姉の想い
――あらすじ――
万物を創造するプログラミング。
『黒の匣』のプログラマを狙った殺人事件が発生。
殺人鬼の隠れ家にたどり着いたエマ。
そこで知らされる衝撃の事実--
そして、エマの先生であるサリム氏の屋敷に戻ったジャコは
そこで一人の浮浪者と出会う。
「おねえちゃん……寒いよ」
妹のその言葉に、彼女は歯噛みする。
寒くて当然だろう。
冷え込んだ暗い地下牢で、妹が身に纏っているのは薄い布切れ一枚。
ただでさえ脂肪が削ぎ落とされた妹の細い矮躯では、この冷えに抗うことなどできまい。
妹の垂れ下がった瞳。
生気の失ったその瞳が、眠たそうに瞬いている。
少女は妹から視線を逸し、周囲を見回す。
そしてあるものを見つけると、さっと立ち上がった。
「おねえちゃん?」
妹の訝しげな声。
少女は妹に笑い掛けると、ゆっくりと歩きだす。
もう三日間、ろくなものを口にしていない。
体力が落ち、まともに歩くこともできなかった。
だがそれでも、少女は身体を左右に揺らしながら、歩を進める。
二人の少女を閉じ込めている鉄格子の扉は、随分前に開け放たれ、そのままにされていた。
何故彼がそれをしたのか、その理由など分からない。
分からないからこそ、二人の少女はそこから出るのを躊躇っていた。
だが少女は妹のために、その扉を出ることを決断した。
(この子は……あたしが守る……)
扉を出る時、少女の足が止まった。
僅かな逡巡。
だがすぐに、少女は扉を抜けて通路に出た。
岩が剥き出しの地下通路。
簡易なランプが、壁に幾つも連なっている。
そのランプの九割は、火が消えていた。
少女は火がついているランプから芯を抜き取ると、次々とランプに火を灯してく。
すべてのランプの火がつくと、地下は明るく、そしてほんの僅かだが、温かみを帯びた。
気休め程度にしかならない。
それは少女にも分かっていた。
だがその気休めですら、消耗しきった妹には、必要な要素だった。
「おねえちゃん……」
明るくなった地下。
改めて少女は、妹に振り返り、その姿を見た。
妹は地面に横たわり、小さく胸を上下させていた。
呼吸をするだけでも、体力が消費されていくのだろう。
まるで死に向かうカウントダウンのように、呼吸をする度に、妹の瞳から活力が失われていく気がした。
少女は通路の奥を見やった。
いつも彼が現れる方角。
そこに向かえば、地下への出口があるはずだ。
一瞬、少女の意識が飛びかけた。
身体がよろめき、岩壁に肩がぶつかる。
鋭利に尖った岩場に皮膚が擦れ、枯れ葉のごとく容易に裂ける。
落ちかけた意識が、痛みにより覚醒する。
少女は頭を強く振ると、再び足を前に踏み出した。
左右に揺れる少女の身体。
だがそれでも、少女の踏み出す足には、強い意志による力が感じられた。
「おねえちゃん……」
少女の背中に掛けられる、弱々しい妹の声。
少女は一度立ち止まると、再び妹に振り返った。
そして無理矢理にでも口角を上げ、少女は妹に笑みを見せる。
ほんの僅かでもいい。
妹を安心させてやりたかった。
「外に出て……何か……食べ物探してくるから……そこで待ってて……」
少女はそう言うと、再び地下の出口に向かって歩き出した。
ここを抜け出したからと行って、食べ物があるとは限らない。
そもそも、ここがどこなのかさえ、少女は分からない。
(だけど……)
何をしても妹を守る。
なぜなら――
(あたしはこの子の……おねえちゃんなんだから……)
その少女の決意は、今も変わっていない。
ジャコから受け取った追跡装置。
それは人気のない屋敷を指し示していた。
外壁に蔦が絡みついている、打ち捨てられた廃墟で、所有者は恐らく誰もいない。
数十年前から続いているエルバン都市開発計画。
その波に乗れなかったこの周辺地域には、当時の富裕層が建て、放棄した屋敷が存在している。
恐らくこの屋敷も、そう言った類のものに違いない。
エマは追跡装置をポケットに仕舞うと、深呼吸をして、自身の状態を確認する。
殺人鬼にひどく殴られた身体は、当然ガタガタだった。
指一本動かすだけでも億劫で、腫れ上がった瞼に塞がれた右目は、まともに見回すことも叶わない。
それでも、ここに来るまでの間に多少の体力は回復できた。
少なくとも――
(思考は……クリアね)
足元にいる黒猫が一声鳴いた。
彼女はユーリを一瞥し、すぐさま視線を屋敷に戻した。
(できれば……ここから屋敷をプログラミングでぶっ潰したいところだけど……)
そんなことをすれば、ルナを傷付けてしまう恐れがある。
ルナが屋敷のどこにいるのかわからない以上、やはり直接屋敷に乗り込むしか方法はなさそうだ。
(さて……どうしたものかしら)
定石を取るなら、隠密行動を取り、ルナの居場所を探るべきだろう。
殺人鬼とは一度戦い敗北しているのだ。
殺人鬼に見つからないよう息を殺し、屋敷でルナを見つけたら、彼女を連れて退避する。
ジャコからも、決して殺人鬼と戦わないよう念を押されていた。
彼に言われるまでもない。
それがベストの選択であることは、エマにも分かっていた。
だが――
「ユーリ!」
ユーリがエマの腕に駆け上がり鳴いた。
黒猫の身体から黒霧が立ち上る。
大量に噴き出した黒霧はエマの周囲を旋回すると、彼女の意志によりコードが書き込まれ、それに従い変質する。
プログラミングで創られた直径一メートルの砲弾が、屋敷に向けて放たれた。
砲弾は屋敷の屋根を大きくえぐり、破壊した。
砕けた残骸が周囲に舞い、破壊音が空気を大きく揺らした。
暫しの静寂。
赤い夕日に照らされた屋敷が、濃い影を落として不気味に沈黙する。
一分ほど経過した後。
屋敷の正面扉が左右に開かれた。
扉の奥にいるのは、ボロボロの衣服を身に纏った、蓬髪の男。
殺人鬼。
殺人鬼は屋敷から出ると、玄関前の階段を降り、荒れた庭園に出た。
足首まで伸びた雑草を踏みしめ、殺人鬼がぎろりとエマを見やる。
「よくここが分かったな……」
エマは慎重に、殺人鬼との距離を計る。
目測で約十メートル。
歩幅にして八歩。
呼吸を整え、神経を鋭利に尖らせる。
雑音が徐々に消えていく。
殺人鬼の声と、呼吸音のリズムだけが聞こえる。
幻聴かも知れないが、殺人鬼の血管が脈打つ音まで聞こえてくるようだった。
殺人鬼にだけ意識を一点に集中する。
自身の持つ容量を全て殺人鬼にだけ注ぐ。
この一瞬だけは、奴を倒すためだけに、己を存在させる。
殺人鬼が訝しげに言う。
「……しかし何故……わざわざ私に存在を示すような真似をした……私の不意を突くチャンスでもあったはずだ」
エマは腰を落としながら答える。
「ちんたらしてたら……その間にあんたがルナに何するか分かんないでしょ。
だから少し派手なノックをして、あんたを引きずり出してやったってわけよ」
彼女の答えに、殺人鬼は納得したのだろう。
男は「なるほど」と一つ頷き、こう続けた。
「だが無用な心配だったな……なぜなら先程連れてきた少女はもう――」
殺人鬼は淀みなくそれを告げた。
「殺した」
その言葉が、エマに染み渡るまで、暫くの時間がかかった。
空気圧を鼓膜が感知し、それを電気信号に変換する。
変換された情報から音を読み取り、それが法則性を持った、共通言語だと認識する。
言語の構文を解析し意味を抽出、そこにある事実を脳に伝える。
脳はその事実から、記憶になぞらえた感情を出力。
その感情は――
安堵だった。
「そう……ありがとね」
「?」
殺人鬼には、その言葉が意外だったのだろう。
怪訝に眉を曲げている。
エマはおかしくて、笑い出しそうになった。
どうしてこんな簡単な理屈も、理解できないのか。
鈍い殺人鬼を内心で嘲笑う。
ルナが殺された。
だったら――
「これでもう……何も考える必要ないわ」
妹の安否を気遣う必要もなく――
妹の恐怖を慮る必要もなく――
妹の苦痛に胸を締め付けられる必要もない。
複雑な想いを巡らさなくていい。
自分の立場も相手の立場も考えなくていい。
もう何も縛るものはない。
やるべきことはたった一つに収束した。
「殺す」
ユーリから黒霧が噴き出した。
「くそ!
無駄足か」
エマに言われ、ジャコは再びサリム・レステンクールの屋敷を訪れていた。
サリムはウィザードと認定されるほどのプログラマだ。
彼の助力が得られれば、大きな戦力となる。
(それに……エマからも厚い信頼があるようだしな)
普段傲慢な態度をとる彼女が、自身の先生であるサリムに対しては――不承不承と言った体だが――、一目置いている。
彼女ほどの優れたプログラマに、誰にも負けないと、そう言わしめる人物。
「くそっ!」
ジャコは悪態をつくと、サリムの屋敷の扉を強く叩いた。
プログラミングを扱う殺人鬼。
エマはその殺人鬼を追っている。
殺人鬼とは戦わないよう忠告しておいたが、彼女がそれを素直に聞き入れるとは、ジャコには思えなかった。
(今度こそ本当に……殺されるぞ)
殺人鬼がどこを根城にしているか分からない。
だが場所によっては、もうエマと殺人鬼が出くわしていてもおかしくはない。
彼女を助けるには、もう一刻の猶予もないのだ。
「仕方ない……やはり当初の予定通り、『黒の匣』と警察に応援を頼もう」
サリムがどれほど優秀な人間であろうと、いつ帰ってくるかも分からないのでは、これ以上待つわけにもいかない。
ジャコはそう判断すると、踵を返して走り出した。
屋敷の庭園を抜けて門を抜ける。
するとふと、屋敷の塀に誰かが座り込んでいるのが見えた。
率直に言って、薄汚れた人間だった。
肩まで伸びたボサボサの髪。
汚れの付いたシャツとズボン。
眼はどんよりと暗く覇気がない。
何もない空間をじっと見て、口を半開きにしてぼんやりとしている。
(浮浪者か……全く……こっちは忙しいっていうのに、呑気な……)
舌打ちを堪えて、ジャコは男の前を横切る。
だがすぐに、ピタリと立ち止まった。
(待てよ……念のために、サリム・レステンクール氏に伝言を残しておくか)
浮浪者とてその程度のことはできるだろう。
ジャコはそう考え、浮浪者の傍に近寄った。
浮浪者はジャコが近づいても、何の反応も示さなかった。
ぼんやりと虚空を眺めているだけで、身動き一つしない。
ジャコは構わずに、浮浪者に話し掛ける。
「私は『黒の匣』に在籍するジャコ・ベルモンドという者だ。
君に頼みたいことがあるのだが、聞いてくれるかな?」
浮浪者に反応はない。
ジャコは咳払いを一つすると、先を続けた。
「この屋敷に住む住人が帰ってきたら、その者に『黒の匣』ジャコ・ベルモンドが会いたがっていると伝えてほしい。
もちろん礼はする。
どうだ?
やってくれるか」
だがやはり、浮浪者に反応はなかった。
(世捨て人に頼んでも無理か?)
そうジャコが思った時、浮浪者がゆっくりと口を開いた。
「……分かった」
それは雑音とも取れるほど、小さな声だった。
だがジャコはその言葉を確かに聞き取ると、素早く立ち上がった。
「助かる。
頼んだぞ」
踵を返し、『黒の匣』のエルバン支部へと戻ろうと足を踏み出しかけた。
すると――
「ぶべ!」
ジャコは転んで、地面に顔面を強かに打ち付けた。
鼻血の噴き出した顔を上げ、自身の足元を見やる。
彼の足首に何かが絡みついている。
それは――
浮浪者の右手だった。
「な……何をするんだ!
手を離してくれ」
ジャコが怒鳴ると、浮浪者はどんよりとした眼をジャコに向け、こう言った。
「礼を……」
「?」
「礼をよこせ」
今度は我慢することなく、ジャコは舌打ちをした。
この忙しい時に、なんとも面倒な人間なのだろうか。
(これだから……こういった連中は好きじゃないんだ)
ジャコが唾を飛ばして怒鳴る。
「住人に先程の言葉を伝えてくれたら、きちんと渡す!
今は持ち合わせもないし、忙しいんだ!
頼むから足を離してくれ!」
「ならば今渡せ」
聞き分けのない浮浪者に苛立ちが募る。
「人の話を聞いていたのか!
だからここの住人に――」
「だから、お前の言葉はこうして受け取ったと言っているんだ」
浮浪者の妙な言い回しに、ジャコは眼を丸くする。
頬を掻き、信じられないような思いで、浮浪者に尋ねる。
「えっと……あなたの名前を伺ってもいいかな?」
浮浪者は淀みなく答えた。
「サリム・レステンクール」