八尋
とある水曜日のランチタイム――。
都内某所の小洒落たイタリアンレストランの店内は、ピカピカの爪をした女性達でほぼ満席だった。黒いカフェエプロンを腰に身につけ、店員たちが席から席へクルクルと回っている。
そんな見ているだけでソワソワとしてしまう光景の中へ、俺は若干の恐れを抱きつつも国彦の後を追い足を踏み入れる。
途端、周囲のOL達からの圧力を感じた。長い付けまつ毛の下――垣間見えたのはかすかに白けた視線だった。あーあ。女の園に入ってくんなよ、カスが。デリカシーねぇのかよ? そう、耳元で囁かれた気がした。
ここは撤退だろうか……俺は、隣の国彦に目配せをする。
「めっちゃいい匂いする! 今度デートで来よっかなー。あ、あっちのテラスに行こうぜ。うわ! あの子、すげーかわいくね? メッチャヤバくね!!」
ホントヤバいな、こいつはなんにも感じちゃいない。
それどころか――むっちゃ楽しそうに速攻馴染む。
男同士でいるのは俺らだけだ。……なんだ、また俺の被害妄想なのか。それとも国彦の精神がやはり鋼鉄製なのか……。
あいかわらず、周囲からは高く楽し気な笑い声が響いている。
まあ、とにかく腹を満たすことが目的だ。
俺は、諦めて大人しく国彦のあとについて行った。
「すいません、パスタのランチセットひとつ。食後にホットコーヒーお願いします」
「俺はオムライスのセット、一緒にオレンジジュース持ってきてねー。――んじゃ、午後は余裕もあるし、約束したお悩み相談室といきましょうか? さあ、俺になんでも話しなさい。ハイト君!」
ウエイトレスの瞳を見つめながら注文していた国彦が、朗らかに午後の仕事のサボり宣言をしてこちらを向く。
いつの間にかそんな約束をしていた、のか?
俺が思うよりずっと国彦に心配させてしまってたらしい。
そして一瞬「えっ、こんな場所?」との想いがよぎる。
しかし二十五歳にもなって幽霊話、なんて馬鹿げた話。せめて華やかな雰囲気じゃないとやっていられないだろう。
特に聞く側の国彦にとっては。
「いつも悪いな国彦先生。相変わらずだよ。芹奈が視える。四六時中、視界の端に。昔よくテレビでやってた、心霊特集の中の写真に見切れて映ってる幽霊みたいな感じでさ。でも絶対、正面には現れないし。なんなんだよ鬱陶しい!! しかも最近じゃ、目が合うようになってる気がして……」
俺は溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように喋りだしていた。それを聞く国彦の方はというと……特に反応はない。適当に相槌を打ちながらも運ばれてきたランチに舌鼓を打っている。
なぜならこの一連の流れは初めてというわけではなく、お互い愚痴ることも、それを聞くことも慣れっこなのだ。
そう――この状態は俺の姉であった芹奈が死んでからずっと現在まで続いている。今さら『芹奈の幽霊ごとき』珍しくもなんともないのだ。
だが、そうだ。最初は多分……気のせいだと思い込もうとしてた。これは、助けられなかった姉に対する罪悪感が視せているただの幻なんだと。
だから、この不可思議な現象も二、三日もすれば消え失せ、元通りとなるはずだった。しかし、二、三か月が過ぎてもただの幻はあいかわらずで、ついには耐え切れなくなった俺の方が実家を飛び出していた。俺は大学にも行かず友人宅を転々とした。それは一人が怖かったから。一人で芹奈を見ることが耐え難かった。
だが、家を出た時点で気付けば良かったのだ。問題は場所ではない。誰といようと、どこにいようと、最早関係がないのだと。
そう。これは終わることのない自分だけの悪夢で、遅まきながらもそれに気が付いたとき、俺は一人ボロアパートを借りそこに閉じこもるようになっていた。
俺が見る芹奈は、いつも俯き、ふわふわと宙に浮いていた。どんなに声をかけても……返事はないし手が届かない。ただの屍、いや、ただの幽霊だった。
特に危害はないのかもしれない。だが、気味が悪い。
さっき、慣れたと言ったが正確には言えば違う。
きっと……慣れたともいえるし、永遠に慣れないような気もする。
「ますます呪われてんね。つってもさー、もう坊主も神主もイモリの黒焼きも試したし? あと残ってるのはバチカンの悪魔祓いくらいじゃね? 誰か神父の知り合いとかいる?」
カチン――。
皿とスプーンが合わさった甲高い音が聞こえた。俺はハッとして頭を上げる。するとそこには、目を細めて銀色のスプーンを大きくこちら側に突き出す男の姿が見えた。
いかん。結構長いこと心あらずで考え込んでいたらしい。俺は慌てて、止まっていた手と思考を動かす。
バチカン共和国のエクソシストにコネのある奴……って、なんだそれ怖すぎる。もちろん知り合いどころか俺は教会に足を踏み入れたことすらもない。
首を横に振った俺に対し、真剣な表情で『じゃあ、うちの浄水器を使って聖水とか作れないかな?』と口元に手をあてて呟く国彦の、そのどこまで本気なのか分からないさまは、かつての光景を鮮明によみがえらせた。
それは五年前。一人引きこもっていた(幽霊付きだが)俺のアパートにのこのこやってきた国彦に、
「もう、どうでもいいや」
と、やけくそ気味に全てを話した時のこと。さんざん泣き喚いて意味不明なことを口走っていた俺の話を全て黙って聞き、その翌日いきなり坊主を連れてきた。
連れられたのは寺生まれのTさんではなく、寺生まれのただのオッサンだったらしく、残念ながら問題はまったく解決しなかった。
しかしそれ以降、ある時は由緒正しい神社で共に祓われ、またある時は地方の有名占い師に二人とも地獄行きを宣告され、とにかく全方位で持ち前の超絶行動力を発揮し力を貸してくれた。
途中からなぜかご当地グルメツアーになっていた気がしたが、その当時は唯一楽しさを感じられる貴重な時間だったことは事実だ。
もしかしたら、それがなければ俺はここにはいなかったとすら思うことさえある。そのことに言い切れぬ程の感謝を感じているが、照れ臭くてなかなか正面から伝えることは出来ないでいた。
そういえば――俺が芹奈のことを相談したのは、コイツだけだ。
家族にだって言ってない。
「だいたい、一週間ほどかかる欧州旅行なんて不可能だ。休み取れないだろ。ハネムーンじゃあるまいし……」
俺はクルクルとパスタをフォークに巻き付けながら、気づけばそんな現実的なことを口にしていた。
まあ実際のところ、昨今の情勢では新婚旅行でも欧州行きは厳しいと思う。とりあえず金のない俺には無理だ。まず第一に、近所のスーパーに一緒に行く女すらいない。なんでいつも俺には女が寄ってこないのか? 実は、俺って思うよりも不細……。多分、ゆる(く)ふわ(り浮いてる)幽霊女の呪いがあるせいだよな、きっと。それだけだ。
ちらりと視線をさ迷わせると黒髪女がこちらを見ていた。
気のせいだろうか? いつものなに考えてるのか分からない無の表情ではなく、若干、不満そうな顔をしている。
……ま、まあ。前向きに考えるとすると、今後どんな女とでも付き合える可能性があるってことだ。彼女いないから即日お付き合い可。欧州でも、世界一周でも行けるかもしれない。
そうだ。なにも俺の金じゃなくても、いいんじゃないか? 逆玉を狙えばいいんじゃないか? 誰か俺を欧州へ連れて行って(ハート)。俺は勝手に未来の嫁の財力に期待をはせていた。
俺が夢を見ている間に国彦も国彦でしょうもない夢を見ていた。俺のバチカン却下にやたら食い下がり、
「えー! 悪魔祓いにバチカンまで行く! なんて、ロマン溢れまくりなんですけど。行ーきーたーいー! 海外ドラマのスーパーナチュラルみてぇ。あ、俺、ディーンね」
と、駄々(?)をこねる。
「いや、誰だよディーン。フジオカかよ?」
なんだかテンションがブチ上がってきた国彦は、長編大河スプラッタで熱血天使と行く悪魔祓いイケメン兄弟のドラマ説明をしだす。シーズン14まであるから今度貸すよっと言いだしてきたので丁重に辞退する。
そんなものを家で姉の幽霊と一緒に観て、ドハマりしたくはないもんだ。生前ならいざ知らず。しかし、国彦がそんなドラマに興味があるとは。なんだか不思議に思えた。
「バチカン駄目ならアレだ、アレ。なんか、最近クソ流行ってるオンラインクリニックってのがあるらしいんだけど」
国彦はトロトロのオムライスをつつきながら、そう切りだしてきた。
若干バチカンからわざとらしさが残る強引な話の切り替え方だ。
しかし流行りのオンラインクリニックなんて知らなかった。それと芹奈になんの関係があるのか。まさか……除霊のできる医者のYouTuberでも爆誕したか。
たしかに、病院と幽霊は関係が深いと言えるかもしれない――。
「メンタルヘルスのクリニックなんだけど。オンライン受診ができるから家で気楽に受けられるらしいよ」
「なんだ。病院の精神科かよ。やっぱイカレだと思ってたんだな」
別に受けないと思っていたショックを少しばかり受けたことに驚く。
まあ、当然だと思う。
国彦は今までよく話を合わせてくれている。だが現実には幽霊だって、亡霊だって、悪魔だって、妖怪だっているはずがない。全部、空想の産物だ。
現実と妄想が混じっている俺は、頭か心か両方だかがおかしいのだろう。
ちょうど昔の姉のように。
彼女に必要だったのは医者だったし、それは今の俺にも言えることだろう。
国彦は今回、最初からこちらの話がメインだったに違いない。それは俺のことを考えてのことだった。なのに俺は一瞬失望し、あまつさえ相手を責めた。俺はこのとき、心底自分自身に絶望した。
そんな俺の様子に慌てたのか、国彦が早口で一気にまくしたてる。
「違うって、眠れねぇって言ってただろ。そっち先に片したほうがいいっしょ。命大事にいこうぜ。不眠はマジ早死にするぜ。あと、クリニックでメンタルヘルスだから。言い方重要、こっちのがオシャレっしょ?」
「女子かよ! だいたいクリニックと病院ってなにが違うんだよ? メンタルヘルスも英語にしただけだろ」
俺は、国彦の相変わらずな軽口にそっと安堵の息を吐きながら、えー知らねえよ、ググれよと言いながらも自らスマホを取り出し検索しだすその手を眺めていた。
ついでに俺もなんとなく、自分の端末で検索をする。
「なになに? 意外と知らない『病院』と『クリニック』の違い。医療法により『病院』の定義は『二十床以上の入院施設を持つ医療機関』と定められています。つまり入院患者のベット数が二十以上の、比較的規模の大きい医療機関を指します。へぇー、そんだけ?」
国彦が検索した記事を読み上げる。補足するように俺も付け加えてやる。
「クリニックは開設者が医師又は歯科医師個人であるか、非医師であるかは問われません。市町村、医療法人、社会福祉法人等の法人が開設する診療所もある。――ま、経営者は別に医者じゃなくてもいいってことか。次にクリニックに必要なスタッフの条件には、医師や看護師の数は特に定義はありません。――って医者いなくても問題ないんかい! いや、でも医者がいなければ患者も来ないだろうけど」
会話が少し途切れる。食事は終わり食後のコーヒーが運ばれてきた。
いつの間にか、あれほど溢れかえっていた女性たちの姿も少なくなっていた。
「分かったよ。気が向いたらクリニック、受けてみる」
俺がそう言うと、国彦は明らかにほっとした表情を見せた。そして大きく頷き、偉そうな声で俺に指令を下す。
「オウ、いくつかオンライン可のクリニックあるらしいから。美人女医がいるの選んで話聞いてもらえよ。そして女医がいかにエロかったか、また報告しろ」
話を終えた俺たちは伝票片手に席を立つ。ちなみに今日の支払いは俺のおごり。と言ってもだいたい交互に支払っているので、なにも特別なことではない。
たいぶゆったりした昼休憩をすごした俺達は車に戻る。本日は国彦とはここで別れ、別々の取引先へ赴きそのまま直帰予定だ。
じゃあな、と手を挙げたときに唐突にこう告げられた。
「今度、海行こうぜ? 八尋ちゃんも誘って」
そう言い残し、彼はその場に立ち竦む俺を置いて去って行った。