たこと自体を後悔し始めていた。
――よし、出直すか!
無人の病院で立ち尽くしていた俺は、素早く気持ちを切り替え足早に受付を後にしていた。得体の知れないなにかが後ろから迫ってきそうで、ほぼ駆け足で玄関に戻ると、うす暗い光の先から探していたはずの人物が突然ひょっこり姿を現わした。
「あれ? この前の、たしか『犬桜 隼』君だったよね。もう帰っちゃうの?」
男はたった今、外から戻って来たようで、さすがに今日は例の黒い白衣は身にまとってはいない。こちらを見るたれ気味の目を細くして、なにやら可笑しそうに笑っている。
「あ、美馬先生。今日は診察お休みでしょうか? 受付に誰もいらっしゃらないのですが……」
「ああ~、ごめんね! この時間、みんなお昼に行っているんだよ。不在の札かけ忘れたんだな」
ごめん、ごめん、っと軽く謝りながら靴をしまいスリッパに履き替えている。
俺はその姿を見ながら、ならば先ほど院内から出てきた綺麗な女性はきっと受付嬢だったんだな、と考えていた。それならそうと一言、声をかけてくれれば良かったのに。そうすれば、こうして焦った気持ちで待ちぼうけをくらうこともなかったはずだ。
そんな不満を察知したのか、外から戻ったばかりのドクターがこちらに優しく微笑んだ。
「今、診てあげるから。少しだけ待っててよ」
そう言って持っていた物体を緩くほうり投げてきた。思わずキャッチすると、手の中に細長い缶コーヒーが収まっていた。
「それ、お詫びにあげるよ。飲んでる間に用意するから、そこらへんに座ってて」
俺はすっかり出ていくタイミングを逃して、大人しく受付近くに座り男を待った。先生に貰った缶コーヒーは熱くもなく、冷たくもなく、ただじんわりと生温かった。
ほどなくして俺は先生に名前を呼ばれ診察室に入っていった。下ろしたブラインドの隙間からは、わずかな光がこぼれている。その光はやがて美馬の背に当たり、色素の薄い髪色を増して茶色く見せていた。
どうやら着替えもしたらしい。わざわざ黒い白衣に着替え椅子に座っている。ポリシーなんだろうか。なくて七癖とはよく言ったものだ、こんな頭のいいはずの医者がこれなんだから。若干、癖が強すぎる気もするが。
俺はぼんやりと先生を観察しながら思案した。俺と先生の二人きりの空間。前回と同じで特段、緊張は感じない。もっとも前回はVRだったが今回は現実。だから先生の手が俺の体をすり抜けていくような現象も起きはしない。
そういえば、前回の最後は中途半端に通信が途切れたのだった。
「すいません、前回は診察の途中で回線が切れまして。急な来客で慌ててしまいました」
妹を言い訳に使いながら(実際、半分は妹のせいだと思っている)、今回も俺はこの人に謝りはじめる。
「そうかぁ。いや俺、嫌われちゃったかなと思ったよ。お姉さんのこと、気に障ったかなって」
そう言いながらも、美馬先生にはまったく気にするそぶりは見えない。チャシャ猫みたいにニンマリと笑いながら診察を開始する。
「薬はどう? ちゃんと飲んでいるかな?」
「はい。ただ、特に楽になる感じはありませんが……」
「続ければ良くなるよ」
俺の所感は適当に切り捨てられる。前回処方されたのは、やはり一般的な向精神薬だけだった。
「それでどうかな。臨床試験薬の方は。やっぱ、やってみない?」
結論が待ちきれない、とでも言うように瞳を輝かせ問い掛けてくる。俺はまるで催眠術にでも掛かったように、知らず知らずのうちに首を縦に落としていた。
「そっか~、良かったよ。今日来てくれて。試験薬だから保険対象外にはなるけど、心配しなくてもそんなに高価じゃないから。あと、一応この誓約書にサインが欲しいんだ」
医師からの説明を受け自己責任で試薬を試す、という簡単な内容の誓約書だった。これを直筆でサインする必要があったらしい。「見本ね」と見せられた薬は、赤と青のマーブル模様が毒々しい、これまでに見たことがない錠剤だった。
「それを夜寝る前に一錠飲んで欲しい。副作用で急激な眠気と、体質により頭痛がでる場合があるから、念のため痛み止めも処方しておくよ」
そう言いながらパソコンに向かいカルテを打ち込んでいる。俺は懐疑と期待が入り交じった目で、その見本を見つめた。
「あの……これを飲めば、本当に姉が視えなくなるんですか?」
「うん、そうだよ。そう言えば今日お姉さんは何処にいるの?」
拍子抜けするほどあっさりした答えとともに、こちらを見ることもせず、美馬がこうきり返してきた。
姉か……姉はいつも通り視界の端に漂っているはずだ。ざっと辺りを見回すがどうしたことか、いつもの姿が見つけられない。
「あれ、今日もいないみたいです……っ!?」
先生と正面から向き合ったことで、やっと姿を見つけることができた。男の背後、ブラインドの光を浴びて淡く黒髪が輝く。天使の輪まではっきりと光って見えた。その輝きに目を奪われたところで、しっかりと視線が交わる。まるでこちらを責めるかのようだ。恨みがましいその視線に、俺は石化したかのようにピシりと固まっていた。
途中で動かなくなった俺を訝しく思ったのか、ようやくこちらを振り返った美馬はなにかに気づいたようだ。そう、俺の視線の先に。
「ははっ。俺の後ろにいるのかな? 多分――消えたくないんだろう。気にしなくていいよ」
先生の機嫌がさらに上がり、朗らかな笑顔で相好を崩す。姉はますますきつく睨みつけている。それは俺が見てきた中で彼女の死後、最も人間らしい表情であった。
「もう、そんなに心配することはないよ」
そう確信に満ちた声がした。美馬隆二の口元は、相変わらず歪んでいた。
美馬病院で試験薬を貰ったその晩、俺は寝る前に一錠、恐る恐る口に含んでみた。すると飲みこんですぐに、耐え難い頭痛がやってきた。俺は慌てて痛み止めを袋から取り出そうとしたが、誤って全ての薬を床にぶちまけていた。
俺の腕が宙を掻き、鈍い音をあげ椅子と共に倒れていった。倒れ伏した俺の目には、黒い髪が天から垂れ落ちてくるのが見えていた。その細い絹糸のような髪を掴もうと手を伸ばしたところで、俺の意識は暗い闇へと堕ちていった……。




