結末A 『他罰審判』2
『全部、お前のせいだ』
目の前が、真っ黒に塗りつぶされた。
――全部、俺のせい
――俺の、せい……だと
ふざけるな! 全部全部全部 おまえのせいじゃないか!!!!
気がつけば――俺は両手に鎖で吊るされた天秤を持っていた。
右手に黒の秤
左手に白の秤
――『これで、俺の罪悪を計り、俺が、お前に審判を下す』
「なんだぁソレは! ハイト、まさか、ソイツがお前の玩具なのかぁ~? ハハハハアアア!! 秤なんか持ちだして、このメス豚の肉でも計ってくれるのかァ~?」
嗤い狂うヤツを相手にはせず、俺は八尋の前に立った。すると、八尋の頭をヘルメットのように覆い隠していたはずの水の塊が、みるみるうちに黒い秤の上へと吸い込まれていった。鈍く光った黒い秤の皿の上には、もうなにも無い。
そして……、右手が少し重くなる。
「!!!!!」
なめきった様子でこちらを見てた国彦が、驚愕に目を見張る気配がした。
八尋はゴボッと口から水を吐き出し、そのまま気を失ったようだ。幸い、まだ苦しそうだが、しっかりとした呼吸音が耳に届く。
「なんだよ。いきなり、なんだってんだよ!!」
危険を察知した国彦が、残っていた水の塊をこちらに飛ばしてきた。しかしそれは俺の体に触れることもなく、黒い秤の方へと吸い込まれていく。俺の体は右手の重みでゆらりと傾いだ。俺は国彦に向かってゆっくりと歩を進める。
傷むはずの外れた肩も、撃たれたはずの足も、たいして気にならなかった。それよりも全身が発火してしまいそうだ。火傷しそうなほど体中が熱くなっていた。
――そうだ。お前には審判を下さなければならない。
俺のために。
俺の口元はニンマリと弧を描き歪みはじめていた。
「クソ! んな秤ごとき、ブッ壊してやるよ!!」
国彦の背後から大量の水が流れ込んでくる。先ほどまで浴槽に溜まっていたものだろう。無駄なことを。
俺は黒い秤を前に掲げる。秤には鉛塊でも載せたかのような、ずっしりとした重みを感じた。俺は体が崩れてしまわぬよう、足に力を込める。
「ははははっ、はははははははああああ! やっぱり! そんなもんじゃ! 俺の業には耐え切れられねエんだよ! 待ってろよ。すぐ、溺れさせてやるからなァーー!!」
なおも水が流れてくる。これ以上は秤を持ち続けることが叶わない、という重さに達した瞬間、持ち手の部分にある鎖が急に伸びた。
――ゴ ド ン ッ
秤の底が地面に接した瞬間、その小ささからは想像も出来ないような重く、冷たい、暗い音が辺りに響いていた。
俺は地に落ちてしまった黒秤を乗り越えて、更に国彦のもとへと近づいて行く。
「そんな、馬鹿な!?」
奴の血まみれの顔が恐怖で歪んだ。本能で分かったのだろう。いくら水を遣おうと、もう無理なんだと。この天秤には勝てはしない。
俺は一歩、また一歩と夢遊病患者のような覚束ない足取りで、左右にゆらゆらと体を揺らしながら歩き続ける。
「俺のせい……だと? フザケるなよ国彦。全部、お前のせいだよ」
「皆子さんが亡くなったのも、八尋を殺そうとしたのも」
俺が歩くたび鎖はその分伸びていった。ジャラリと後ろで金属のこすれた濁った音がした。
「姉さんが幽霊になって。ずっと、うっとおしかったのも」
「俺が、うつ病になるくらい苦しんだのも。眠れないのも。食欲ねえのも。大学辞めちまったのも」
「あんな糞みたいな会社に入ったのも。上司が屑なのも。顧客が塵なのも。醜女しかいねぇのも」
「クソ婆が腐っているのも。クソ爺が俺を見ないのも」「妹が生意気なのも。姉さんがトチ狂ったのも」「そもそも姉さんがセンコーなんかにレイプされたのも」「電車がいつも混んで邪魔臭せぇのも俺に彼女出来ないのも最近雨ばっか降ってるのも世の中つまんねえのも政治家が不正ばっかすんのも郵便ポストが真っ赤なのも金がねえ金が欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい。全部だ。全部全部全部全部全部全部全部ぜーーんぶっ!!」
――国彦。ぜんぶ、お前のせいだったんだァろ?
俺は国彦の目の前に立ち、茫然とした様を上から見下ろす。
「さあ……、俺に懺悔しろ」
「ふっざけんなあーー!! ハイト、てっめぇー! そんなん全部、お前の自業自得だろうが!!」
一拍おいて次の瞬間、頭に血を昇らせた国彦が直接俺に向かい飛び掛かってきた。しかし無駄だ。背後から数メートルには達した黒く太い鎖がヤツの体に巻きつき、その体ごと遠くへ吹き飛ばす。国彦は奥の部屋のテレビにぶつかり、派手な音とともに床に崩れ落ちる。
「自業自得~? 違うんだよ。俺の罪は全部お前のせいなんだよ」
俺は暗い目で奴を見下ろして言った。
「……だから、お前の罪だろう?」
俺は離れた距離を詰めるように歩いていく。向こうで鎖に絡まり転がる男は、もう体勢を立て直すことも出来ないようで蹲ったままだ。
「ああ、もう一つ許されない罪があるだろう」
俺は奴の耳元にそっと唇を寄せる。
「お前は、俺の芹奈を殺した」
「よって判決は……、『死刑』だ!!!!」
右手にあった、目の前の男を拘束する伸びた鎖と黒い秤が瞬時にその場で消え失せた。そして代わりに顕れたのは、身の丈程もある禍々しい『漆黒の鎌』だった。見た目に反して羽のような軽さしかないそれを右手で操り、ヤツの首へと刃を当てる。
「じゃあな、国彦……」
俺は項垂れた男の白い項を見て微笑んだ。
「お前は死んでも化けて出てくんじゃねえぞ」
ヤツの首筋にうっすら紅い線があらわれる。あと少し引くだけで、コイツの首は離れ、そして『俺の罪』も全て無となる。色がない状態へと変わるように、黒が全てを許してくれる。
「待ってくれ、ハイト」
首に刃を当てられたまま、俯いたままの姿勢で国彦が言葉を発する。
「俺は、俺は……、お前の姉を殺していない。彼女はすでに息がない状態で浴室に倒れていたんだ。俺はその姿を目にした瞬間、どうしても彼女を浴槽に沈めたくなった。だから、殺したのは俺じゃない。本当だ」
「五月蠅い、今さら命乞いか? そんな嘘に騙されるとでも?」
「本当なんだ、信じてくれ」
国彦が俺の足元に縋りつき顔を上げた。真っ暗闇だった彼の瞳が、いつの間にか普段見ているものに変化していた。片目が潰され血塗れでなお、懐かしい親友の顔だった。
鎌を持つ手がピクリと動いた。だが、そんなことは今更じゃあないか。
……姉、芹奈の直接の死因は溺死ではない。彼女は睡眠薬を多量摂取したため、死んだのだ。
「だとしても……、お前がすぐ救急車を呼んでいれば、姉さんを助けられた可能性があったんじゃないのか?」
それと同じだけ、すでに手遅れだった可能性もある。シュレーディンガーの猫のように、彼女の生死については今となっては朧げなものだ。
「――そうだな。それに、俺が皆子や他に大勢を殺したんだ」
国彦は自らの両の掌を眺めて呟く。小麦色の肌のなかでも、もっとも白い部分を見つめ、だが本質的には真っ赤だったはずのそれを強く握り込み、彼は再び顔をあげた。
「…………」
俺の左手にある白の天秤がわずかに揺れた。
「いい、殺してくれ。ずっと、苦しかった。俺は、化け物だ」
「でも、これだけは信じて欲しい。信じられないと思うんだけど……」
「俺は、お前のこと、最高の友達だと思っていたのは本当だ。本当なんだ。すまなかった、ハイト」
そう言って――国彦は目を閉じた。その頬には悔恨の跡が流れていた。
――コトッ
秤の底が床に触れ、二人の前に小さく落ちた。
脳裏に国彦との思い出が駆け巡る。高校時代、大学時代、社会人になっても一緒にいた。こんなに長く共にいたのは、家族以外ではコイツしかいない。
真剣な表情で心配していた顔……たとえ邪な感情があったとしても、それだけではなかった。
それくらい理解できるほど――長く側に居たんだ。
俺はずっと自分のことで精一杯で、国彦がなにかに苦しんでいたのをいつも見逃してきた。コイツが一言、「助けてくれ」っと言ってくれさえすれば……おれは……。
――たとえコイツが化け物だろうと、手を差し伸べてやりたい。
――コイツがいつも俺にそうしてくれたように。
白い秤の鎖の音がシャラリと鈴のような音を響かせる。俺は黒い鎌から手を離し、そっとそいつを地面に置いた。国彦が目を見開きこちらを見た。
俺は涙で滲む視界のまま言っていた。
「それでも! 俺はお前を許せない! でも、俺だってお前が大切だった! 親友だった! だから……、失いたくはなかった」
そうだ、たしかにこの黒い鎌は俺のものだ。傍観という形の、俺の罪悪なのだ。それは俺が償うものであり、決して目の前の男に押しつけていいものではない。そして、この男には命を懸けてもなお償い切れない、多くの罪がその肩へとのしかかっている。
俺に出来ることが有るとすれば、それは――。
「お前の罪は、一生をかけ償ってくれ……」
近くで見守り、支えることだけだ。
「ハイト……」
よろけながらも国彦が立ち上がった時だった。突然、玄関が勢いよく開き、大量の黒服の男たちが雪崩れるように入り込んできた。
「手を上げろ、警察だ!」
驚き振り返ったが、俺はあっという間に壁際まで押しやられる。何人もの警察官が国彦の周りを一斉に取り囲む。
「対馬 国彦だな? 高木皆子の殺人、ならびに犬桜八尋の略取・誘拐の疑いにより逮捕する。署までご同行願おうか」
国彦は瞬く間に手錠をかけられ連れて行かれる。周りの男たちがインカムに向かい「確保」「現行犯逮捕」と繰り返し叫んでいる。
「ちょっ、国彦!! 待てよ!」
国彦は俺の声に振り返り、なにかを言いたそうに口を動かしたが、あっという間に両脇を取られ、引きずるように連行されていった。
――どういうことなんだ?
『高木皆子の殺人』『犬桜八尋の誘拐』
そもそも八尋の誘拐に関して言えば、きっと親が警察に連絡したのだろうが、皆子のことに関しては、目撃者含めてどうやっても事故としか取り扱えないはずだった。それが、ここにきての急展開。
俺は突然の状況についていけず呆然としていた。
思わず後を追いかけると、駆けだした俺の肩を強く掴み、その場に引き留める男がいた。顔を見てから気づく。こいつは以前、高木皆子の三回忌に来ていた刑事だ。
答え合わせをするように、上から苦みばしった渋い声色が降ってきた。
「犬桜 隼君だったね。大丈夫かい? 君からも話を聴くことになるが、取りあえず今は救急車を呼んであるから妹さんと一緒に乗りなさい」
室内から追い出すように強く背中を押しだされ、たたらを踏んだ。振り返った国彦の部屋には、鎌も鎖のついた天秤も、水滴すらもが綺麗さっぱり消え失せていた。
俺は眩暈を覚え、アパートの廊下で崩れ落ちた。
まだ、つづきます・・・