幸福スイッチ(作:marron)
熱心に何かを読んでいた母は、慎一が帰ってきた音で顔をあげた。
「ただいま。何読んでるの」
テーブルの上には、ティッシュケースほどの大きさの箱があり、どうやらそれの説明書のようだ。
「これ?幸福スイッチっていうの。ママ、買っちゃった~」
うきうきとした顔の母を、慎一は信じられないという顔で覗き込んだ。
「このスイッチを押すと幸せになれるんですって~」
《そんなわけねーだろ!》
こんなことは今に始まったことではない。この母の胡散臭い物におびき寄せられる性質と言ったら、そりゃあもう、信じられないほどだ。よくもまあ、そんな胡散臭い物ばかりを探してくるものだと毎度感心してしまうほどである。
「うーん」
「どうしたの?」
そんな母が少しばかり困った声を上げたので、慎一は優しく聞いた。
「あのね、このスイッチは一回しか押せないんですって。家族で一回かしら」
「そうなんじゃない?」
こんなことにいちいち構っていたらキリがないのだけれど、母の機嫌を損ねないためには、ある程度話を聞いてやらねばならない。慎一はそういうことをちゃんと心得ていた。
「そうよね~、幸せになれるっていうんだから、そんなに簡単にはなれないわよね。やっぱり家族で誰か一回なんだわ」
母は納得したようで、頷きながらその箱を開けていた。
慎一は宿題をしようと、母の向かいに座りながら箱の中を見た。
《クイズ解答者かよ!》
慎一が心の中でツッコミを入れてしまうほどに、それはジョークグッズにしか見えない代物だった。
「えっと、これを押した人が幸せになるのね。それで、何かが変わるんだわ。何が変わるのかしらね~」
「ね~」
慎一がおざなりな相槌をうつと、母は嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、慎ちゃんが押す?」
「え?」
「だって、誰か一回しか押せないんだもの。慎ちゃんが押したら?」
「や、僕いいよ。母さんが押しなよ。僕、母さんに幸せになって欲しいな」
慎一はこういうことをソツなく言えるタイプだ。
いつでも、相手を思いやり優しい言葉をかけられる。他人と争わず誰とでも仲良く接することができるのだ。ただそれが、慎一の本心かというとそれは少し違う。慎一は周囲の人たちが良い気分でいられたら、自分も嫌な気持にならずに済むだろうと考えている。だから、いつでも、たとえこんなヘンテコなものを買ってくる母にでも、否定するようなことは言わず、喜んでもらえるようなことを言うのだった。
「慎ちゃんったら本当に優しい子ね。でも、ママも慎ちゃんに幸せになって欲しいわ。そうだ、パパが帰ってきたら、三人で一緒に押してみましょう。誰かが幸せになったら、みんなが幸せになれるわよね~」
「そうだね」
慎一はこの母の能天気な提案ににっこりと頷きながら、やっと宿題に取り掛かった。
ところが母は、父が帰ってくる頃にはそのスイッチのことを忘れてしまった。というか、完全に他のことに心が移っていた。
「じゃ、行ってくるわね~」
「え、どこに?」
「ミャンマーよ。1週間後に帰ってくるから」
「い・・・行ってらっしゃい」
次の日の朝、両親は慎一を置いて「ミャンマー秘境の旅」というツアーに出かけてしまった。
「いくら自立している高校二年だからって、1人だけ置いてくか?」
と言いながら慎一はため息をついた。
しかしこんなことは、初めてではない。さすがにミャンマー1週間は初めてであるが、両親はよく慎一を残して旅行に行っていたので、どうやって生活したら良いのか、慎一はわかっていた。
これから気楽な1週間だ。そう思えば、別になんてことない。
そのはずだった。
両親のいない1週間は、慎一にとって地獄の始まりだったのだ。
月曜日、付き合っていた彼女にフラれた。
「慎一君、優しいけど、私のこと本気じゃないみたいだし」
と言われたのだ。
《優しくしてるのにフラれた。女心はわからん》
火曜日、自転車を盗まれた。
水曜日、部活で足を捻挫した。
《しかたがない、学校へはバスで行くか》
木曜日、バスに乗ろうとしたら、財布を忘れてきた。急いで家に帰ったが、結局遅刻。
《無遅刻無欠席だったのに》
とはいえ、そんなにくよくよしなかった。
彼女にフラれたのが一番の打撃ではあったが、それでもまあ、普段から周囲と衝突しないように心掛けて生活している慎一としては、それで彼女と波風を立てようとは思わなかったし、自分の心も平常でいようとしていたので、普通でいられたのだ。
しかし金曜日、特大の不幸が慎一を襲った。
「もしもし、タナカさんのお宅ですか」
変な電話がかかってきたのだ。どうやら大手のテレビ局らしい。
「タナカ、コウジさんとユキエさんのお宅ですね?」
「そうですが」
不穏な電話だった。なぜテレビ局が両親の名前を知っているのか。それを自分に尋ねてくるのかわからない。切ってしまったほうがいいだろうか。
「お二人が乗ったと思われる飛行機が墜落したという情報を得たのですが、お二人はミャンマーに行かれていますか?」
「え」
慎一の頭の中が真っ白になった。
慎一はどうやって受け答えをして、どうやって電話を切ったのかわからなかった。
呆然としていると、まだまだ電話がかかってきた。他のテレビ局や旅行代理店、飛行機会社や大使館からもかかってきた。だけど、どれが何だか、どう応対したのかわからない。
電話の線を引っこ抜いた。
― 両親が死んだ ―
テレビをつけると、飛行機事故のニュースをやっていた。日本人で亡くなった人は両親と他に3人。テロップには両親の名前が流れている。
ウソだ。何かの間違いだ。
家の前に報道人がいる。
違う。ウチじゃない。
携帯を出して母に電話をする。
コールが家の中から聞こえて、がっくりと肩を落とした。
《携帯もってけよ!》
父に電話をしたが、かからなかった。
― TELLLL TELLLL ―
そこへ慎一の携帯が鳴った。
見ると、祖父からだった。祖父も両親の事故のことを聞いたのだろう。それで慌てて電話をしてくれたらしい。
「慎一、お前は家で待ってろ。なんかあったら、ばあちゃんに電話するんだぞ」
祖父はどうやらミャンマーに行ってくれるようだ。未成年の慎一は家にいた方が良いとの判断で、慎一はまた、家に1人残された。
ラインやメールがひっきりなしに入る。だけど、今はどうしていいかわからない。
あまりのことに、思考が壊れて動かなくなったようだった。
そんな時、テーブルの上の幸福スイッチが目に付いた。
《なにが幸福スイッチだ》
慎一はそんなもの、まったく信じていなかった。本当に単なるジョークグッズか、母のような信じやすい人を騙すためのサギグッズだと確信していた。
だけど幸福スイッチというなら、今こそこんな不幸のどん底に叩きこまれた慎一を幸福にして欲しい。
《母さん、結局ボタンを押さないで逝っちゃったな》
慎一の幸せを願った母が、こうなることを分かっていてわざとボタンを押さずに置いていったみたいだ。
慎一は、その箱を開きスイッチを押した。
パカ、と軽い音がすると、箱の四方の壁が開いた。
そして中から寄せ集めのような部品がいくつか現れて、ピンポン玉を転がしはじめた。
♪ チャラっチャラ、チャラっチャラ ♪
と軽快な音楽が流れている。どこかにテープでも仕込んであるのだろうか。
音楽に合わせるようにして、ピンポン玉は箱の中にある部品の上を転がったり、少し落ちたり、すくいあげられたりしながら、ゴールを目指す。
コロコロと細い部品の上を転がり、四角い部品に弾かれ、曲線の部品の上を滑るピンポン玉。
音楽のお終いに合せて、ゴールにたどり着くと「幸福スイッチ」という旗が立った。
♪ こうふくスイッチ ♪
最後にチンと鳴って、それは終わった。
― シーン ―
しばし固まる慎一。
「って、ピタゴラスイッチのパクリか!本当にジョークグッズじゃねえか!」
慎一は我に返るとピンポン玉を掴んで投げつけた。
ポンポンとダイニング中を跳ねまわるピンポン玉。それがやがて力を失いテンテンと跳ねて行くのを慎一は空しく見ていた。
その時
♪ あなたの幸せまであと35時間 ♪
と、箱から歌が聞こえた。そして、箱の中にデジタル時計のようなものが現れ、“34時間59分20秒”と示されていた。秒数は刻々と減っている。
単なるジョークグッズではないのだろうか。この数字は一体・・・
慎一は待った。
夜になれば電気を付けたまま眠り、朝になると食事をした。そして待った。祖父がミャンマーへ行ってくれる。とにかく現地に着いて、その報告を待たなければならない。
ただ待つしかなかった。
テレビでは飛行機事故のニュースが流れている。乗員乗客全員死亡らしい。機体は山中で燃え、原形をとどめていない。そんな映像をどこか他人事のように見ていた。
しかし、両親はあそこで死んでしまったのだ。
これからどうやって生きたら良いのだろう。義務教育を終えているとはいえ、未成年であるから、祖父母のところにやっかいになるのだろうか。その場合この家はどうなるんだろう。まだローンが残っているはずだ。
それこそ、そんな時のために父は保険に入っているだろう。それってどうしたら良いんだ?保険会社に電話するのか?死にましたって言うのか?
わかるはずないじゃないか!
幸福スイッチの時計はあと24時間ちょっととなっている。
もしかして、両親の保険金が入るから・・・
《そんなの幸福でもなんでもない》
だいたい、幸せってなんだ。
「寿、富、康寧徳、終命だっけ?」(※五福)
両親は天命を全うすることはできなかったけれど、それなりに幸せだったのだろうと思うが、今の自分の立場で、長命や裕福と言われても、それが“幸せ”かどうかというと、どうなんだろう。何かが足りない。
フラれたのはきついけど、自転車を盗まれたのは嫌だったけど、捻挫は痛かったけど、それでもまだ、不幸だとは思わなかった。
だけど、それらが全部いっぺんに押し寄せてきて、さらに両親がいなくなってしまったら、本当に不幸だ。
しかし、あと24時間もすれば、何か幸福が訪れるらしい。
《いやいや、何考えてんだ。そんなわけあるか》
どうやら、あんまりにも気持ちが苦しくて、何でも良いからラクにしてくれ、と思ってしまったらしい。それであんなジョークグッズをつい信じてしまったのだ。
信じちゃダメだ。
裏切られた時のショックがでかい。特に今回は。
お腹は空かないが、昼になり軽く食事をした。
母は1人残る慎一のために、チンをすれば食べられるものをたくさん用意しておいてくれた。冷蔵庫にも冷凍庫にもたくさんある。慎一はご飯を炊きさえすれば、いつも通りの母の料理を味わえた。
だから1人でも、空腹でなくても、食事をした。
「ありがたいよな」
慎一は今まで、「ありがとう」とよく言う子だった。ありがとうと言えば、相手も喜んでくれるからだ。そうすれば、良好な関係でいられる。
たとえ母がちょっと変な物を作っても、美味しいと言った。
当たり障りのない、親子の会話。
親に向かって口答えなんてしたことがない。そうすれば、両親は自分を可愛がってくれる。
学校でも先生のお気に入りでいられる。友だちもたくさんいる。波風立てず、うまく立ち回り、嫌われず、叱られず。
人生なんて、ちょろいと思っていた。
みんな、自分の思い通りになると思っていた。
さも気の毒そうに「ごめんね」と言えば、相手は許してくれる。「お願い」と言えばやってくれる。
仮面をかぶって、本心を隠して、そうして生きてきた自分に、母は何の疑問も持たずに、こうして親としての愛情を注いでくれていたのだ。
「今なら、心からありがとうって言うよ」
慎一は母の料理を口に運びながら呟いた。
昼過ぎに祖父が空港に行ったという連絡が入った。これから手続きをして飛行機に乗るらしい。両親と同じ飛行機に乗っていた人の家族も同行するとかで、何か色々やることがあるのだろう。思ったよりも時間がかかっていた。
友だちからはひっきりなしにメールが来ていた。
幸福スイッチを押したのだから、彼女からヨリを戻そうメールが来るのではないかと期待していたけれど、彼女からは一度もメールは来なかった。
「少しは心配しろよ」
そんなこと、付き合ってたころは口が裂けても言えなかった。
だけどもし今、付き合っていたら言えるような気がした。自分の弱みを見せたくはないし、メールをよこさない相手を責めるようなことも言いたくはない。だけど、これが自分の本心なのだ。
わかって欲しい。
そう思うと、慎一は彼女にメールをすることにした。
『僕たちは別れたけれど、女々しいと思うかもしれないけれど、こんな時に君からメールが来ないことが辛い』
初めて見せる弱気。
どう思われても構わない。もう別れてしまっているのだし。
だけど、知って欲しかった。
祖父から連絡があるのではないかとヤキモキしながら、風呂にも入らず夜を過ごした。
時計を見るともう真夜中だった。幸福スイッチの時計はあと9時間となっている。ということは、明日の朝9時に何かが起こるということか。
幸せがやってくるはずだ。
この状況でどうやったら幸せになれるのか、教えてほしいほどだ。
慎一はとりあえず寝ることにした。電気は消したくない。明るい居間でソファに横になって、その日も眠った。
朝になり、食事をとった。
幸福スイッチはあと30分となっている。
何が起こるのか。何かあるのか。本当に保険金が入るだけだったらどうしよう。立ち直れないかもしれない。
両親の死亡がはっきりと伝えられるのかもしれない。
それは不幸だけど、これから先のことをしっかりと見据えるためには、必要な情報でもある。慎一の幸福への第一歩となる可能性も・・・ないか。
それにしても、最後の30分が異常に長く感じる。
早く過ぎろ。
何もなくても良いから、この待っているだけの状況をなんとかしたい。
もうこの際、不幸でも良い・・・てことはないが、とにかくなんとかしてくれ!
あと20分。
あと10分
あと5分。
「うー、長い!」
慎一は幸福スイッチの残り時間を凝視し続けていた。
あと1分。
あと30秒。
心臓がドンドン打ち付けるようだ。手に汗を握ってそれを見る。
「3・2・1」
♪ こうふくスイッチ ♪
♪ チロリーン ♪
― ガチャガチャ ―
ゼロになった瞬間に色んな音がした。まずは幸福スイッチがまた鳴った。
そして携帯にメールの着信が入った。
そして、玄関のカギが開く音がした。
「え、玄関!?」
慎一は慌てて玄関へ行った。玄関の扉は勢いよく開けられ、両親がなだれ込んできた。そしてバンとすごい勢いで扉を閉める。
「ハアハアハア」
両親だった。
慎一は目を見開いて固まった。
「ハアハア、ただいま!」
両親だ。
「いやあ、角を曲がったところからすごい人に追いかけられて、大変だったよ」
と、父。
「慎ちゃん、良い子にしてた~?」
と、母。
そのまま両親は大きなバゲージをゴロゴロとひいて室内に入ってきた。居間に入るとソファに沈む二人。
その後ろを慎一がついてきた。
「慎一、お土産あるぞ」
と、父が荷物を開こうとしたところで、やっと慎一が口を開いた。
「ミャンマーは?」
「あはははは」
両親は大笑いをしている。
「笑いごとじゃない!」
慎一が大声を出した。
「だってねえ、あはははは、ママたち、飛行機に乗り遅れちゃって~」
「あはははは」と、父。
慎一は呆然と、呑気に笑っている両親を見つめた。
「え、え……えええええー!?じゃ、じゃ、今までどこに、なんで今」
「だから、飛行機乗れなかったから、ちょっと日本国内の秘境に行ってきてね、ほら、お土産」
「って、酒かよ!え、何コレ青ヶ島ってどこよ?」
「東京よお」
「って……ニュース見てないのか!?連絡くらいしろよ!」
「だって、ママ携帯忘れちゃったんですもの~」
こんなバカバカしいやり取りをしながら、慎一は幸福スイッチを見た。幸福と描かれた旗が立っている。残り時間はゼロ。
もう幸福はやってきたのだ。
いつも通り両親がいて、こんな他愛もない会話ができること。
愛して育てられ、住む家があり、学校へ通い、友だちがいる。心配ごとはほとんどなく、争いは少しあっても良い。
良いことだけじゃない。捻挫をしても、フラれても、それでもそれが幸せだ。
「母さん、ご飯美味しかったよ。でも、あの生姜焼きの玉ねぎはもっと炒めて欲しい」
「わかったわ~」
慎一は少し意見を言えるようになった。前だったら「美味しい」だけしか言わなかったけれど、意見を言っても大丈夫だと分かったのだ。
それは、あの時彼女からメールが来たから。
『全然ニュースを見てなかったから、そんな大変なことになってるなんて、知らなかった。メールしてくれてありがとう。それに、私からのメールがほしいって思ってくれてとても嬉しかった』
慎一が自分の気持ちを伝えたら、彼女は応えてくれた。気持ちを伝えたら嫌がられるどころか、嬉しかったとまで言われたのだ。
幸せは、こんな普通のこと。
慎一の生活は元に戻った。今までと同じ生活は、今まで以上に幸せだった。




