欠けた双子
――あらすじ――
万物を創造するプログラミング。
『黒の匣』のプログラマを狙った殺人事件が発生。
エマは殺人鬼をあぶり出すことに成功するも、その異様な雰囲気に背筋を凍らせる。
殺人鬼に勝負を挑むエマだが、彼女にとって最悪の事態に陥ってしまう
エマの決断は早かった。
「逃げるわよ」
背後にいるルナとジャコ。
その二人から動揺の気配を感じる。
特に、ジャコにはエマの言葉が意外だったらしく、彼は慌てたように彼女に話しかけてきた。
「逃げるって……あの殺人鬼からか?
当然といえば当然だが、君がわざわざ呼び出したんだろ?」
「うっさいわね。
まさかあんなとんでも人間が相手なんて分かんなかったのよ。
蛇程度なら怖くないけど、ヤブを突っついたら、虎が出てきちゃった気分だわ」
前方に仁王立ちする陰気な男。
蓬髪の隙間から覗くその瞳は、どこまでも冷たい。
人を生物外で認識する、殺人鬼の眼球。
その眼光に、エマは背筋を凍らせた。
ジャコがゴクリとつばを飲み込む。
「虎って……そんなにやばいやつなのか?」
「あんたもアイツのプログラミング見たから分かるでしょ?
あたしと同等かそれに匹敵する腕前よ。
それに、暗黒物質の出所が全く分からない。
まるで身体からにじみ出るように空間に展開されている。
こんな奴、見たことも聞いたこともないわ」
エマが一歩、後ずさりする。
殺人鬼との距離は二十メートル弱。
この距離なら、十分に逃げ切れるはずだ。
踵を返し走り出そうとした、その半秒前。
殺人鬼が唐突に口を開いた。
「逃げる気か?」
ビクリとエマが身体を震わせる。
ジャコとの会話が聞こえるような距離ではない。
恐らく二人の態度から、彼女たちが逃亡する可能性を読み取ったのだろう。
殺人鬼が両腕を左右に突き出す。
その行動の意味が分からず、エマは疑問符を浮かべた。
感情のこもらない声で、殺人鬼が言う。
「ならば、ここにいる者を殺そう」
殺人鬼の両腕から、大量の黒霧が立ち上る。
即座にコードが書き込まれ、火花を散らして四本の剣が実体化する。
その剣が左右に二本ずつ宙を走り、騒ぎを傍観していた野次馬に突き刺さった。
「なっ!」
剣に貫かれた男が、血を吐いて倒れる。
と同時に、野次馬から悲鳴が上がった。
他人を押しのけ、我先にその場から逃げようとする人々。
その人の波に向け――
殺人鬼が再び右手をかざした。
「くそ!」
エマの意志に反応して、ユーリから黒霧が立ち上る。
手早くコードを書き込んで、創り出した物体を前方に投げつける。
殺人鬼の前に、エマの創った巨大な壁が落下した。
逃げる野次馬と殺人鬼の間に落ちたその壁は、殺人鬼の生み出した数本の剣を弾いて砕く。
殺人鬼とエマ。
互いに創り出した物体が消失する。
殺人鬼がエマに振り返り、ボソリと言う。
「逃げる気はなくなったか?」
「このイカレ野郎が……」
エマはぎりぎりと瞳を尖らせ、殺人鬼を睨みつける。
そして静かに覚悟を決める。
この男は、人を殺すことに頓着がなさすぎる。
逃げられたら追いかけるのが面倒だ。
ただそれだけの理由で、平然と無関係な人間を犠牲にできる。
もしもエマが姿をくらませば、この男は幾らでも犠牲者を増やし、エマを炙り出そうとするだろう。
やるしかない。
「エマ……」
背後からエマを心配する、、ルナの声が聞こえる。
エマは歯ぎしりする。
ルナをこんな危険に巻き込んだ自身を、全身全霊をもって呪っておく。
ただの殺人鬼程度なら仕留めることは造作もない。
その自信があった。
だからこそ、危険性を深く考えることもせずに、騒ぎを起こして殺人鬼をおびき寄せてしまった。
そのあまりにも軽率な自身の行動を、今更ながら激しく後悔する。
エマは殺人鬼を見据えながら、背後にいるジャコに命令する。
「ジャコ。
あんたはルナを連れて、さっさと逃げなさい。
あの変態さんは、あたしが目当てみたいだからね」
「何言っているんだよ!
エマ!」
「バカを言うな!」
ルナとジャコが同時に声を上げた。
ルナがそれを拒絶するのは半ば予想していたが、ジャコも同様に否定したことに、エマは意外に感じた。
ジャコはエマの肩を掴むと、ぐいっと背後に引き寄せて言う。
「奴の狙いは『黒の匣』のプログラマだろ。
それなら私が奴のターゲットだ。
君たち子供こそ、早く逃げるべきだ。
そもそも、私が君たちを巻き込んだんだ。
責任は私が取る」
「あいつの狙いはプログラマよ。
さっきから寒気がするような殺気を向けられているから分かるの。
『黒の匣』が狙われたのは、ただプログラマが『黒の匣』に多いと言うだけ」
「それでも、私が相手をする。
ここは子供の出る幕じゃない」
「子供とか大人とか関係ないでしょ!
三流のあんたに、あいつを止める……」
ぞくり。
悪寒が走る。
素早く殺人鬼に向き直ると、大量に立ち上った黒霧に、攻撃的なコードが書き込まれる光景が見えた。
エマは咄嗟に、不可視の障壁を眼前に創り上げる。
殺人鬼の下から、大気が歪むほどの圧縮された空気が打ち出された。
エマの作り上げた障壁が空気砲を受け止め、ひび割れて消失する。
直撃は避けるも、空気砲の衝撃を全て吸収し切ることができず、その余波がエマとジャコ、ルナに襲いかかった。
大型台風のような暴風。
それにエマは必死に耐える。
エマの肩から手を放したジャコが、無様に後方に転がっていく。
そして――
「きゃああ!」
ルナが強風に煽られ、背中から地面に倒れた。
「ルナ!」
背後を振り返り、ルナの安否を確認する。
幸い、ルナに怪我はなかった。
だが痛みに顔を歪める妹を見て、エマの自制心が、途端に崩れる。
「殺してやるわ!
このクソが!」
エマは吠え猛ると、態勢を低くして殺人鬼に駆け出した。
「エマ!
駄目!」
ルナの声が背後から聞こえる。
だがそんなもの関係ない。
妹に害する奴は、誰であろうと許さない。
疾走りながらユーリに意志を投射。
プログラミングを開始する。
宙に三本の剣を生み出し、殺人鬼に向けて投げ放つ。
手加減のない攻撃。
人を殺す意志を持った凶器。
それを殺人鬼は微動だにせず、空中で弾き返した。
一瞬早く、殺人鬼の眼前にコードが展開されたのが見えていた。
先程のエマ同様に、不可視の障壁を創り、身を守ったのだろう。
だがその程度のことは、予測の範疇だった。
プログラミングは実行するのにタイムラグがある。
プログラミングで防御した殺人鬼は、ほんの半秒間、次のプログラミングを実行することができない。
その隙を突き、エマは殺人鬼の懐に入り込む。
(プログラミングじゃあ、良くて互角。
なら、体術で片を付ける)
エマと殺人鬼の体重差は歴然。
だがそれを補って余る技術を、先生に叩き込まれた。
態勢を低く保ったまま、殺人鬼の足首めがけて蹴りを放つ。
殺人鬼が半歩後退しそれを躱し、即座に右拳を突き出してくる。
エマは後退すると同時に殺人鬼の右袖を掴み、手前に引き寄せる。
拳の進行方向に対し、予期しない力を加えられた殺人鬼が、バランスを崩してたたらを踏む。
エマは前屈みになった殺人鬼の鼻面めがけて、肘鉄を打ち込んだ。
ゴシャ!
殺人鬼の顔が上向き、背後に蹌踉めいた。
エマは大きく一歩を踏み出し、殺人鬼へと追い打ちをかける。
つもりだった。
だが――
「ごはっ!」
突然、下から突き上げる形で、腹部に衝撃が走った。
プロボクサーのアッパーを腹に叩き込まれたような、それほど強烈な一撃。
エマの軽い身体が衝撃で一瞬宙に浮き、背後に背中から倒れた。
腹部から込み上げる激痛に、エマは息もできずにのたうち回る。
涙で湿る視界に、地面を転がる球状の物体――ボウリングの玉ほどの大きさ――が写る。
その物体が、パラパラと砕け消失する。
プログラミングにより創られた物体。
恐らく先程腹部に走った衝撃は、この物体を足元から叩きつけられたことで、生じたものだろう。
だが――
(奴の黒霧は……腕から出ていた……腕は警戒していたはずなのに……)
何故足元から、殺人鬼の創りだした物体が飛んできたのか。
何にせよ、不意を突かれた。
ダメージは深刻だ。
呼吸すらままならず、暫く立ち上がることさえできそうにない。
と――
エマの視界に、男物の革靴が写る。
その靴が――
激痛にしびれるエマの腹部に、深々と突き刺さった。
「かっ!」
肺を圧迫され、自然と顔が跳ね上がる。
そのエマの頬に、靴先が叩きつけられる。
身体を転がし、地面にうつ伏せに倒れ込むエマ。
彼女の口から、大量の血が吐き出される。
どうやら口の中を深く切ったらしい。
震える腕を支えにして、何とか起き上がろうとするエマ。
そんな彼女の頭部を、殺人鬼が靴底で力強く踏みつけた。
顔面が地面に叩きつけられ、鼻から大量の出血をする。
口も鼻も血で塞がれて、増々、呼吸が苦しくなった。
エマはか細い息を吐きながら、殺人鬼を見上げる。
殺人鬼が酷薄な目で、エマを見下ろしていた。
「これで、少しは大人しくなるか?」
殺人鬼の問いかけに、エマは口の端を曲げ、嘲笑う。
「だ……れが……まだまだ……暴れ足りないって……のよ」
「そうか」
殺人鬼は屈み込むと、エマの髪を鷲掴みにし、ぐいっと上に持ち上げた。
頭皮からプチプチと、髪が千切れる音が聞こえる。
痛みに耐え、殺人鬼を睨みつけるエマ。
そんな彼女を、首を傾げて見据える殺人鬼。
そして――
エマの顔面が、地面に叩きつけられる。
一度。
二度。
三度。
顔面が地面に叩きつけられる度に、エマの身体が痙攣するように跳ねる。
子供によって乱暴に扱われる人形のように、力ない四肢が、頭部から走る衝撃に、振動する。
意識が朦朧とする。
もはや、眼も開けられない。
エマの顔面は血で真っ赤に染まり、大量に流した涙でクシャクシャに歪んでいた。
大きく口を開け、喘ぐように呼吸するエマ。
そんな彼女に、冷たい声が掛けられる。
「これで、少しは大人しくなるか?」
「……」
返事ができない。
意識をつなぎ止めることだけで、精一杯だった。
強烈な睡魔に侵食される脳内に、殺人鬼の声が響く。
「返事はない。
が、抗う力はないようだな。
君を連れていく。
優秀なプログラマである君を理解するために、君を分析させてもらう」
殺人鬼の言葉の意味など分からない。
だがエマは、薄れ行く意識の中で、自分がこれから殺されるのだということを、理解した。
「駄目だ!
ルナ君!」
「放してよ!
このままじゃ、エマが殺されちゃう!」
涙をこぼしながら、エマに駆け寄ろうとするルナ。
そんな彼女の腕を、ジャコが強く掴んでいる。
ルナは力一杯腕を振るも、ジャコは掴んだ腕を決して放そうとはしなかった。
ルナは叫ぶようにジャコに懇願する。
「お願いだから放して!
あんなに血だらけで、もう意識だってないかも知れない!
エマが死んじゃったら……駄目なんだよ!
だからお願い!
手を放して!」
だがジャコは掴んだ腕を放そうとしない。
彼は、緊張で引き締まった表情でルナを見据え、諭すように話す。
「駄目だ!
君は安全なところまで逃げていろ!
エマは私が助ける!
約束する!
私を信用してくれ!」
「信用なんかできない!
ジャコさんは運動だってできないし、プログラミングだって大したことないんだもん!
エマを助けられっこないよ!」
ジャコに向け、ルナが叫ぶ。
昂ぶった感情が、建前のフィルタを除去し、偽りのない本音を、彼女に吐き出させた。
ジャコの表情が歪む。
ルナの言葉が的を射たものであると、彼自信も認めているからだろう。
だが彼はその痛烈な言葉にも、たじろぐことはなかった。
「確かに……私のプログラミングの腕は、君たち姉妹に劣るかもしれない。
だがこの命に代えても、エマは助けてみせる。
せめて身代わりにだけでも……」
「無理だよ!
あの人の狙いは優秀なプログラマなんでしょ!?
だったら、ジャコさんよりもエマを狙う……」
ルナの頭に、閃くものがあった。
「ルナ君……?」
突然、黙り込んだルナを訝しみ、ジャコがルナの顔を覗き込むように、前屈みになる。
ルナはその隙を付き――
ジャコの股間を躊躇いなく蹴り上げた。
「がっ!」
思わぬ攻撃に会い、ジャコの手がルナの腕から離れる。
股間を押さえうずくまるジャコを尻目に、ルナがエマと殺人鬼の下に駆け出す。
顔中を赤く染め、動かなくなったエマ。
そんな彼女の髪を、無遠慮に鷲掴みにする殺人鬼。
その光景に、ルナの中でふつふつと殺人鬼に対しての殺意が湧いてくる。
「駄目だ……ルナ君!」
ジャコの制止の声。
だがそんなもの無視だ。
姉に害する奴は、誰であろうと許さない。
しかし、ルナは理解もしていた。
自分では殺人鬼を止めることはできない。
エマと違い、運動はからっきしなのだ。
だが――
(止めなくてもいい。
エマさえ助かれば)
ルナは立ち止まり、叫んだ。
「エマを放せ!
殺人鬼!」
殺人鬼の眼が、ルナに向けられる。
感情を湛えない、無機質な瞳。
その瞳を、ルナは厳しく見据える。
殺人鬼がつまらなさそうに、右腕を上げた。
殺人鬼の右腕から黒霧が立ち上る。
殺人鬼がその黒霧にコードを書き込む、その前に、ルナは言った。
「ぼくのほうが、そっちの子よりもプログラミングの腕は上だよ」
殺人鬼の眉が、ピクリと動いた。
ルナは一息に続ける。
「だから、連れて行くならぼくのほうがいい」
ルナの言葉に、誰よりも驚愕したのは、エマだった。
閉じかけた意識がこじ開けられ、全身が熱くなる。
声を上げて、ルナを制止したかった。
だが吐き出された息は、自分でも驚くほど弱々しく、空気を震わすことすら叶わない。
殺人鬼がルナを見据えている。
彼はルナに突きつけた右腕を降ろさぬまま、「ほう」と曖昧な返事をする。
そして――
「ならば証明してもらおう」
右腕から黒霧を立ち上らせ、一本の剣を創り出した。
剣が宙を疾走し、ルナへと向かう。
ルナが両腕を前に突き出す。
彼女のか細い腕で、肉厚の剣を止められるはずもない。
だが、ルナの突き出した両掌に剣が接触した、次の瞬間――
パキンッ!
音を立てて、剣が空中でバラバラに砕け、消失した。
殺人鬼の眼が、僅かに見開かれる。
ルナはゆっくりと両腕を下ろすと、殺人鬼を睨みつけ言う。
「これで証明になった?」
殺人鬼がプログラミングした物体。
ルナはその物体にハッキングを仕掛け、殺人鬼の組み込んだコードを内側から破壊したのだ。
当然、言うほど容易な技術ではない。
他者が創り上げた物体に干渉し破壊するなど、両者に大きな実力差がなければ、不可能だ。
それをルナは、剣が接触してから肉に食い込むまでの、その僅かな瞬間で成し遂げた。
恐らく、殺人鬼はルナの実力を図るために、多少の手加減をしていたのだろう。
だがそれでも、ルナの抜きん出た技術力を証明するには、十分だったはずだ。
殺人鬼が、鷲掴みしていたエマの髪を放した。
そして、ルナの下へと近づいていく。
(止めないと……)
エマはそう思うも、身体はまるで動かすことができなかった。
大切な妹に、殺人鬼が接近する。
無様に地面に這いつくばりながら、エマはボロボロと涙をこぼす。
殺人鬼が、ルナの一歩手前で立ち止まる。
「お前は、素直についてくるか?」
「……行くよ。
でも条件がある」
殺人鬼の眉がピクリと動く。
ルナの声は震えている。
だがそれでも、毅然とした態度で、ルナは言う。
「もう誰も傷付けないで」
「その条件をこちらが呑む利点がない。
お前を力づくで連れて行けばいいのだからな」
「約束してくれないなら、この場で自害してやる」
殺人鬼が、ルナをジロリと睨みつけた。
ルナの肩がピクリと震える。
だが彼女は決して殺人鬼から目を逸らさず、睨み続ける。
細かく振動するルナの瞳。
殺人鬼はその瞳に話し掛けるようにして、言う。
「お前がそれをする可能性は低い。
そう簡単に、人は自分を殺せない」
ルナが息を呑むのが分かった。
殺人鬼もそのことに気が付いたはずだ。
だが殺人鬼は鼻で息を吐くと、ルナから視線を逸した。
訝しむルナに、殺人鬼が淡々と言う。
「だが、いいだろう。
お前の提示した条件に従おう。
可能性は低くとも、お前を失うリスクは避けるべきだ」
ルナに背中を向け、殺人鬼が彼女に命令した。
「付いてこい。
妙な真似はするな」
ルナが小さく頷く。
殺人鬼が歩き出す。
ルナも、殺人鬼の背中を追いかけ、歩きだす。
ルナがエマの横を通り抜ける。
エマは全身に力を入れ、何とか顔だけでも持ち上げる。
ルナはエマを一瞥することもなく、通り過ぎていった。
それが、エマに心配をかけまいとする、ルナの気遣いだということは、すぐに分かった。
何故なら、エマには見えてしまったからだ。
横を通り過ぎる時の、ルナの横顔が――
浅慮な姉を助けるために、果敢に殺人鬼と交渉した妹の横顔が――
恐怖に歪んでいるのを――
「――――!」
エマは肺を潰すようにして、叫ぼうとした。
だがやはり、口から吐き出されるのは、隙間風のような情けないものばかりだ。
何でもいいから、殺人鬼の気を引く言葉を叫びたかった。
怒声でも罵声でも、懇願だっていい。
謝って済むなら、喉から血が出るまで謝ったっていい。
だから――
(ルナを連れて行かないで!)
徐々に小さくなる、殺人鬼とルナの背中。
その背中に突き刺すような気持ちで、声を絞り出そうと藻掻く。
しかし、今のエマはあまりにも無力だった。
と――
パンッ!
妙に間の抜けた、軽い破裂音が聞こえた。
と同時に、殺人鬼の身体が僅かによろめく。
「くっ!」
殺人鬼はよろけた身体を立て直し、その場に踏みとどまった。
殺人鬼の背後で、ルナが驚きに眼を見開く。
殺人鬼がゆっくりと振り返る。
その視線をエマも追いかける。
殺人鬼が見据える先。
そこには、拳銃を構えたジャコの姿があった。
銃口から硝煙を上げる拳銃。
それを握りしめたジャコが、信じられないとばかりに呟く。
「そんな……当たったはずだ……」
ジャコの呟きに、殺人鬼が律儀に答える。
「ああ。
肩に着弾した。
中々の腕前だ」
「どうして……なんともないんだ?」
その問いかけに、殺人鬼は答えなかった。
殺人鬼がジャコに右腕をかざす。
ジャコをプログラミンで始末するつもりだろう。
殺人鬼の右腕から黒霧が立ち上る。
その時、殺人鬼の右腕の上に、小さな手が置かれた。
「約束だよ。
誰も傷付けないって」
ルナだ。
彼女が殺人鬼の腕を掴み、じっと殺人鬼の眼を睨みつける。
殺人鬼はルナを一瞥することもなかった。
だが、殺人鬼の腕から立ち上る黒霧が、その濃度を徐々に薄くしていく。
ルナはほっと息を吐くと、ジャコに振り返り言う。
「ジャコさんもお願い。
これ以上、この人を刺激するような真似はしないで」
「しかし、ルナ君」
「この人が本気になって、もしもエマが殺されちゃったら、どうするのさ。
だからお願い。
もう何もしないで」
ルナの言葉に、ジャコがグッと息を飲み込む。
さらに続けて、殺人鬼がジャコに警告する。
「先も言ったが、私がその気になれば彼女を力づくで連れて行くこともできる。
お前たちを皆殺しにしてだ。
多少のリスクを避けるために彼女の条件を呑んだに過ぎない。
私の気を変えるような愚行は、慎むべきだな」
ジャコは暫く逡巡した後、拳銃を構えた腕を力なく下に落とした。
「ありがとう。
ジャコさん」
ルナはジャコにお礼を告げると、殺人鬼を促し、再び歩きだした。
「ル……ナ……」
エマがようやく絞り出した声。
それは、蚊の鳴くようなものであったが、離れていくルナの脚を、止めることに成功する。
しかしルナは、エマに振り返りはしなかった。
彼女は背中を向けたまま、ポツリと呟く。
「ごめんね。
エマ」
それだけ言うと、ルナは小走りに殺人鬼の背中を追いかけた。
ルナの小さな背中が、エマの視界から消えた。