犬桜 芹奈
これは夢だ。いつもの夢だ。
「おいで、ハイト」
高校生になった姉が手招きをしていた。プリーツスカートがふんわり揺れて、甘い、いい匂いがする。まだ見慣れないセーラー服姿が、なんだかいつもの姉じゃないみたいでドキドキする。
俺は訓練された子犬のように、姉のもとへ走る。階段を駆け上り姉に抱き付くと、じんわり体温が移って胸がぽかぽかしてくる。
「今日は楽しかった?」
「別に、いつもと一緒だよ」
前髪をくしゃりと上げられ、芹奈が顔を覗き込んでくる。姉は時たまこうしてくる。
「そっか……。早くハイトも一緒の高校に通おうね。ふふっ――ハイトの瞳は茶色と緑の虹彩がいつも綺麗ね」
ヘーゼルなんて日本人では珍しいのよ。っと、眼の縁にキスをしてくる。姉さんの瞳は俺とは違い、濃い茶色だ。
「俺は姉さんの瞳も髪の色も、綺麗で好きだよ」
俺はお返しに漆黒の髪にキスを贈った。
その時、階下から俺の名前が聞こえてきた。
「八尋を置いてきたの? だめでしょ。仲良くしなくちゃ」
姉の手が俺から離れて行く。俺は名残惜し気にそれを見送り、口を尖らせる。
「だって、あいつトロいんだよ。それに、あいつの瞳も好きじゃない」
綺麗で賢い姉とは違う色を持った、まだ小学生の妹はなんだか苦手だ。じっと見ていると……あのギザギザの歯で齧られてしまいそうで怖い。
「仕方ないの。八尋は私たちとは違うのだから。さあ、一緒に迎えに行きましょう」
姉さんがこちらに向かって手を差し伸べている。俺は姉さんと二人きりでまだこの場にいたかっのだが、しぶしぶ姉の手を取って立ち上がる。階段をおりていくと、そこには――。
朝のひかりの眩しさで目が覚めた。カーテンが全開だった。
「うわっ、床で寝てたよ」
昨日、例の試験薬を飲んでそのまま気絶していたらしい。床で寝ていたわりには、目覚めの方はスッキリしている。
――懐かしい夢を見た。
あれは俺が中学の頃の夢だった。あの頃のことは、今まですっかり忘れていた。
俺と姉は自他ともに認めるブラコン、シスコンだったなと懐かしく思う。たしかに――いい思い出もあったようだ。久しぶりに思い出した、まだ幼い姉の表情がよみがえり知らず笑みをこぼしていた。
俺は朝日に向かって伸びをした。そしておもむろに床を眺める。うしっと気合を入れ散らばった薬を拾い集めて、ほかに拾い残しがないだろうかと周囲を見渡す。そうしてやっと気がついた。
「……姉さんが、消えている」
その日から、どこへ行こうと、この瞳に姉が写りこむことはなくなっていた。