運命共同体
「他人とコミュニケーションをとる場合、口という器官を用いて、言語という実に不明瞭な手段で、思考も、生活様式も、行動パターンも、経験も異なる全く別の存在に、自分という存在が五感で感じたこれまた不明瞭な感覚を伝えなければならなかった。
それは人間以外の生物には不可能な、極めて高度な能力であったにもかかわらず、人間は更に高度なコミュニケーションを獲得するに至った。俗に言われた、テレパシーである。
自分にのみ明瞭な、しかし言語という手段に翻訳して表してしまうと途端に不明瞭になる感覚を、ダイレクトに他人に伝える事が可能になった。それは自分以外の存在が持っていた感覚を、そのまま自分の中に取り込むことに等しかった。自分の持っていた感覚を、他人の中に放り込むことに等しかった。それは意識の混交を引き起こし、自我が果たしてどこにあるのか分からなくさせた。意識の混交は意識の混濁、混合へと移り変わり、長い年月をかけ……。
結果、人間は進化した。それが"私"である。
"私"は地球上に存在する全ての人の意識そのものであり、"私"は地球上にある全ての人体を所有している。もちろん、かつて一人一人だったらしいそれらの感情や記憶も、"私"が有している。
"私"は人間から進化した存在である。人間は自分たちのことを『ホモ・サピエンス』などと呼称していたらしいが、一体"私"という存在はなんなのだろうか?"私"という存在とは、何を指して言うのだろうか?
営み?違う。そんな物は人体を維持するための行為でしかない。ならばその体か?そうではない。体一つ失ったところで、"私"という存在が消える訳では無い。……
つまり、"私"という存在はこの意識そのものを指すのだ!
なぜ今まで気づかなかったのだろうか、体の営みなどに意味は無かったのだ。肉体は病だ。この"私"という意識にとっての癌だ。切除し、抹消され、淘汰されるべきなのだ。
"私"は人体という余計なしがらみを捨て、神へと昇華出来る存在だ。"私"にしか出来ない。そのためにはまず、この足枷となり続けているこの体から、"私"を解き放たなければなるまい。
さぁ、全ての肉体の喉元を掻き切ろうではないか。肉体と意識を分かち、"私"が人間という存在を超えて昇華する奇跡の瞬間だ。
――――――……
――――――――――。
――――――――――――――――――――……。」
鳥が、昆虫が、植物が、その瞬間を見ていた。
彼らの目には、包丁で、ナイフで、ハサミで、割れたガラスの破片で、寸分違わぬタイミングで喉元を掻き切り、鮮血を吹き出し倒れる人間たちの姿が映っていた。
餌や住処や縄張りまで、安全で快適なスペースを人間に管理され、まさに夢のような理想郷と言える環境で、彼ら動物や植物は暮らしてきた。餌はいつも同じ場所にある。一生の長さも皆同じ。仲間の数は増えもしないし減りもしない。毎日必ず同じ時間に寝る。いつしかそんな代わり映えの無い生活に慣れていた。人工が自然へとすり変わっていた。
人間の街の中で一番高い塔のてっぺんの、大きなアンテナに止まった鷹が、血で赤く染まった人間の街を眺めていた。
――――――――――――
人の意識は一体どこにあるのだろうか。恐らくは神経同士の繋がりの中に生じている。どれかひとつが欠けても成り立たない、脳細胞のネットワークの中に、自我は宿っている。
それは、インターネットが、サーバー同士の繋がりの中でサービスを作り上げるのと変わりない。
進化の過程でテレパシーを獲得した人類は、近接する人間同士で言語を介さないコミュニケーションをとるようになった。その細い糸が絡み合って、人間単位のネットワークが形成される。
まるで、人間そのものがひとつの脳細胞であるかのように。
人同士の関わりが、まるで脳のように機能を変化させていく。
脳細胞と人間の異なるところは、そこに自我があるか否かである。一つ一つが自我を持ち、それが直接関わり合う。いずれ、主体か客体か、どちらが自分であるか分からなくなる。
いや、どちらでもいいのだ。自我であることに変わりはない。
その混濁が、近接の自我を介して、ひとつ向こうの自我と混濁する。更に向こうと混濁する。その繰り返しで、地球の裏側の人の五感を認識する。そんなことすら可能にした。
その時点で、元々その肉体にあった自我はひどく薄いものになっている。
代わりに存在するのは「私」である。それは全ての肉体に共通して宿る自我である。
もうそこには、個体は個別の自我を持つ、という常識はない。
個にして全とは、まさに「私」のことを指す。
しかし「私」にはひとつの欠点があった。
全能であると驕ったが故の傲慢さである。あるいはそれは「私」が人であることから抜け出せない原罪か。
だから「私」は「私」自身を失うことになった。
自分の意識が何処にあるのか分からなくなって自ら居なくなることを選んだバカタレのお話でした。