労多くして功少なし(作:SIN)
心地の良い柔らかい光と、ボンヤリとした頭を撫ぜていく風。
目を閉じれば視界は真っ暗な筈なのに、目の奥に見えるのは舞い散る桜の花びら。
遠くから聞こえて来る異国の言葉に、誘われる……。
「寝るな、寝るな!」
意識の奥深くに沈んでいく心地良さを一気に台無しにする軽い衝撃を頭に受け、伏せていた顔を無理矢理に上げると、目の前には丸めた教科書を握るシロがいた。
そんなシロの隣には、教科書を囁くような声で音読しているセイがいる。
聞こえる、聞こえるよ……異国の、言葉……。
「寝るなって!」
スパァーン!
「いった……そんな力いっぱい叩く事ないやんか」
丸めた教科書で叩かれた割にジンジンと痛む頭を擦りながら文句を1つ吐いてみるが、
「実力テストの勉強会しようって言うたんは何処の誰や?」
と、痛い所をつかれてしまっては黙るしかない。
新学期早々にある実力テスト。赤点さえ取らなければどうって事もないんだけど、その赤点を取りそうな勢いのセイの為……いや、復習を兼ねているから自分の為でもあるんだけど、とにかく勉強会を開いて、実力テスト満点を目指そうって事になっていた筈。
開催地はシロの部屋で、机の上には数学と科学の教科書。セイはさっきから英語の教科書を自信なさげな小声で音読中。
こうしてしっかりと体を起こしてみると全く眠くはないのに、少しでも伏せてしまうと瞼が閉じようとしてくる。
おっと、危ない。また叩かれる所だった。
「休憩しよ。折角桜も咲いてるんやし、散歩がてらcherry-blossom viewing!」
窓を指差しながら英語の教科書をパタンと机の上に置いたセイは、誰の返事も待たずに立ち上がると、俺達を急かすようにパチパチと手を叩く。
英語の勉強直後だから、なんとなく英語を使いたい気持ちは分かるんだけど、そこは“HANAMI”の方が雰囲気があると……まぁ良いか。なんにせよ、ここまで気分が勉強から反れてしまったら教科書を広げた所でなにも頭には入らない。なら、気分転換する為に出かけるのは賛成。それに、ウトウトする度に脳裏に桜が舞っていたんだから、俺ももしかしたらお花見がしたかったのかも知れない。
あぁ、じゃなくて“HANAMI”だ。
どうせだからコンビニでジュースとお菓子も買って、本格的に宴と洒落込もうじゃないか。
さぁ行こう。とした所で、俺達が部屋を出るよりも先に部屋の中に入ってきた人物が1人。
「シロ!1回でえぇからお兄様って言うてくれへん?流石兄貴。とかでもえぇで」
少し慌しく早口でそう言ったのは、シロのお兄さんだ。
「は?意味分からんし。出てけや」
ギロリとお兄さんを睨むシロ。
「出てくけど、その前に何か……尊敬?してるっぽい言葉頂戴」
尊敬してるっぽい言葉ってなに!?これは何かの質問?心理テストかなにか?
「はいはい、respect,respect」
シッシッと手を振りながら適当に答えるシロだけど、無駄に発音が良いから様になっていると言うのか……いや、だけどそれは尊敬してるっぽい言葉じゃなくて、英語で尊敬って言っただけ。流石にそれじゃあお兄さんも満足しないと思うよ?そもそも求められている答えじゃないし……。
「んー……まぁえぇか」
良いのか!?
何故かこれで納得したらしいお兄さんは、セイの頭をポンポンと撫ぜ、最後俺に握手を求めてから部屋を出て行ってしまった。
こんなにも全ての行動が謎な人も珍しい。そう言う意味では尊敬でき……ないか。下手をすれば不審者だもん。シロのお兄さんだから大丈夫だけど、全く知らない人が同じ事をしたら恐怖でしかないよ。
まぁ、全くの知らない人が部屋の中に乱入してくる事なんてありえないんだけど。
それよりもお花見だ。
じゃなくて“HANAMI”だった。
「STANDUP!」
うわっ、ビックリした。
お兄さんが謎だからって急に大声出す事ないだろ?それに、もう立ってるし。
「もー、行くで」
コンビニでスナック菓子とジュースを購入してから公園に行くと、そこではもう既にあちらこちらで宴会が始まっていた。
お酒を飲みながら楽しそうに喋る人、バーベキューをしている若者、ボールで遊ぶ親子。桜の木の下が空いていないし、桜から少し離れた所にあるベンチもカップル等が座っていて空いていない。
「歩こか。えぇ場所見付かるかも知れんし」
人のあまりいない場所を求めて歩き回っているうち、公園じゃなくて裏山に行こうと言う事になり移動してみたは良いが、皆考える事は同じなのだろう、桜の木の下にはことごとくのようにレジャーシートが敷かれていた。
お酒を飲んだり、バーベキューをしたり、ボール遊びをしたり、男女が座ってしっとりとした雰囲気を醸し出していたり。
そしてそれは山道を外れた場所にある小川付近でも同じだった。
ここまで来て駄目なんだ、花見は諦めた方が良いかな。
「あれ?向こう岸人少ないで」
そろそろ帰って勉強会の続きでも……と提案する前にセイが小川の向こう岸を指差した。
見ると確かに人は少ない。だけど、向こう岸に行くには山を降りた所にしかない橋を渡って、こちら側よりも鬱蒼と生い茂っている山道を歩かなければならない。今がもう少し暖かい時期なら、小川に入って渡るって技も使えたんだろうけど。
ザブザブ。
靴を脱いで手に持ったセイが、率先して小川を渡って行くと、靴を脱いでズボンの裾をたくし上げたシロも続き……これは、強制参加なのかな?
「コウ、何してんねん。早ぅ来いや」
向こう岸から2人が呼んでいる。距離にすると2メートル程度しかないのにその声は酷く遠くから聞こえてきている感じがする。
声はしっかりと聞こえてきてるんだけど、なんだか可笑しい。
「やっぱ止めとこーや。頂上まで行ったらえぇ場所あるかも知れんし」
「俺らもうこっちにおるんやけど?」
「戻って来たらえぇやん」
「菓子とジュース俺が持ってるんやけど?」
俺達3人分のお菓子とジュース入りの、結構重たいだろう袋はシロが持ってくれている。店を出た時からズット持ってくれているから、シロに「来い」って言われると断れない。
「分かった……けど、スグに戻ろうな?」
こんなにも向こう岸に行くのが嫌なのは如何してだろう?靴を脱ぐのが面倒だからかな?それとも、冷たい小川の中に入るのが嫌だから?それとも、他に何か理由があるのだろうか?
どんな理由があっても、渡らなければならないんだけどさ。
ザブザブ。
思ったよりも冷たくなかった小川を渡りきると、目の前に少し開けた場所があって、その奥には大きな桜の木が1本立っていた。それなのに、誰も木の下にレジャーシートを敷かず、桜を囲むようにして座っている。
ワイワイガヤガヤ、とか言う楽しそうな雰囲気とは明らかに違って、ちょっと儀式的な雰囲気だ。
1人の男の人が端から順にお酒を注いでるんだけど、注がれた人がグイッと飲み切るまで次の人にお酒を注がないんだ。飲み終えた人も、お酒が注がれるのを待っている人も、静かに座っているだけ。
ここにいる全員が1グループの花見客なのだろうから近寄り難いし、見付かっても駄目な気さえしてくる。
少し怖い雰囲気ではあるけど、ここにいるって事は小川を渡ってきたが、険しい獣道を歩いてきたかどっちかって事だよね……これだけ大勢あるんだから荷物だって多い筈。それを担いで獣道?それともピシッとしているスーツの裾を捲りあげて小川を渡ったのかな?大荷物を持って?
花見に対する熱が凄いよ!
なんとなく茂みに隠れた俺とシロの横では、ズボンの裾をたくし上げなかったセイが、
「ズボン濡れたぁ。サブイー」
と、騒いでいる。
この雰囲気に物怖じしないとは、流石だ。花見中の怪しい集団に見付かると、なんだか物凄く面倒な事になりそうな気がするし、早く向こう岸に戻ろう。
「じゃあ帰ろっか」
「そうやな、風邪引いても面白ないしな」
最初はセイと一緒になって俺を呼んでいたシロだけど、流石にあの集団を見て怖くなったのだろう、俺の意見に乗っかってくれて、小川を一緒に渡ってくれた。そうするとセイも俺達に続くしかない。
もっと近くで桜を見たかった。とかなんとかブツブツ文句を言いながら小川を渡り、そして誰よりも先に靴下と靴を履いた。
あーあ。先に足を拭いてから……タオルなんて持ってきてないわ。
濡れている足のまま靴下を履くと、靴下が地味に湿った状態になる。セイみたいにしっかりと濡れていない分まだマシなんだろうけど、それでも気持ちが悪い事には変わりない。
勉強会を始める前に足だけ洗わせてもらおうかな。
「おぉっと!」
下山を始めてスグ、俺の前を歩いていたセイが突然視界から消えた。慌てて立ち止まって下を向くと、しゃがみ込んでいる背中が見える。
「どした?」
足でも捻ったのかな?こんななだらかな下り坂で?だったら立ちくらみ?体が冷えて風邪を引いたとか?
「んー。何か踏んだみたいやけど、大丈夫。早く帰ってズボン乾かそ」
何を踏んだのかが気になったので屈んで足元を見てみるが、凶器になりそうな物は落ちていない。しいて言うなら石と、子供の落し物なのだろう、丸っこい玩具が転がっているだけだ。靴を履いているんだから石を踏んだとしても怪我はしないだろうし、捻った訳でもないなら大丈夫かな?
急にしゃがみ込むからビックリしたじゃないか。
「乾くまで勉強会やな」
同じように足元を見ていたシロが安心したように溜息を吐きながら言うと、セイは何度か小さく「あれ?」と言い始めた。
如何したんだろう?と俺達はまた屈み込む。
「ちょっと待って」
さっきから待ってますけど!なに?どうしたんだよ。
「何か忘れもん?」
でも、セイは特に鞄とか持って来てなかったし、コンビニで買ったお菓子とかジュースはシロが持ってるし、鍵とか財布を落としてきたとか?
「いや……ズボン、乾いてる」
裾を触りながら俺達を見上げてくるセイは、触ってみて。と手を掴んできた。
触れてみたズボンの裾は、生乾きとかそんなんじゃなくて、まるでさっきまで濡れていたのが嘘のように乾いている。
「どんだけ勉強したないねん」
いやいや、そんな強い思いがあったとしても、濡れていた物を乾かす効果があるなんて聞いた事ないから!
とは言うものの、他に説明が付けられない。
元々そんなに濡れていた訳ではなかった?
「ジュースとお菓子あるし、もう宴だけでえぇやん」
この不思議な現象完全無視!?
「アホ。勉強しなアカンやろ」
勉強って!この不思議現象に対するスルーっぷりがえげつないな!
「花より団子って言うし、宴にしよーや」
「花じゃなくて勉強な」
2人は勉強会についての言い合いを始めてしまった。
だけど、不思議現象なんてこんな身近な場所で起きる訳がないんだし、きっと何かタネがあるんだろう。
濡れていたのは片足だけで、俺達に確認させた方は元々濡れていなかったと見た!
触って確かめてみるが、ズボンの裾は両方濡れていない。
ちょっとしか濡れていなかったのかな?これだけ寒いんだから少し濡れただけで冷たく感じるんだ。現に俺は今足が物凄く冷たくて、靴下が完全に濡れているように感じてる。けど、実際靴下は湿っている程度。きっと手で触れてもベチョベチョに濡れているとは感じないだろう。
そう言う事?
手が冷たい時に冷たい布を触っても、なんとなく濡れているように感じる。だったら、ちょっとだけ湿っている布を冷たい手で触ったら乾いているように感じるのかも?
もう1度ズボンの裾を触ってみると、冷たい。その冷たさが外気によるものなのか、水分によるものなのか……。
いや、水分によるものに違いない!
「花見出来んかったんやから、宴位えぇやんか」
「息抜きしに花見ってなっただけで、メインは勉強会やろ」
「じゃあ息抜きに宴」
もう良いわ!
「この散歩が息抜きやろ」
呆れ顔のシロは、まだしゃがみ込んだままだったセイの頭に向かって手刀を振り下ろし、セイはそれを避ける為にパッと横に避けてから立ち上がり、足を1歩後ろに下げて防御姿勢をとろうとしたんだと思う。
ポチャ。
地味に、そして静かに着水。
「濡れたぁぁぁ」
あーあ、もう完全に濡れたよ。
しかし、靴ごと行くとは。