選択
日が落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。
俺は国彦のアパートの前に立ち、かの部屋を見上げている。恐らく今日、ここで一つ大事なモノを失う。いや、それはもしかしたら……、一つでは済まないのかもしれない。そこはこれから俺の選択する行いに寄るのだろう。冗談でなく、そう思う。
むしろ、これがいつもの冗談ならどれ程救われただろう。それがどんなに質の悪いブラックジョークでも今なら大歓迎なのに。
俺はため息と視線とを落とし、一歩前へと踏み出した。……どうしよう、まったく気が乗らない。しかし、いつまでもここにいられるわけでもない。時間もない。急がなければならない。
なぜなら、
ああ見えて短気なヤツだから、
たとえ俺が行かなくとも、とっとと先に進めてしまうかもしれないし。
姉が死んでからもう五年の月日がたつ。だが、幽霊が消えてからはまだ一か月だ。案外、芹奈がいたからこそ、全員が無事ここまで過ごせてきたのかもしれない。
「ああ、なんで姉さんは消えてしまったんだ……」
そんなことは俺が一番良く知っているくせに。スニーカーのつま先で小石を蹴った。
この事態はきっと、あの黒い死神に会った時から決定づけられていた。だが、それを選んだのはまぎれもなく自分だ。そして、これから大事なモノをあそこから奪い返すことが出来るのも、きっと俺だけなのだ。
そのためには慎重に慎重を重ね、その上で賢く、ミスなく、迅速に正解を選び取らなければならない。でなければ、出来なければ、死ぬのだろう。
だと言うのに……、俺は今さら全てを惜しく感じていた。
――『国彦』『八尋』『芹奈』
この呼び声に答える者などいない。
俺の中には相変わらず、倦怠と不安、焦燥感が渦巻いている。この五年間で慣れた感覚だ。
どうしても、その必要があるのに急ぐ気になれない。足は鉛のように重たく、もはや引きずるようにして階段を登っていた。まるでこれから死刑に赴く囚人のようである。しかし、一歩部屋に近づくたびに、一つの解が胸の内を占めていくのを感じる。
「今夜、俺はここで死ねるかもしれない」
それは……どこか迂闊で陽気、そして軽やかな俺の自殺企図だった。
奴の部屋の前だった。扉の横にある呼び鈴を押すが誰の気配もしない。俺はそっとドアノブに手をかけた。
――ギイ……
扉はなんの抵抗もみせず、ゆっくりと開いていく。
鍵がかかっていない。灯りも点いていない。中から誰の声もしない。ただ……水音のみがする。これは、シャワーの音だろうか。
きっと二人は浴室にいる。
進むたびに靴底が水を踏んだ。
仄暗い廊下の端々には、小さな水滴が集まり、そこかしこに水たまりを形成していた。俺はその中を土足のまま、水音が聞こえる方に向かって突き進んだ。
すると、わずかな灯りがこぼれている浴室の隣、洗面所へと辿り着く。正面の鏡の中に亡霊のようにぼんやりした男の影が映る。俺は息をひそめ、そっと手の平を浴室の扉にあてた。聞こえる水音が大きくなる。だが辺りはまだ暗いまま。
しかし、それは当然のことだ。この浴室には灯りなど最初から点いてはいなかったのだから。わずかに見えたのは月光だ。
俺は浴室の扉に手を掛け、それを開け放つ寸前、まだ中にいるモノに向かって最後の呼びかけをした。
「国彦、八尋。お前たち……いるのか?」
「――ハイトか。ああ、八尋ちゃんも俺もここにいる。さあ、入って来いよ」
はっきりと耳に届いたそれは、まぎれもなく友のものだった。
俺は促されるまま浴室の扉を開き、中へと足を踏み入れた。
暗い浴室。唯一、開け放たれた窓からは、玲瓏なる月の光が冷酷に周囲を照らしだす。そのわずかな光と闇夜に慣れた目で捉えたのは、浴槽に力なく揺蕩う八尋の姿だった。
異様な光景だ。服を着たままの彼女と、浴槽に腰掛け熱心にソレを見つめる彼。
俺は目を逸らすことも出来ずに立ち尽くしていた。湯気と湿気と、このおぞましさとで窒息してしまいそうだ。
「八尋ちゃん、全身冷え切ってたから……今温めているところなんだ」
国彦はじっと熱のこもった視線で八尋を見つめたまま、そう言った。八尋はぐったりしてて、とても意識があるようには見えない。
「国彦、 」
「危なかったよ。もう少しで溺れて死んでいたかも知れない。見つけられて、本当に良かったよ」
国彦は心の底から安堵しているようだ。しかし、そこには一歩でも踏み込めば全てが終わってしまうような得体の知れないものが張り詰めていた。俺は緊張から足が震えた。
「警察と救急に、今から連絡をしてもいいか?」
俺はすべきこと、本来聞くまでもないことを慎重に彼に向かってお伺いをたてた。しかし、芸術品を鑑賞するかのように妹を眺め続けるこの男の理解を得ることは叶わなかった。むしろ、男は爛々とした瞳でこちらに問い掛けてくる。
「なぜだ? このままにしていれば、いずれ八尋ちゃんも元通りになる。それに警察なんて呼んでも無駄なのは知っているだろう?」
そうだろうな。――芹奈の時も、高木皆子の時も、警察はなにも見つけることは出来なかった。俺は俯き、浴室のタイルを見ながら奥歯を噛み締めた。もう、言葉もでない。
その時、わずかな光も消え失せ、目の前が完全に黒一色となる。いつの間にか国彦が俺のすぐ傍らに立っていた。彼の背が月光を遮ったため、黒く色を失ったのだ。俺は震えながら俯き、こちらを舐めるように観察してくる視線に耐えた。
「ハイト。俺を信じてくれ。俺が必ず守るよ。なにも心配いらない」
いつか、誰かがそうしたように、国彦は俺の前髪をくしゃりと持ち上げ、顔を覗き込んだ。
その瞳の奥を覗き見た瞬間、俺の中のなにかが変わり――まったくの別モノに生まれ変わっていた。
次話で1章ラスト予定です。が、結末二つ作ってみます。ルートAが八尋エンドで、ルートBが国彦エンドです。良ければ、最後まで読んでいただければ嬉しいです。ありがとうございました。