美馬 隆二
「あの、貴方、本当にお医者さんですか?」
病院に来ておきながら、まったくマヌケな質問だ。
……突然だが、最近の俺といったらまったくもってツいてない。
いや、余計なものがいつも一個は憑いているのだが、それはこの際ちょっと脇に置いておこう。
たとえば昨日あったことなんだが、客先で突如始まった従業員同士の痴情のもつれに巻き込まれ(俺、無関係)帰りが大幅に遅くなり、その帰り道、車まで戻る短い間にうっかり酔っ払いの吐いたゲロを見逃し踏んずけ、アパートに到着してからは階段で上からやって来た鼻ピアスのDQNに擦れ違いざま理由もなくガンを飛ばされ、やっと家の玄関についたら部屋の鍵が見当たらず結局車まで戻るはめになった。
駐車場に落ちていた鍵を無事見つけた俺が、なんとか部屋まで辿り着けば、一昨日飲んで放置していたビール缶に躓き廊下へダイブ。
それでも洗面所まで這って行けば、そこには血まみれのマリリン●ンソンみたいな面したお化けがいた。
と思ったら、鏡に写った俺でした。
その後、鼻血を止めるために鼻にティッシュを詰めベットに入ったが結局よく眠れなかった。翌朝、思わず目のまわりの黒い縁取りを取ろうと擦りまくったがそれも徒労に終わった。
と、とにかく、なにが言いたかったかと言うと……俺にもよく分かんねー。
俺はたしか今、うつっぽくて姉の幽霊という幻覚が見え苦しんでいる。目の下にある縁取り、もとい、クマもすんごい。その顔色はすでに死人を通り越し、ロックスターの域までキてる。
だから、親友に薦められた精神科のオンラインクリニックを受けようと予約して、電話でも話して、VRゴーグルなんて物も頭に着けようとしていた。いや、もう装着済みだ。
だがそれも全て夢だったのかもしれない。
俺まだ布団の中で寝てるのかもしれない。
俺は、目の前の光景をじっと見つめる。
そこには、白いバーチャルの病院を思わせる空間が広がっていた。
いや、だからここは『クリニック』であって『病院』ではない。だから医者じゃなく、こいつはただの従業員という可能性もある。美容クリニックでは医者が常駐せず、名前だけ借りて後はバイト対応ということもあると聞く。
まさかとは思うが、そのほうが納得できるのは俺だけではないだろう。
なんせ、『黒い白衣をまとった医者』なんて見たことがない。
「はい――あれ? 疑ってますね。では、こちらをご覧ください」
白目を剥いた俺の眼前に、突如として四角い額縁が現れる。驚きながらもソレに手を伸ばすと、その中には一枚の賞状がはめ込まれていた。いや、賞状ではなく医師免許証だ。厚生労働大臣の印がはっきり押された『美馬 隆二』の名前のもの。
やはり、本物の医者だった!!
「すいません! 予約時に見た写真の方と違っていましたので、つい驚いて……」
俺はお医者さまに大変失礼な口を利く、礼儀知らずの患者になってしまった。
慌てて誤魔化すはめになる。
だいたいこんな質問……聞かずともわかる。同じ美馬姓なんだから親子か親族に決まってる。親子代々医者の家系で、という話は羨ましいが腐るほどある。
「それに多分、VRの接触不良だと思います。少し俺が見てる映像に乱れがありまして……」
さらに言い訳を重ねる。
きっとVRでの色の誤認識だろう。よくある話だ。白と黒が反転しているだけだ。
――あれっ。白と黒が反転している?
そう考えた瞬間に背筋にゾクリと悪寒が走る。
――そうすると、黒い白衣は真っ白に。白いタイルのこの部屋は、真っ黒になる。
ふっと、強烈な眩暈がして俺はたまらず椅子から転げ落ちる。喉まで焼けるような吐き気を感じ、両手で口許を押さえた。
どちらなんだろうか? この黒い白衣の男が死神なのか、それとも真っ黒なこの空間が地獄なのか? どっちだ!?
どちらにせよ、俺はもう地獄行きだ!
男の口が半月状に吊り上がり、その中からトカゲのように細くて長い真っ赤な舌がチロチロ見えた。真っ黒な瞳孔が縦に大きく割れて、その顔には甚振るように、馬鹿にするように酷薄な笑みがのっていた。
「大丈夫ですか、お客さん。あいにく貴方が倒れてもなにも出来ませんよ。なんせ、ほら。ここ、現実ではないので。体調が悪いのであれば後日の診察をお薦めしますよ」
すっと目の前に手が差しだされる。男の口元が弧を描いているのが視える。手に持ってたはずの額縁は、とっくにどこかへと消え失せていた。
証明するかのように医者の手は俺の体に触れず、そのまますり抜けていく。俺はその事実に、ただただ安堵した。俺は自力で立ち上がり、医者『美馬 隆二』としっかり視線を合わせる。そしてグルっと周囲を見回すが先程となんら変わらず白い空間のまま。そこに立つ俺たちには影すら存在しない。
なんでもない、ただのVR酔いのようだ。
こみ上げていた吐き気も綺麗さっぱりなくなっていた。
そして美馬隆二は意外なことに、にっこり笑っていた。良かった、気分を害したわけではなさそうだ。
「ホームページの写真の医師は今、外出中でして。今日は私が代わりに診ることになります。それと映像の乱れ、ですか? ああ、もしかして、この黒い白衣のことですか。これは単に私の趣味です」
BJに憧れてまして――そう、嘯く医者を改めてじっくりと眺める。
膝まである黒い白衣(黒衣?)の下には白いYシャツに濃紺のベスト。下も同色のスラックスだ。えんじ色のネクタイは緩めに首に巻かれ、多少だらしない印象を与えてくる。だが靴はよく磨かれたいい革靴だ。
そのおかしな白衣さえ脱げば、金融街にいても可笑しくないような出で立ちだ。
髪は色素の薄い、茶色が目立つウルフヘア。顔立ちは甘く整っている。
年齢は読みにくい感じもするが多分俺より少し年上くらいだろう。二十代後半、もしくは三十代の前半辺りなのは間違いない。
なかでも印象的なのは、長めの前髪から覗くたれ気味の目だ。細く吊り上がっている眉との対比のせいか、少し気怠い印象がある。うすい唇の口角は優しく持ち上げられている。
ただし医者に似つかわしくなく、右耳には三つものリング型のピアスが連なり、左の耳たぶには赤い石が嵌めこまれていた。
年上の「少しワイルド、けれど本当は優しいお兄さん」――そんな感じ。
先ほどの酷薄で小馬鹿にしたような印象はまったくなかった。なぜ、そう感じたのか? 恐らく下から見上げたアングルが悪かったのだろう。
というか身長でかいな。国彦よりも、きっと大きいだろう。180センチはありそうだ。
「どうしますか、診察を続けますか?」
聞かれて、咄嗟に否と言おうとして考え直す。
黒い白衣の精神科医で無免許医に憧れている。なんて胡散臭い。が、これはいい。いい話のタネになるだろう。
女医との不毛なやり取りより、よほど奇妙で愉快だ。こっちのほうが俺向きだろう。
「大丈夫です、診察をお願いします」
「……では犬桜 隼君でしたか。変わったお名前ですね。この病院は初めてですよね。以前、こうしたクリニックを受けたことはありますか?」
「はい、5年ほど前に短い間ですが受けたことがあります。オンラインのクリニックは初めてですが」
「そうでしたか。それでは、お困りの症状についてお伺いいたします」
それから俺は、医者らしくないこの医者に、姉の幽霊に悩まされていることをそっくりそのまま打ち明けた。自分でも不思議なほど抵抗感はなく、驚くほどするすると吐き出せた。
「へえ~、お姉さんの幽霊に5年間も。それは大変でしたね」
と、まったく大変そうではない相槌がくる。たれ気味の目はあいかわらず気怠げだが、なんだか楽しそうな雰囲気も感じる。
「はい。なんとかソイツを消したいのですが」
「う~ん、難しいですね。それで今はお姉さん、どこにいますか?」
その医者は、本日の朝食はなんでしたか? くらいの軽さで嫌なことを聞いてくる。今、芹奈がどこにいるかだって? そんなのは決まって――
「あれ? そういえば、VR中にはいないみたいです!!」
気づいていなかった。そういえばVR中ではあの鬱陶しい長い黒髪を見かけていない。念のため立ち上がり、隅から隅まで見回してみたが、やはりどこにもいない。
俺は嬉しくなる。ほんの束の間でもいい、開放感がある。今日はなんていいことに気がついたんだ。どうやらVR中には出て来ないらしい。なら嫌気がさせばなんでもいい。こうやってVRの内に逃げ込めばいいのだ。
そして――、
眼前の男も嬉しそうに目を輝かせていた。
「そうですか! ここには存在しないのですね。それは良かった」
「え、ええ。はい! 今日は本当、来たかいがありましたよ!」
実際には、俺の体は部屋から一歩も出ていないが。
「そうですか。でもね、せっかくですし……VR以外でもお姉さんには消えてもらいましょうよ。――ねえ、ハイト君」
美馬隆二が断言する。俺は少し面食らってしまう。そんなことが可能なんだろうか。確かにそれが出来れば一番いいはずだが……。
「私が診たかぎり、ハイト君の症状はお姉さんの死をきっかけとしたうつ病だと思います。抑うつ状態、意欲興味の減退、精神活動の低下、焦燥、食欲低下、不眠、持続する悲しみ、不安……」
ここは、ほかの精神科医に言われたこととあまり変わらない。俺は少なからず落胆しながら聞き流す。
「うつ病にも何種類かありまして。よく聞くのは、うつ状態と躁状態を繰り返す躁うつ病とかね。最近の流行りは非定型(新型うつ)でしょうね。休日は元気になるっというやつです。他にもメランコリー型、ディスチミア型などと細かく分類されていますが」
「ハイト君の場合はスチューデント・アパシー、または退却神経症でしょうね。これはよく大学生、特に男子学生が五月病のように無気力になり、それが何年も続くので大学生の五月病とも呼ばれます。引きこもりなどの陰性の行動化を行いますが、一方で飲み会や旅行なども出来る事が特徴ですよ。しかも、これは単なる怠け者の逃避とは異なっていて、特に退却神経症者は元来人一倍真面目な努力家であり、第一線で活躍していたという人物が多い。そうした、いわばそれまで勇敢に戦ってきた兵士の突然の撤退。『退却』という軍隊用語で名付けられたのは、この側面を指してのことでしょうね」
これは聞いたことがなかった。スチュ……スチューデント何とか。
確かに俺は休日等は引きこもっているが、一応仕事も、飲み会も、旅行もこなしている。真面目な努力家か。自分では分からないがそうなのだろうか? 確かに高校までは成績はずっと上位だった。
「最初は幻覚が見えるということで、統合失調症が疑わしいと思ってました」
それだ、よく姉の話をすると最終的にそこにいきつく。
「でも、違っていました」
美馬にはきっと、なんらかの確証がある。ニヤリ、そう心底楽しそうに笑みを浮かべるのは、そいつのせいだ。
勝利宣言のようなねっとりした笑顔。
俺はそれを見て、嬉しいのか、悲しいのか、よく分からない心持ちになる。
「ですので、今回処方する薬はハイト君用のうつ症状を抑える薬です。毎食1錠飲んでください」
「――分かりました」
俺はまた効かない薬を飲まされるのか、とうんざりしながら適当に返事をする。最後まで飲みきれるかは今のところ五分五分といったところだ。
「それでは近いうちに美馬精神クリニックへお越しください。ああ、いえ。このオンラインの方ではなく。現実の方です」
そうして、俺の今後の人生に大きな影を落とすことになった死神は囁く。
――そこで、現在、臨床試験中の新薬を試してみましょう。
――その時、処方する薬はハイト君、君のお姉さん『芹奈』用です。
うつに関しては、wikiより一部引用がされていますが実際の症状と違う部分があります。