三回忌
――パタン
妹が出て行った音だ。
鍵をかけに玄関に行かなければ……とは思うが、億劫で天井を見上げたままぼーっと過ごす。すると。
――カチャリ
八尋はなぜか外から合い鍵を使って鍵をかけていった。俺の様子から気を使ってくれたのかもしれない。
一旦目を閉じ、深呼吸してからそっと瞼を開ける。
姉がいた。良かった。今度はいつも通りだ。視界の片隅にいる。ああ、そのままそこにいてくれ。
俺は近すぎず、遠すぎない距離に漂う姉に語りかける。いつもと同じ、視線が合わないその距離に安堵しつつ、俺はパソコンまで這って行く。
ブゥオン――
鈍い音を出しながらゆっくり立ち上がるパソコンを横目にし、先ほど起きた事柄について考える。
『美馬 隆二』 『臨床試験薬』 『八尋』 『芹奈』 『三回忌』 『国彦』……
ああ、そうだ。忘れていた。国彦からの言付けを八尋に伝えなくてはいけなかったのに。
パソコンのモニターに反射して映った男の顔は、なにか糞マズイ物でも食べたかのようだった。
「海に八尋と、か」
国彦は今度こそ八尋に気持ちを伝える気だろう。
親友が妹に本気で惚れていることは、傍から見ても丸分かりだった。気づかないのは当人ばかり、だ。
それにしても、いつからだろう。二年前? 三年前? それとも五年前からか。
これだけ長い間、思いを告げずにいたのは理由あってのことだ。しかし、きっとそれも、もう「吹っ切れた」ということなんだろう。
みんな、確実に次に進んでいる。
俺だけがずっと、同じ場所で足踏みをしている気分だ。
「まあ、いっか。来週どうせ二人が会うんだから。そのまま海でも告白でもなんでも―――」
好きに、すればいい。
―――ガンっ!!!
俺は机に拳を叩きつける。パソコンのモニターが揺れた一瞬、ほの暗い画面が乱れて歪んだ。
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楽しいことは一日千秋なのに、嫌なことは瞬く間に迫りくるのは一体なんなのだろう。こんな心理的な現象にも、やたらご立派な学名とかがつけられているのだろうか?
俺は鏡を見ながら黒のネクタイを首に締める。鏡に映った男はまるで遺影写真の中にいるかのような陰惨な表情をしていた。もうさ、俺の葬式はこの写真でいいよ。俺は心の中で呟いてみる。
許されるなら、すぐにでもあのアパートに帰りたいと思う。姉の幽霊とおんボロアパートにずっと住む。そういうのも悪くはない。そう考えるほど俺は追い詰められていた。
俺は両手を壁につき、鏡に写る男へと問い掛ける。
『一体、なにがそんなに不満なんだ。
最愛の妹に彼氏が出来る事か? 大親友に彼女が出来る事か?
そんなこと、今まで何回だってあっただろう?
それとも……あの二人だからか?
あの二人だから、駄目なのか』
「いい加減、シスコンも親友離れもしなくちゃな」
俺は八尋に兄以上の感情はない。そして国彦に過度の依存もしていない。
呪文のように、何度も鏡の前で言いきかせる。今日、もし、二人が付き合うことになっても笑って祝福しなくちゃならない。俺は芹奈とは違うんだ。……違う、はずだ。
だが喉まで迫り上がる黒いドロドロとした物は誤魔化せない。
なにか言ってはならないことを口走ってしまいそうだ。
今、俺が死んだら俺の魂はどこに行き着くんだろうか。
ふと、頭を過る。迷惑はかけたくない、嫌な想いはさせたくない。自分も死んだ後でまで、苦しみたくはない。だから八尋と国彦は嫌だな、と思った。
そうだ、なんならあの男。黒い白衣を着た死神みたいなアイツがいいかもしれない。一度しか会ったことがないけど、でもだからこそ。
――俺も、たいがい面食いだな。
幽霊になり取り憑くならば、俺だって出来れば巨乳美女の方がいい。だが、怖がらせちゃ可哀想だし。美馬隆二ならきっとあの酷薄な目を細め、こちらを嘲りながらも許してくれる。そういう気がする。
鏡の中でうすい唇が弧を描く姿が写っていた。
二階から降りると嫌な奴に会う。母親だ。出来れば回れ右して二階に戻りたいほどだが致し方ない。
あいかわらず口だけを機関銃みたいにこちらに向け捲し立ててくる。
「隼、数珠と香典用意しておいたから八尋の分も持って行きなさい。まだ肌寒いからコートもこれちゃんと着て。白いハンカチ持ったの?」
「……(今日は、父親はいないのか)」
俺はなにも答えず、そのままスタスタと玄関へと向かう。礼服一式はクリーニングに出したらアパートに持って帰ろう、そう心に決め家をでた。
「お母さん大丈夫。私がお兄ちゃんのも持ってくから。コートは暖かい日だからいいよ、行ってくるね!」
「車に気をつけなさい」と背後から声が追ってくる。俺は家の前にあるコンクリート製の壁へと寄りかかり、この季節にしては生温かい陽光を受けながら、やがて来るだろう妹を待った。
「もうっお兄ちゃん! ちゃんと返事くらいしなよ。まだ反抗期なの?」
黒いワンピース姿の八尋が、黒のパンプスの先を地面に引っかけながらも慌てた様子で家から飛び出してきた。俺は今にも転倒しそうな危なっかしい妹の姿に呆れつつ、その手にしっかりと握りしめられている黒と紅の数珠、そして二つある香典袋を一瞥した。
「別に。俺、数珠も香典も持ってるから」
俺は口から出かかったため息をこらえて、代わりにそう言って妹に背をむけ歩きだした。
「え~、先に言ってよ。じゃあ、コレどうするの?」
八尋は自分の小さなバッグの中へと余分にある数珠と香典とをそれぞれしまい込み、不満そうに言った。
「さあ? 俺は要らないから余った香典はお前が取っとけばいいんじゃない」
そんなの嫌だよっと言いながらも、背後からは悲しそうにトボトボついてくる気配がしていた。
嫌な兄貴だな、と自分でも思うがどうにもできない。
こればっかりは、どうしようもないのだ。
母親は、常時過干渉で心配するフリをしてこちらを呑み込み、支配下に置きたがる。外面は良く、いや、外面のほうが子供たちよりも、よほど大事なはずだ。
だからあんなことが出来たんだ。
両親が芹奈にしたことを八尋は知らない。俺も言わない。
――なぜなら、俺も同類だからだ。
今、妹が母親からの支配を一心に浴びている現状を申し訳なく思う。そう思うがあの家から救い出すのはきっと俺の役目ではない。俺が連れ出しても結局、主が変わるだけ。八尋を迎えに来る騎士、それはきっと――
「ハイト、八尋ちゃん! 迎えに来たよ」
赤い国産車が目の前の路地にゆっくり停車する。
お前が迎えに来たのは、八尋だけだろうがっ! と、内心毒づき歩みを止める。あ~嫌な親友だな、オレ……と気が滅入ってくる。
兄も友も上手くできないなら、一体こいつ等のなにになれば良かったのだろう。めそめそしたその考えに吐きそうになる。さすがは幽霊女の弟。最高にジメジメしたメンタルしてやがる。
「対馬さん、お久しぶりです。お変わりないですね~」
「八尋ちゃんは昔よりだいぶ大人っぽくなったね。あれ? 俺も結構変わってないかな」
「ふふっ。そういうところは全然変わってませんよ。迎えに来てくれてありがとうございます!」
「どういたしまして。こっちこそ、今日は皆子のために来てくれてありがとう」
楽し気に笑いあいながら二人がこちらを見る。
「おい、早く乗れよ。ハイト!」
ボーっと突っ立っていた俺に運転席から声がかかる。八尋はすでに後部座席に乗っていた。俺は数秒ほど逡巡してから、やっと助手席に乗り込んだ。国彦は怪訝そうな目をして俺を見つめてきて、
「ハイト、なにかあったのか?」
と、心配そうにこちらに向かって手を伸ばしてくる。それに俺はなぜだかゾッとして、ギシリと体を竦ませた。だが、その手が届く前に後ろから甲高い声がやってくる。
「対馬さん、なんでもありませんよ。今日、朝からずっとお兄ちゃん機嫌悪いだけで。反抗期なんです」
「ええ~、お前まだ反抗期なの? 俺とっくに終わらせたんだけど。どんだけ~」
「うっせえよ! 早く車だせ。車! もたもたしてると式の開始に遅れるぞ」
乱暴な口調の俺が、フリでなく本当に機嫌が悪いのだと気がついたんだろう。なかなか察しのいい男だ。
ありゃりゃ、マジで反抗期なの? お兄ちゃん。と軽く揶揄しながらもそれ以上は突っ込んでこない。妹は後ろから、もたもたしてたのはお兄ちゃんじゃないのっとぶー垂れている。
それを丸っと無視していると、やっと車が滑らかに動き出した。
隣に視線をやり様子をうかがう。今日の国彦は前髪を綺麗に後ろに撫で付け、いつも以上にその秀麗な顔がよく見える。これは会社の女性社員がみたら飛び付いてきそうだ。後でこっそり写メでも撮っておこう、と友情を銭に替える算段を企む。
俺は親友と妹の会話にはほどほどに相槌を打ち、窓に身を寄せ頬杖を突きながら流れゆく景色を眺めた。右手をポケットの内側にやり、その中にある硬い感触を確かめるようになぞる。
これから俺たちが向かうのは、俺の年上の幼馴染で、なおかつ国彦の彼女だった女、『高木 皆子』のための場所だ。彼女が海で溺れて亡くなった三回目の今日のために設えた、海の見える会場。
そうだ。今日は可哀想でしかたのない、あの彼女のための記念日だ。