振り上げられた刃
殺人鬼がルナを連れ去ってから、十分が経過した。
当然身体は回復していない。
地面に何度も叩き付けられた頭部は、頭蓋骨に穴が開いているのではないかと疑いたくなるほどひどく痛み、頭痛と目眩から吐き気を催している。
だがエマは立ち上がった。
大量に流れる出血で、視界は赤く染まり、気道が詰まり呼吸もままならない。
それでも、身体を震わせて地面を踏みしめた。
ルナを助ける。
その使命感だけで、エマは一歩足を踏み出した。
と――
エマの肩を誰かが掴んだ。
「そんな怪我で、どうしよっていうんだ!
エマ!」
肩を掴んだのは金髪の青年、ジャコだ。
彼は普段見せている間抜け面を引き締め、真剣な面持ちでエマを見つめていた。
エマは腫れ上がった瞼からぎろりとジャコを見据え、掠れた声で言う。
「離せ……」
言いながら身体を振る。
ジャコの手を振り払うつもりだったのが、身体は弱々しく震えるだけで、それはできなかった。
エマは、肩に乗せられたジャコの腕を掴むと、強く握りしめる。
「ルナを……助けないと……」
「馬鹿を言うな!
もう君は大人しくしているんだ!」
ジャコの腕を強引に肩から外す。
反動で蹌踉めいた身体を立て直すと、エマはジャコに振り返り、彼を睨め上げた。
「あたし……のせいで……ルナが……連れて行かれた……あたしが……助ける」
「駄目だ!
君はもう家に帰れ!
あとは『黒の匣』に任せるんだ!
殺人鬼の正体がプログラマだった。
それを『黒の匣』に報告すれば、戦闘に特化したプログラマを王都から派遣してもらえる。
もう私達のような一般プログラマが出るような事態じゃなくなったんだ!」
エマは「ペッ!」と血反吐を吐くと、踵を返し、ずるずると身体を引きずって歩き始める。
こんな男に構っている暇などない。
こうしている間にも、ルナは恐怖に震えているはずだ。
妹は姉である自分が――
(助けないと……)
エマの背後から、ジャコの声が掛けられる。
「第一、君はあの殺人鬼がどこにいるのか、知らないだろ。
もう君にはどうしようもないはずだ……」
かなりの距離を歩いたつもりだった。
しかし、ジャコの声は嫌になるほど近くから聞こえてきた。
それに舌打ちをし、彼の言葉を無視して歩き続ける。
ジャコの言う通り、エマには殺人鬼の居場所など分からない。
だがそれでも、動かずにはいられなかった。
(姿を消せるわけじゃない……通行人に話を聞いて、何としてでも突き止める……)
こんな血まみれの女の話を聞いてくれる人がどれほどいるか分からない。
だが最悪、暴力に訴えてでも、殺人鬼の情報を――
そこでふと、エマは気が付いた。
ジャコに振り返り――まだほんの十メートル程度しか歩いていなかった――、彼の顔を見つめる。
突然立ち止まったエマを怪訝に思ったのか、ジャコが眉根を寄せている。
エマが眼光を尖らせ、言う。
「君は……?
その言い方……あんたなら……奴の居場所が分かるっていうの?」
「!
それは……」
ジャコの反応で確信した。
「ユーリ!」
エマは足元にいた黒猫に意志を投射する。
黒猫から黒霧が立ち上り、エマを中心に旋回した。
黒霧にコードを書き込み、プログラム実行の一歩手前で停止させる。
「何を!」
ジャコが驚愕に目を見開いた。
プログラマの彼には、エマが書き込んだコードの意味が理解できたのだろう。
ジャコに向けられた、攻撃的なプログラムを――
「弾丸程度の小さな物体を高速で打ち出す……拳銃ほどの力はないけど、肉にはめり込むし……眼球に当たればただじゃすまない」
「何のつもりだ……」
「奴はどこにいるの……?
答えないと、プログラムを実行する」
狂気の滲んだエマの瞳。
ただの脅しではない。
それを、ジャコも分かったのだろう。
彼の表情がみるみる蒼白に変わっていく。
だがそれでも、ジャコは強く頭を振った。
「だ……駄目だ……そんなことしたって、私は口を割らないぞ」
自意識過剰なジャコだが、正義感は強い。
それは、先日の遊園地での事件を見ても分かった。
彼自身を盾に脅迫しても、埒が明かない。
エマは小さく言う。
「これと同じプログラムを……街の連中に仕掛けたっていいのよ」
「!」
ジャコの表情が変わった。
エマは一切の感情を面に出さず、酷薄に続ける。
「脅しじゃないわよ……他の連中なんてあたしにとって……どうでもいい人間なのよ……ルナを助けるためなら……誰が傷つこうが……死のうが知ったこっちゃないんだから」
半分はハッタリだが、半分は本気だ。
ルナを助けるためなら、見ず知らずの連中なんか犠牲にしたって構わない。
どんな罪を犯そうと彼女を守る。
それが、姉である自分の責任なのだから。
暫くの間、ジャコは逡巡していた。
だがふっと息を吐くと、懐から何かを取り出す。
ジャコがエマに歩み寄る。
彼女の一歩手前まで近づくと、再び彼は息を吐いて口を開いた。
「私が殺人鬼に撃った銃弾だが、あれは予めプログラミンで造り出した物体だ」
「……で?」
「……この弾丸は約半日の間、一定の周波数を持った物質を放出し続ける。
それはあらゆる障害物を通過して……つまり簡潔に言えば、その周波数を読み取ることで、弾丸の位置が特定できるようになっているんだ」
そう言うと、ジャコは懐から取り出したモノを、エマに手渡す。
それは直径が十センチほどの円形の物体で、方位磁石のように尖った針が内部に埋め込まれていた。
その針が、ある一点の方角を差している。
「私達『黒の匣』の人間が使う追跡装置さ。
その針の先に、殺人鬼がいる」
エマは針の方角を確認すると、再び足を引きずるようにして、歩き始める。
ジャコの舌打ちが、背後から聞こえてきた。
エマに追跡装置を渡さざるを得なかったことを、悔やんでいるのだろう。
彼は声に苛立ちを滲ませつつ、エマに言う。
「こうなったら仕方がない。
いいか。
君は殺人鬼と戦わずに、時間稼ぎをしていてくれ。
その間に、私が警察や『黒の匣』から人員をかき集めておく。
これがルナ君を助ける最善の方法だと肝に命じてほしい。
感情のままに行動し、ルナ君を危険な目に会わせるのは、君だって本意じゃないだろ」
ジャコの言葉に、エマは返事をしなかった。
彼の言うことが正しいことは、彼女も理解していた。
だがルナに危害を加えた男を前にして、そんな冷静な判断ができる自信がなかったのだ。
だから何も言わずに、この場を立ち去ろうとした。
だが――
エマの脳裏に一つの可能性が浮かび上がる。
「ジャコ……」
エマはジャコに振り向いて、彼を呼んだ。
ジャコは人を集めるために、踵を返そうと半身になっていた。
彼は彼女の声に驚いたのか、目を丸くしている。
そんな彼に向かって、エマは言う。
「……人を集める前に……一度……先生が戻ってきているか……確認してちょうだい」
「先生って……サリム・レステンクール氏のことか?」
エマは頷き、話を続ける。
「そろそろ……先生が放浪から帰ってきてもいい頃……だから……」
「だが……今はサリム氏よりも、ルナ君を助ける戦力を整えるのが先決だろ?」
「だからよ……」
痛みに歪んだ表情に、無理矢理笑みを浮かべ、エマが言う。
「ムカつくけど……うちの先生は誰にも負けないんだから」
連れ込まれた場所は、人気のない屋敷だった。
電灯は壊れているのか、スイッチを押しても明かりがつかない。
ガラスの割れた窓から差し込む僅かな月明かりが、部屋に満たされた闇を、頼りなさげに照らしていた。
その弱々しい明かりに照らされた部屋を見て、ルナは呻いた。
「なに……これ……」
部屋の床には、何かが大量にばら撒かれていた。
無数の羽虫が集っているその赤黒い物体は、鼻を曲げるような悪臭を放っている。
胃酸が逆流し、喉元に押し上がってきた。
ルナは口を抑え喘ぐように息と吐く。
目尻に涙を溜めて、床にばら撒かれたそれから必死に目を逸らす。
彼女はもう、その床に撒かれた物体の正体が分かっていた。
何故なら彼女は、その物体の一つと、目が合ってしまったからだ。
恐怖に瞼を見開いた男性の頭部。
膝から力が抜け、身体が崩れ落ちそうになる。
だが彼女はそれに抗う。
膝を付けば、床に吸われた大量の血液が自身に付着する。
それに嫌悪したのだ。
(……殺人鬼に連れ攫われた……人達だ)
その確証があったわけではない。
部屋は薄暗く、先程目に写った男性の頭部も、その顔がよく見えたわけではない。
だから、ジャコから見せてもらった被害者の写真と、照らし合わせることなどできなかった。
だが間違いはないように思える。
この床に散らばった人間の部品は、今まで殺人鬼に連れ攫われた被害者達だ。
そうでない期待を抱いてはいけない。
自分が――
(こうならないことを……期待なんか……)
ルナの背後に影が立った。
「今まで大勢のプログラマを解体した」
ビクリと肩を震わせて、ルナは振り返った。
顔色の悪い蓬髪黒髪の男が、彼女の背後に立っていた。
ルナをこの場所まで連れてきた人物。
床にある物体を散らかした張本人。
殺人鬼だ。
ルナは千切れそうに脈打つ心臓を手で抑えて、殺人鬼から一歩後退する。
殺人鬼が淡々と話を続ける。
「だが……未だにわからない。
幾ら解体しようと……そこからは何の痕跡も見当たらない。
ただ無機物を割くかのごとく、切り口から中身が溢れるだけだ。
そこにあるはずの設計図。
それは巧妙に隠され、見ることができない」
「あ……あなたは……なにが……したいんだよ……?」
その答えが訊きたかったわけではない。
ただ男から少しでも距離を空けたくて、時間稼ぎをしたかっただけだ。
ルナはジリジリと後退しながら、男を注意深く見据えた。
男がルナの問いに答える。
「私が知りたいのは、強力なプログラマを成しているコードだ。
優秀なプログラマを分解し、その設計図を見つけ出し理解する。
それが私をより強く進化させる」
床にばら撒かれた人間の部品。
その一部―恐らく肩口から肘――に脚を引っ掛け、ルナが床に尻餅をつく。
白いローブ越しに伝わる、不快な液体に尻が浸かる感触。
それに、ルナの背筋が粟立った。
男が一歩部屋に足を踏み込んだ。
ルナは尻餅をつきながら、腕と足をもがくように動かし、必死に後退した。
腰が抜けてしまった。
もう立ち上がることができない。
男が腰をかがめ、床から何かを持ち上げた。
それは赤黒い液体に濡れた、肉厚のナイフだった。
彼はそれを指先で弄ぶようにくるくる回し、独り言のように呟く。
「これはプログラミンで創ったモノではない。
このナイフにハッキングすることは、お前にもできまい」
神が創造した物質。
それは人間が創った物体と本質的には変わらない。
だが神の創造物は、人間の創り出したそれとは遥かに精度が違う。
人間の限られた脳では、神の創造物に書き込まれているコードの、その断片を理解することすら、不可能だとされている。
人間が暗黒物質から創った不出来な模造品ならばともかく、そうでない物質にハッキングを仕掛けることはできない。
それはルナほどのプログラマでも覆せない、常識だった。
「これで、お前の設計図を見させてもらう。
君の性能の秘密を、理解するために」
男が何故、優秀なプログラマを解体し、その仕組を知ろうとしているのかは、分からない。
だが、神が創造した物体を理解することは誰にもできない。
男が幾ら人間を解体しようと、人間を成す設計図を見つけ出すことなど不可能だ。
だがそんな常識を説いたところで、男を説得することなどできないだろう。
無残に解体され、床に散らばったプログラマの中にも、殺人鬼に対してその試みはしたはずだ。
だが結果として、彼らは無数の部品に解体され、男は殺人行為を止めていない。
何をしたところで殺される。
エマを助けるために自身が身代わりになった。
それは後悔していない。
だがその時に一度決めた覚悟が、がらがらと音を立てて崩壊していくのを感じた。
死の恐怖が、ルナの身体を支配する。
「い……いやだ……」
少しでも男から距離を取ろうと、尻餅をついたまま後退する。
だが当然ながら、部屋の広さは有限である。
彼女の背中が、部屋の壁に当たった。
男が、床に散らばった部品を踏みつけながら、ルナへと近づく。
彼女はただ震えて、男を見ていることしかできなかった。
ルナの腕が男に掴まれ、床に引き摺り倒される。
男は彼女に馬乗りになると、彼女の細い腕を膝で踏みつけ拘束する。
男の落ち窪んだ眼孔が、ルナを見据える。
彼女は恐怖で声が出なかった。
間近に迫った死が――
実態を伴った手となり――
彼女の喉を締め上げる。
「さあ、お前の全てを見せてくれ」
男が刃を振り上げた。