死にいたる病
小柄な老人が咳払いしながら講堂に入って来た。
彼は教卓の前に立ち、顔を上げて最後列に座っているわたしの姿を認めると、ちょっとうなずいた。
そして、「では今日の講義を始めます」と言って、教卓にしわくちゃになった茶色い手提げの紙袋を置く。
この講堂は、大学のキャンパス内に3つある中で一番小さい。それでもマイクを使わないと、教授が何を言ってるのかわからない。
「先生! マイク使って。聞こえない」
わたしが叫ぶと、教授が「なんでそんな後ろにいるの! 君が一番前に来ればいいでしょう。こんなに空いてるんだから!」と、やや興奮気味に答える。
「たしかに」
わたしは笑ってカバンを持つと、階段を下り、教授の真ん前に陣取った。教授がわたしの顔を見て不思議そうに言った。
「まさかね。まさか誰か来てるとは思わなかった」
「そうですか? じゃ、なんで先生はここに来たの?」
「惰性かな。この大学で働き始めて10年。講義は一応やることになってるからね」
「ほかの先生も、そうなのかなあ」
「みんな、それぞれ研究があるから来てるけど、ほとんど講義はしてないみたいだね。聴く人がいないと成立しないからねえ……ところで、君は、ええと。桂木くんだったね」
「覚えててくださってたんですか?」
「もちろん。何度か来てるよね」
「先生はまともに授業してくださらないけど、こうしておしゃべりするのが楽しくて」
「ほう。ありがとう。では、今日は何の話をしようか?」
「先週はメタセコイアの森のお話でしたけど、ちっとも面白くなかった」
「僕の専門は自然史だからね。そういう方面の話しか出来ないのだが」
「今日はわたしが色々質問していいですか? 大人の人の考えを聞きたいです」
「どういう質問? 僕の個人的生活は答えたくないねえ」
「うーん。先生の個人的見解を聞きたいんです」
「オーケー。とりあえず何でもどうぞ」
教授は頭頂部が薄くなっている白髪頭を撫でて言った。
「先生はもうかなりのお年でしょ? あ、失礼。ただ、わたしは、お年寄りってほとんど見たことないの。先生が子どもの頃、既に大人って少なかったの?」
「そうだね……。僕は来年喜寿を迎えるんだけど、あ、喜寿ってわかる?」
「いいえ」
「そうか。77歳のことをそう呼んでたんだ。現代では死語だね。そんな年齢の人間はほとんど見かけないから」