別世界
「へ~、夏にはまだ早いのにもう怪談話か」
俺は感心したような声を出し、欠伸をひとつした。
平和だ、ふわあ~。大学生はほんと、頭の中が平和でいいな~。
「もう! お兄ちゃんも呑気なんだから。最近のニュース、ちゃんと見てないの?」
半眼の妹が頬杖をつき、呆れたようにこちらを見てくる。対して俺は首の後ろに手をやり、脱力して椅子の背もたれに寄り掛かって空を見ていた。
正直、かけらも興味がわかない。
だいたいニュースっつーのは、意味合い的には珍しい出来事や新しい情報のことだろ? まあ、そんなの久しく見てないな。まずTVをつけないし、メディアとしてならギリ、ネットニュースを斜めに読むくらいだ。
――お、あの雲クジラ型だ。こりゃニュースだな。
俺が教えてやろうと空を指をさしながら振り返ったところ、そちらは随分お取込み中のようでした。
「まあまあ八尋ちゃん。最近、海難事故が多いんだっけ? 怖いな、物騒だね」
すかさず、国彦がそっと八尋の手を握る。彼女の身を心配し安心させようと寄り添う姿はまさしく彼氏の鑑だ。しかし、肝心の彼女さんは好奇心が刺激されたらしく、頭が悪そうな雑誌のゴシップ記事に夢中になっていた。
「そうなんです! 昨日も二十歳の娘が溺れて亡くなったって。やっぱり祟りじゃないかって。ほら、この記事見てください」
「へ~、そうなんだね。ちなみに一昨日は、なんでもサーファーが右足食い千切られたって。なにに食われたのかな? まだ調査中らしいよ」
ピラニアなんて東京にいないし、祟りなんてのも人類にはない。
祟りだ、なんだのと不毛な会話を遮るように、俺は言った。
「まーさか噂通りピラニア……、のわけねーから。どうせサメだろ?」
アマゾン川から東は遙々来たぜ、東京湾近郊!! って、ガッツのあるピラニアなんてホラーって言うか、もはやSFじゃん。だいたい、奴ら淡水魚じゃねーか。
だがしかし、ピラニアだって元を辿れば草食系だったらしいので、そういう意味では侮れない。草食から雑食、更には肉食へと、どんどんマイナーチェンジしていった結果らしい。
そのうち、宇宙に飛び立つ個体が出てきてもおかしくはない。とりあえず、一億年くらいは後だろうが。
なんにせよ、一つ結論するならば――。
「おい、二人とも。しばらくは危ないから……絶対、海に近づくなよ!」
俺は目の前のカップルの顔を見て諭すように言った。二人とも海が好きだからな。どうせ近々行く予定でも立てているのだろうが。
「「ええ~~~~~~!!」」
「ったり前だろーが!! アホかあああ!!」
まさかの不満顔に思わず突っ込む。大丈夫か? このバカップル!
今までの振りはなんだったの? もう、今にも浜辺に頭から突っ込みそう……。
「そんな心配すんなよハイト。サメなんて、俺が釣って煮て食ってやるから!」
「そうだよお兄ちゃん。ちゃんとパワーストーンとかたくさん着けていくから! ねっ!」
なにが、ねっ! だよ。駄目だ、こいつら。
きっと、こいつらの前世は河童と半魚人だったに違いない。
「なんですってー!!なによ半魚人ってー。人魚でしょ、人魚姫ー!」
「まあまあ、八尋ちゃん。きっとハイトの冗談だよ。ハイトも安心しろよ。海にはしばらく行かないし、仮に行くとしても、必ず俺が八尋ちゃんを守るよ」
初夏の香りを感じつつ、俺は目の前の二人に不安を感じた午後だった。
「――ってことがあったんですけど。海中毒とかってあるんですかね?」
「うーーん、海中毒は聞いたことがないなあ。水中毒ならあるんだけど」
相変わらず人気のない病室の中、白いタイル上で俺は美馬先生と二人、首をひねった。
先生は今日もなんの変哲もない、黒い白衣姿だ。
あれから二、三回こうして現実の方でクリニックに訪れているが、奇跡的にいつも受付の人や他の先生を見たことがない。
もっとも、必ず電話予約をしてから来院するようになったので、最近では美馬先生の体のいい暇潰しの玩具とされている気がしなくもない。
そういえば、毎度あの坂道を登ってやって来る俺は、実はピラニアなんかより余程ガッツがあるのかもしれない。
「もともと、スキューバダイビングやサーフィンは中毒性の高い遊びってよく言われてるからな。それで人生を棒に振る奴もじつは結構いるんだよ」
「まあ、海の中って一面真っ青で……こう、なんて言うか別世界って感じ、しますもんね」
ハマる気持ちも分からないでもない。俺はそう同意しながら、正面の『美馬 隆二』を見る。
最初に感じた「美馬先生に対する一種の不安感のようなもの」は綺麗さっぱり無くなり、今では薬を貰うついでに、こうして雑談を楽しむまでになった。
先生は甘いマスクの下、垂れた眦を珍しくつり上げて天井を見た。
「別世界か……。そういえば最近の流行りだな。別世界・異世界・異次元の旅・転生への憧れ。すべてはこの世からの逃避、脱出だな」
「みんな……、今の世の中、息苦しいってことですかね?」
さあ? っと微笑みながら、美馬隆二は細長いコーヒー缶に口をつける。
「個人的には自己愛の満足が難しいからだと思っている。人より優れ、権力や成功、自己の魅力を人々から無条件で賛美・称賛して欲しい。……だが、今の世でそれが満たされることはほとんど無い。革命、改革、あらかた大きいものはし尽くしたあとだからな。だからお手軽に小説や映像で代理的にその気分を味わうんだよ。それなら共に味わうはずの恥や屈辱もなくて済む」
黒い白衣の男は椅子の上で手を組み、優雅な仕草でそれを顎の下へともっていく。
「知っているか? 最近の子供たちは『ADHD』――注意欠陥多動性障害と呼ばれる障害を抱えている割合が増えてきている。ここ二十年で七倍以上になったとか。だが、実際は違う。――もっとだ。親は我が子がそうだと直視できずに治療や特別支援学校なんかに通わせようとしない。社会に出てもうまくいかない奴がこれまで以上にあふれてくるだろうな。そいつらが大人になるころには、もっと現実逃避ブームがくるだろうよ」
そういうものだろうか。一種、趣味も宗教も生きていくための逃避活動のようなものか。もしかしたら、そういうものすら上手に利用出来ない人がでてきて。趣味も宗教も昔ほどその役割を果たしにくいのかもしれない。どんどん短いサイクルでより確実に簡単に、現実から逃れる方法が求められている気がした。
「そういえば黒い死神って話聞いたとき、真っ先に先生を思い浮かべましたよ~」
なるべく軽いノリを装い打ち明けてみる。俺的には海の話よりそっちのほうが引っ掛かったのだ。
「赤か青か……ねえ? なぜ赤と青なんだろうね。もし、俺だったら――黒か白かを選ばせるけどねぇ」
予想した通り、特には不快に思っているようには見えない。
俺は先生の様子に安堵しつつ、相槌をうってから考えた。色の選択か……。美馬の例えが、黒が先に来ていることが、なんだからしいなと笑った。
「ああ。実際に『白黒つける』と同じ意で、古い言い方で『黒白を争う』ってのもあるんだよ」
美馬先生もそう言って笑った。もともと語源的にも英語の『black』と『white』は共に『色がない』という概念を持つらしい。正反対なものに見えて、案外根っこは同じにするということが世の中結構多い。
だが――、
結局のところ、『白』と『黒』の間には、『善』か『悪』か。『正しい』か『正しくない』か。『罪がある』か『罪がない』か。大きな隔たりがあるのだ。
そして、すべての言葉は『白』が選ばれるようになっている。
決して『黒』を選んではいけないのだ――。
それは、いつも通り優しげに見える笑顔だった。
「どちらを選んでも救いがない。出会った瞬間に決まっているという事かな?――どう、ハイト君は別世界に行きたいと思う?」
思わぬことを聞かれてしまった。俺ははっとして顔を上げる。別世界か……。
「う~ん、どうでしょうね。その世界によると思いますが。個人的には……どの世界に行っても自分は自分なので。そうそう生き方とか変えられないような気がします」
別世界に行っても唐突に性格まで変化することはないだろう。つまり陰キャは陰キャのままだ。周りがどうか、ではなくマイナスに自分が取ってしまうからこその陰キャだと思う。つまり――世界は関係ない。
「それに妹たちにとって海が別世界であるように……この世界でも違った世界を覗く事は出来ると思います」
そうだ、なにも本気で異世界に行きたいわけじゃない。少しだけ別世界を覗いてみたいだけだ。そして、俺にとってこの『美馬精神病クリニック』がまさしくそれに当たる。ということは、噂はあながち間違ってはいないのかも知れない。ここは、この人は、得体が知れない。だが、ここに来れば日々の出来事が遠くに感じられる。
それが存外楽しくて、ハマる。
「ふふっ。意外とハイト君は頑固なところがあるんだね。たしかに帰り道一本変えただけで別世界を垣間見ることは、あるだろうねぇ?」
意味ありげに先生が微笑した。その後はいつも通り診察にもならない雑談を続け、マーブル模様の怪しい処方薬を受け取り帰途につく。美馬先生はわざわざ玄関口まで見送りに来てくれていた。どうやら美馬先生もこれから病院を出るようであった。玄関の鍵を閉めている。
「はい、コレ餞別だよ」
振り返った先生から手渡されたのは、いつぞやも貰った細長い形の缶コーヒーだった。そういえば、さっき診察室でもこれを飲んでいた気がする。先生はこの銘柄が好きなのだろうか?
「すいません、いつも。ありがとうございます」
とりあえずお礼を言うと、珍しく口元が歪んでいない先生がじっとこちらを見ていた。
「ハイト君、どっちを選んでも行き着く先は同じだからね。――俺はどちらでも構わない」
そう言い残し走り去っていく影を、俺はしばらくの間ぼんやりと見送っていた。
選択の時はそう遠くはない。
「お兄ちゃん、助けてっ!!」
ブッ! ――ツ――ツ――ツ――
俺は通話が切れてしまった携帯を握りこみ、とうとう、この日が来てしまったことに気づき茫然と立ち尽くしていた。