平穏な日常
「お~い国彦、こっちだ!」
手を大きく左右に振っていると、ようやくこちらに気付いたらしい。長身の頭がくるりと振り返って、人混みをかきわけるようにしてやって来る。息を切らせてるのを見ると呼び出してから急いで来たらしい。急に申し訳なくなる。
「もしかして忙しかったか? 悪いな、無理させたか」
「いいや、全然余裕。それより、なにかあったのか? ハイト」
ネクタイを緩めながら国彦は席に着く。
ここは以前も訪れたイタリアンレストランだ。相変わらず、OL達のランチでご盛況だ。
俺は、まあまず注文しようぜっ、とメニュー表を国彦に渡す。それを受け取った国彦は訝しげに目を見張ったが、結局なにごとも言わなかった。それでもどこか探るような視線でこちらを見た。
俺はその視線にピンと来て、にひひっと性質の悪い笑顔を作ってみせた。途端、国彦は悪戯が見つかった時のようにバツが悪そうな表情をしたので、「なるほどな~」と俺は一人納得して頷いた。
どうやら俺の親友はガラでもなく、少し緊張しているようだ。これは、俺が助けてやるべきだろう。
料理と飲み物が運ばれてきたところで俺は素早く席を立ち、天に向かって大きくグラスをかかげた。
「んじゃあまず、カンパ~イ!!」
「ハァ!? うおっと」
突拍子もない俺の行動にうろたえている様子の国彦を無視して、俺は奴に無理やりグラスを持たせ『チンっ』と勝手に音を鳴らした。気分は豪華パーリナイッ! まあ、グラスの中身は午後の予定を鑑み、ただの水なんだけどネ。
しかし最高にハイってやつになってる俺は、今回ばかりは周囲のOLたちもまったく気にならない。
「一体これはなんの乾杯なんだよ、ハイト!」
訳が分からず苛立たちを隠せない様子の国彦に、俺は機嫌よくこう返した。
「決まってんだろ! 我々の新たな門出に、だ」
そう言いながら今までの報告、――主に『美馬精神病クリニック』でのやり取りと顛末、そして姉からの解放を伝えた。それを聞いた国彦は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で唖然としている。
「え、マジで? え、え。本当に……?」
「おう! マジに本当。いや~良かったよ。全部お前のおかげだ、本当にありがとう」
今までの分もあわせて心を込め丁寧に頭を下げる。本当に国彦に勧められなければ、オンラインクリニックなんてものを受けたりはしなかっただろう。
「なんだよ、そんなに女医の話が聞けなくて残念かぁ? まっ、その代わりと言っちゃなんだが、黒い白衣の美男子ドクターなんて、興味ない?」
「いや、医者の話なんてどうでもいいけど。でも、まだ芹奈が消えて三日目なんだろう? そんなに喜んでて大丈夫か? そんな怪しい薬で……」
俺がのちのち、さらに落ち込むことがないようにしっかり予防線を張ってくる。俺のせいで親友はすっかり心配性になってしまったらしい。
未だ浮かない表情の親友が安心できるよう、俺は今できる精一杯の見栄を張ることにした。
「まあ、それはそうなんだけど。――もっかい姉さんが出て来ても、今度は泣き言わずにちゃんと向き合うよ」
国彦は驚いた様子でスプーンを手から落とした。すぐ近くの店員さんが新しいものを持ってこちらまで来てくれる。笑顔でそれを受け取って、国彦はゆっくりと噛みしめるようにして言った。
「そうか。そうだな。……良かったよ」
「だろ。まあ、そんなことよりお前、――俺に言うことあるんじゃねえの?」
俺は国彦の目を見ながら問いただす。さっと国彦が顔色を変えた。ん? 自覚なしに睨んでいただろうか。少し、ビビらせすぎか。
「なんのことだよ」
「いや、とぼけんなよ。俺、ぜんっぜん、怒ってねえから」
強情な奴め、この期に及んですっとぼけるつもりらしい。
国彦はスプーンでカチャカチャと音を立てながら透明なスープをかき混ぜている。目線を下げ動揺を隠せずにいる奴を内心面白く思いながら、俺は真摯な表情を作り正面の男を見つめた。
「八尋に聞いたよ。告白されて付き合うことになったーって、夜中の二時にな! あいつ惚気やがって」
八尋のはた迷惑な深夜惚気に、二時間も付き合ってやった俺を褒めて欲しい。初っ端からこんな調子じゃあ正直、今後が心配だ。
すると、真剣な目で国彦が聞いてきた。
「いいのか。俺と八尋ちゃんが付き合うことになっても」
「? 別にいいだろう。今までの女みたいに適当な感じで付き合おうってのなら許せんが……。違うんだろう?」
「ああ。俺は彼女に対して真剣だ。でも、お前も八尋ちゃんの事……」
「なに言ってんだよ? そんなわけないだろう。俺たちゃ兄弟だぞ」
「でも、ほんとう――」
俺は国彦の手に自分の手を重ねた。国彦は言葉を止め、しばし探るような目で俺を見ていたが、どうやら納得したみたいだ。今度は国彦が俺の手を取り、強引に握手の形に変える。そして、その手を取ったまま勢いよく立ち上がった。自然、俺は右肩だけを強い力で引っ張り上げられ思わず体制が崩れる。
国彦はハツラツとした表情で、もう片方の手を使って自分の胸を叩く。そして、こう堂々と宣言した。
「八尋ちゃんは俺に任せてくれ、お義兄さん! どうか大船に乗ったつもりで、ゆりかごから墓場まで、ちゃんと俺が面倒みるから」
「うっっぜえ!!! どうせその船、波に乗りっぱなしで陸に戻ってこねえやつなんだろ? しかも、よりによってお前みたいなドデカい弟、邪魔。いらん!!」
俺たちは青空のもと、ようやく晴れやかな表情で笑い合うことができた。