壁を建てる(作:鈴木りん)
男は、来る日も来る日も、壁を建てていた。
雨の日も、風の日も。
カンカン照りの暑さにも負けず、凍てつくような寒さにも負けず。
男は、毎日毎日、壁を建てていた。
かつて、彼はこの辺りの権力者だった。
大金持ちで、傲慢で。
勿論、誰も彼に逆らうものなどいなかった。逆らおうものなら、その土地から出て行かねばならなくなるからだ。
だが、ある日のこと。
彼は事業に失敗し、ほぼ無一文になったのだ。
それは、齢60代なかばの、人生の終盤にさしかかった頃のことだった。
彼に残ったのは、一人で住むには広すぎる屋敷と、先祖の残してくれた広大な敷地。
カネの切れ目は縁の切れ目とは、よく言ったもの。
こうなるともう、誰も彼には見向きもしなくなった。
あれほどたくさんいた屋敷の使用人も、すべていなくなった。
若くて美人――それが自慢の妻も、ついと姿を消した。
温かい食べ物の匂いがしなくなった家に見切りをつけたのだろう――彼に尻尾を振っていた犬たちも、その首につながった鎖を自ら喰いちぎり、何処にか消えた。
飼い犬にまで愛想を尽かされた彼は、まさにひとりぼっちだ。
暮れゆく空に向かい、何やら言葉にならない言葉を吠えてみる。けれど、誰ひとりとして、そして何ひとつとして、反応はなかった。
視界から消えゆく夕陽と同様、深く沈む自分の心に動揺した彼だったが、そのとき、ひとつだけ意外なことに気づいたのだ。
「こんなに綺麗な夕焼けが、無料とは……。この世は、なんて太っ腹だ」
深く窪んだ彼の目から、一滴の涙が零れ落ちた。
そんなことが起きた日の、翌日からだった。
自宅敷地の境目に、彼が壁を建て始めたのは。
季節は、春の盛り。温かな陽射し降り注ぐ、穏やかな朝だ。
今の彼にとってどうしようもないくらい広い応接間は、電気も点けられずにがらんどうと化していた。
大きなテーブルにへばり付くようにして、石のように彼が鎮座する。その目前に置かれていたのは、窓からの斜光に照らされた銀のアルマイト容器がひとつだった。
そこに入っていたのは、たったひと切れの、固くなりかけたパン。
口をごにょごにょ動かし何やら呟くと、容器に手を伸ばし、ゆっくりとした動きでパンを口へと運ぶ。どんより眼の彼が、まるで何かの儀式のように、虚ろに顎を上下に動かした。
パンに味は無い――それを、彼の表情が物語っている。
とそのとき、眼球だけを動かして外の景色を何気なく見遣る。
不意に目力を蘇らせた彼が、眩しげに目をしかめる。
「ああ……。そうだ、そうだった。こんな俺にも、やるべきことはあったのだ」
パンを喉の奥に無理矢理押しやり、たった数分の朝食を終えた彼は、先程までとは見違えるほどの機敏な足どりで、日ごと緑濃くなる庭へと向かっていった。
あれほど賑やかに高級車の並んでいた玄関先の駐車場に、今では一台の車も停まっていない。
首を失くしてしまったのだろうか――
そう思うほどに彼は首を動かさず、真っ直ぐ前を見つめたまま無言でそこを通り抜けた。そんな彼の前に現れたのは、見慣れているはずだが初めて見るかのように新鮮な気持ちのする、広大な庭だった。
世話する人もいなくなり、後は枯れるのを待つばかりとなった樹々や花々の他に庭に残されていたのは、使用人愛用の手押し車ひとつと、花壇などを囲うようにして置かれていた大量の赤茶けたブロックレンガだった。
一度大きく頷いた彼は、手当たり次第にレンガを地面から抜き取って、手押し車に積めるだけ積んだ。
その後、手押し車をゆらゆらと重そうに押しながら歩くこと、20分。
ようやく彼は、自分の家の敷地の北側の境界にたどり着いたのだった。
「そうだ、俺にもやることはあったのだ」
手押し車の荷台から薄汚れたレンガをひとつ取り、広い敷地の境界線と思しき場所に、ことりと置いた。それは、大海に浮かぶ小さな孤島の如く小さな点模様が、彼の広大な敷地の中に出現した瞬間だった。
――点の集まりは、線。
次々と境界線上に置かれていく、レンガたち。
一列に整然と敷き並べられたそれは、小さな小さな万里の長城のように見えた。
「俺にも、やることはあるんだよ。この通り」
一日の作業を終えた彼はそう言って、満足げに頷いた。
あれから一体、何年が経ったのだろう――。
そんな事すら分からなくなってしまうくらい、時間が無造作に通り過ぎて行った。
積み始めてから、およそ一年後だった。
ようやくブロック一個分の高さの線が、敷地をぐるっととり巻く輪となり繋がった。
作業は、もちろんそれで終わらなかった。
二段目、三段目……赤茶色のレンガを、ひとつひとつ積み上げていく。
そして現在は、八段目の作業中。大人の股下くらいの高さになったそれは、ようやく「壁」といっていいくらいの代物となっている。
そして、やって来た今日という日。
肌を刺すような攻撃的な夏の陽射しが、朝から彼を襲っていた。
健康的に焼けた肌はそれをモノともしなかったが、それでも栄養不足の体には少々こたえていた。
だが黙々と、レンガを積み上げていく。
いつものどおり、淡々と時間をやり過ごす。
そんな日常に発生した、突然の出来事。
汗まみれのシャツ一枚で作業する男の前に、まだあどけなさの残る中学生くらいの少女が現れたのだ。
涼し気な白のワンピースに身を包み、茶色い壁の向こう側に立つ彼女のそんな姿は、透き通るような白い肌と相まって、まるで人の形をした天からの賜りもののように思えた。
――そのうち飽きて、何処かへ行ってしまうだろう。
無視して作業を続けた彼だったが、いつまでもこちらを見続ける彼女に、根負けした。
作業の手を止め、無造作に伸びた白髪の切れ目から彼女を見下ろすと、
「何か用かね?」
と、声を掛けたのだ。
すると、興味有りげに瞳を輝かせた彼女が、待ってましたとばかりに口を開く。
「おじさん、ここで何をしているの?」
「何をしているのかって? ……見てのとおり、壁を建てているのさ」
「ふうん……。何のために?」
一瞬、答えに窮した、男。
だが、それをおくびにも出さずに視線を彼女から外し、作業を再開する。
「そんなもの、誰もここに入れさせないために決まってる」
「ふうん……。何のために?」
「何のため――だって?」
男の息が、荒くなる。
今度は作業を止めず、ガチャガチャと音を立ながらムキになってレンガを積み上げた。
「そりゃあ……この家を守るためさ」
「家? 家って、向こうにある大きな建物のこと?」
「いや、それだけじゃない。“家族”や“財産”だって家なんだよ」
「ふうん……」
――俺には、そんな守るべき家族も財産も、とうに無いけどな。
震えそうになる声をなんとか保って答えた彼は、目を合わせないようにして黙々と作業を続けた。
けれど、そんな彼の気持ちを見透かしてしまったのであろう。少女は、瞳の奥にある真実を探るかのような、そんな視線を男に向けたのだ。
「でもそれって――おじさんの大切な時間を失くしてない?」
「大切な時間?」
手が止まりそうになるのを、男が必死に堪える。
――惰性で生きているこの俺に、そんなものが存在するわけなかろう?
しかし、彼の口から飛び出したのは、そんな思いとは裏腹の言葉だった。
「失くしてなんかいないさ。だって、壁を建てることが楽しいからね」
「ふうん、楽しいんだ。でもね……私には、そうは見えない」
どきりとして、男がレンガを地面に落とす。
震える手でそれを拾い上げた彼が、美しい薔薇の棘の如く彼の胸を突き刺している彼女の視線に、ようやく気付く。
いたたまれなくなった男が口を開くその前に、彼女が言った。
「おじさんは、自分の気持ちを見せたくないんだね。だから、壁を作っているのよ。でもね――」
台詞の途中で一息入れた、少女。
それをまじまじと見つめた彼は、口を開けたまま、喉をごくりと鳴らした。
「壁を建てれば建てるほど、おじさんの気持ちは見えるようになってる。私には、そんな気がするわ」
「建てれば建てるほど……見える?」
わっはっは!
何かが弾けた彼が、大きな声で笑いだす。
胸のつかえが取れたような、そんな感じだ。恐らくは、数十年ぶりに彼が心から笑えた瞬間なのだ。
「君は、不思議な子だね。天使なのかい? それとも、悪魔なのかい?」
「さあ……どうなのかしら。それは、おじさんの気持ち次第よ。私が天使か悪魔か……それは、おじさん自身が決めることね」
「ふむ……そうか、なるほどな!」
女の子はちょっとだけ首を傾け、ありったけの寛容さで微笑みかけた。
その笑顔に魅せられた男が、再び大きな声で、がははと笑った。
「人生は、一晩の宴のようなものだ。楽しまなくちゃ損だぞ、お嬢ちゃん」
「私には、そんな難しいことはわからないわ……。じゃあ、私は帰るわね。ばいばい、おじさん」
やっぱり、君は――。
スカートの裾をさらさらと揺らしながら視界から消えゆく少女の後姿を、男はいつまでもいつまでも、飽きることなく見続けていた。
―了―