対馬 国彦
月曜の朝は倦怠感にまみれている。
電車に揺すられ見せられるのは、どいつもこいつも冴えない面した糞ばかり。けれど電車はこちらの気持ちなど解さない。冷血であり、快速であり、景色は瞬く間に変わっていく。
人々の吐く二酸化炭素で蒸れて曇った窓ガラスに手を伸ばし、そっとため息をつく。
――レールにのった人生か。
もっともこの俺、「犬桜 隼」は随分前に敷かれたレールを踏み外していた。
いつからか? そうだな、それはきっと五年前。
姉の「犬桜 芹奈」が自殺してからなんだろう。
あの日から今日までずっと……俺は、灰褐色の憂鬱な不全感しか感じられない。
喜もなく楽もなく、ただ砂を噛むような日々。そんな日常を送っていた。
五年前は二流大学の法学部に在籍する二年生だった。その後、姉の死の少しあとに大学を中退。今では立派な三流零細企業の三流以下の営業をやっている。
日夜、本当に綺麗になっているのか、あやふやな根拠しかない我が社の浄水器を売りつけ過ごしている。少なくとも汚くはなってないだろう。こんなものは宗教と一緒だ。どんな浄水器でも付ける付けないは個人の自由だし、信じれば救われるだろう。プラシーボ効果って聞いたことあるだろう?
黙々と頭とプライドを下げ続けたこの五年間の日々。それで培ったのはきっと無駄に高くなったストレス耐性だけなのかもしれない。
大人になり、社会に出て、その成果はそれだけ。手に入れたものはなにもない。大切なものは、なにも。
そんな俺が身を削って手に入れた、ストレスに強い体。
最も、それにも最近は限界を感じる。
たとえば……
こんな風に電車の窓ガラスに映る
『自分に少しも似ていない、腰まである艶やかで癖のない黒髪を揺らす女』と目が合っているときは。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ハイト、うわっ目の下やべえ。死人みてー」
会社に着いて早々に随分なご挨拶をかましてきたのは元同級生で腐れ縁。俗称すると俺の親友、「対馬 国彦」だった。
紺色のストライプスーツを(無駄に)爽やかに着こなして、真っ白い歯を(無駄に)光らせこちらに歩いてくる。
大学時代のガングロ金髪サーファーだった時分のチャラ臭さはいつの間にかなくなっていた。ああ大人になったんだな、こいつも。そんな一種、親になったかのような感慨を胸に抱く。
短めのこげ茶の髪はしっかりセットされ、程良く健康的に焼けた肌。スリムに見えて脱いだら凄いんです(歴代彼女たち談)な肉体。筋肉の付いた175センチのナイスガイは、社内外でも評判が高いスーツ系スイーツ男子であった。
「みんな騙されてんなあ。こいつは超肉食系、俺こそ今流行りの草食系」
「ん?」
小さく呟いた俺の世間に対する理不尽(主に、こいつに群がる女性に対する文句)が上手く聞き取れなかっただろう元チャラ男は、頭に?マークを付け小首をかしげている。
俺はそのまま近づいてきた奴の背中を軽く叩き、今度ははっきりと聞こえるように文句を言う。
「うっせ、国彦。部下なら俺より先に出社しろ。んで、敬語使え、敬語。ため口きくなよな」
「いいじゃん、そんなのべつに。アットホームで風通しがいいのが我が社の売りでしょ? 気にしてるヤツなんて誰もいないしー」
そう言って、「対馬国彦」は白い歯を見せニカリと笑った。そして、軽やかな身のこなしで俺の隣のデスクへと赴き、そのままヒョイと机の上に腰掛け、長い足を見せつけるかのように優雅に組んだ。やや、その長さを持て余しているのか、左右に一度大きく足を揺らして俺を見下ろす。
その頭上からの不躾な視線を受けた168センチ50キロと、日本人の平均身長よりやや小柄で若干筋肉とは疎遠な体つきの俺こと「犬桜隼」は、こうしてコイツと並んでしまうとその差がより鮮明に出てしまう。残念なことに、俺は産まれたときの『体系ガチャ』でどうやら外れを引いてしまったらしい。
そのせいなのか、なんなのか。なぜか俺だけ、いまだに新入社員と間違われることがある。
特に隣が国彦の場合はそれは顕著で、たいていヤツの部下に間違われてしまう。実際のところは同い年で二十五歳。だが、あちらさんは二流とはいえしっかりと大卒であり、俺の方は社会の先達である。
社内では二年先輩だが果たして給料はどれくらい違うのか? いまだに怖くて聞けずにいる。場合によっちゃ、俺は明日から出社拒否……。避けられる不幸は避けておこう、俺のテンションは下がりやすく、上がりにくい。
そんな、某女性歌手ばりにめんどいトリセツを持つ俺だ。小さいことでも気になるんだ。あ、身長のことではない。
俺はジトりと頭上のイケメンを睨みつける。
「俺が気になるんだよ! この前の業者もお前見て話しだしたじゃねーか」
それは俺のフレッシュさのせいだけでなく、こいつのすました面と馴れ馴れしい態度に問題があったのだ。きっと。
「だからそれはお前の童顔のせいっしょ。ヤっダなあ〜、小さいのは身長だけにしてくださいよ。犬桜パ・イ・セ・ン」
いつも通り気にしている身長を揶揄りつつ、さらに気にしている童が……フレッシュさまでをも攻撃してきた。クソ! ちょっと顔が良くて体も良くて、ついでに営業成績もいいからって調子に乗りやがってこのチクショーめが! 羨ましいんじゃ!!
おまけにこいつは俺の頭までわしゃわしゃと撫でだしてきた。一体こいつは、俺のことをなんだと思っているのか……。
すると――
「色といい感触といい、やっぱ豆芝っぽいなぁ。ま、目の下のクマのせいで黒柴になってるけど?」
感嘆と共に降ってきたのはそんな言葉だった。どうやら同級生でも上司でもなく、犬扱いだったらしい。俺は『よし、噛みついてやろう』とグルルっと唸ったところで、この男に似つかわしくない優しい声の問いかけに困惑する。
「また寝れなかったのかよ。……それで? 今度はどんなイイ女とお楽しみよ」
俺はそっぽを向き、
「誰が芝犬か! クソ、だいたい俺に彼女いねーのお前知ってんだろ。それに……また例のアイツだよ。最悪」
そう言って、膿んだ顔で吐き捨てていた。国彦はそれを見て少し困ったような表情になったが、
「なんだ、やっぱイイ女じゃん。楽しくはなさそうだけどね〜」
と、ふわり軽い口調で冗談めかして笑った。と、同時にわしゃわしゃと雑な撫で方をしていその手が、若干の気遣いが感じられるそれへと変化する。俺はなんとなく、それを振り払うタイミングを逸し、そのままのその行為を受け入れ続けた。
国彦のこういったさり気ない優しさは、わりと嫌いではない。
彼女が次々と変わっても、変に恨みを買わず修羅場にもならないのは、こいつが優しく善良な人間だからだろう。……きっとそうなのだ、ぼんやり思う。
姉が死んでしまい塞ぎ込んだ俺。当時の俺を腫物のように扱わなかったのは国彦だけだ。ありとあらゆる全てに興味をなくし、ぼーっと日々をただ過ごす俺に諦めずに連絡を取り続けたのもコイツだけ。そして、なぜか今も側にいる。
そんな奴だから……。
だから俺はコイツならば、とち狂った自分の妄想も怖れず相談できたんだ。
ようやく俺の毛並みに満足していただけたのか、ゆっくり頭上から手が遠ざかっていく。俺はその離れていく大きな手を見送り、姿勢を正し改めてデスクへと向き直る。すると、そんな俺の背中にそっと声が届いた。俺は思わず後ろを振り返る。
「あとハイトは草食じゃなくて、絶食だろ。なんか適当なの食っておけよ、ハニー」
そこには、気障ったらしくウインクを一つ残して、足早に自分の城へと去り行く姿があった。どうやら俺のぼやきもしっかり聞きとっていたらしい。俺はそんな男の後ろ姿をただぼんやりと眺めて、視界の端にいる鬱陶しい黒髪女を見て見ぬふりをした。