2-1
アヒムは、変わり映えのない日々に退屈を抱えていた。
少年は、いじめっ子たちへの憎悪を秘めていた。
そして二人とも、影を切り離された自覚はなかった。だが生霊と同じ性質を持つものを強引にはがされたせいで、起きていられないほどの衰弱を得る羽目になったのだ。
「どうやらサラヤの睨んだ通りのようですね……」
がっくりとリカルトは肩を落とした。時刻は完全に夜へと入っていた。少年の無事を確認した後、村を一通り捜索したが成果もなく、新たに踏まれた影もないので、村で唯一営業している宿屋へとやってきたところだった。リカルトの疲労もありこれ以上情報もなく闇雲に動き回るのは愚の骨頂なので、一泊するのは避けられない。
「はあ……私はまたサラヤに後れを取ってしまったようですね……なんと不甲斐ないことでしょう」
「落ち込むことはないよ、我が主。あの時咄嗟に僕を受け入れて、フロイラインの危機を救ったじゃあないか。ほんの先っちょではあるけれどね。できればもっと深く、僕を受け入れてはくれまいか……?」
ねっとりとした口調で囁きながら、アレスは陰鬱な表情を見せるリカルトを撫でまわした。気持ち悪いと、サラヤは素直に思う。そんな彼の気持ち悪さも、またはリカルトの根暗さも、憑依の時には表面化しないから不思議なものだった。
二つの魂が一つの体に宿ることは本来、不可能で無茶なことだ。そもそも空き容量などないのだから、入りきるはずもない。だからこそどちらの要素もない人格が生じるのかもしれないがそれは、かなり無理がたたっている証拠とも言えるだろう。リカルトの体を思うなら多用すべきではないのだが、言って聞くとも思えない。
アレスは言わないが完全憑依とはすなわち、彼が支配権を持つ状態ではないだろうか。その時リカルトの魂は残さずアレスに食い尽くされ、件の人格すら消えてしまう気がしていた。そんな機会を虎視眈々と狙っている邪悪なるものを傍に置いて平然としているリカルトが、時々心配になる。サラヤが目を光らせている限り暴挙に出ることはないだろうが、まだまだ「甘ちゃん」であることは否めない。
「不甲斐なくねえよ。てめえにしかできねえこと、あるだろ」
めったに優しさなど見せないサラヤからの思わぬ追い風に一瞬目を輝かせたリカルトだったが、彼女が指さす方を見て「ですよね」と言いながらがっくりと肩を落とした。その先の帳場では宿屋の主人が、先払いの宿代が払われるのを待っていた。
「お客さん方、エクソシストだそうですね。実はこの村からも一人、いましてね。結構偉くなって、村の誇りなんですわ。ついこないだも里帰りしまして」
「そうなんですか。ところで部屋は二つ取りたいんですが、ありますよね?」
「一つでいいだろ」
小さな宿屋だから二つあるかどうかも怪しいと踏んでのことだろうが、何気にリカルトは失礼だった。もちろんサラヤが横やりを入れたのは、それを咎めるためだけではない。
「いけませんよ、サラヤ。こういうことはきっちりしないと」
「金が勿体ねえだろ。オレのことは構うなよ。別にお前の裸も見慣れてるし」
「嫌ですよ、私が恥ずかしいじゃないですか」
「今更だろ。ケツのほくろの位置だって知ってんのに、何、カマトトぶってんだ。なら、明り消してやりゃいいだろ」
「消したって見えるでしょう、君は。やっぱり部屋は二つにしましょう。そうすべきです」
「何を警戒してんだ、てめえは。今更だっつうのに」
頬を染めて恥ずかしがるリカルトとそんな彼を軽くあしらうサラヤを交互に見て、何やら宿屋の主人は関係を飲み込んだらしく、渡された鍵は一つであった。
「二階の突き当りです。他にお客様はおりませんので、ごゆっくりどうぞ」
含みのある笑顔を見せる主人に、リカルトは納得がいかない顔で支払いをして鍵を受け取った。それを見てサラヤは先に階段を上がる。主人は大丈夫理解していますからという顔をしていたが、そんな表情を向けられるいわれはないはずだ。サラヤは首をかしげる。
「あのおっさん、なんか誤解してねえか」
「きわめて不愉快だ。我が主は僕のなのに」
「てめえのじゃねえよ」
宿屋の主人にはアレスが見えていなかったため、リカルトとサラヤの二人連れに見えたのが気に食わないらしい。この男も同じ誤解しているようだ。残念ながらそれがどういう誤解なのか、サラヤには理解できなかったが。
「やっぱり部屋は、二つにしてもらいましょう」
飾り気がなくシンプルだが清潔でゆったりとした広さのあるその部屋に入るなり、リカルトがそう言って踵を返そうとした。諦めの悪さにサラヤは呆れる。
「真っ青な顔して何言ってんだ。てめえはとっとと寝ちまえよ」
「しかし……」
「アレス」
サラヤの言葉だけではリカルトを動かせそうになかったので、舌打ちして彼女は天井付近に漂っていた使い魔を呼んだ。彼女の意図を汲んだ彼は、とっくに止まっているはずの息を吐きだして降りてくる。
「やれやれ。こういう風に主に逆らう使い方をすると、僕自身も消耗してしまうのだがね。しかしフロイラインの言う方が正しいと思うよ、我が主。今は休みたまえ」
アレスの腕がリカルトのそれに潜り込んだ。憑依とも若干異なるが、それだけでもうリカルト自身は己の意思で腕を動かすことができなくなる。いうなればアレスの悲願である完全憑依に近い状態だろう。その腕に引きずられるようにして、リカルトは寝台の上に強制的に寝かされることになった。傍からはアレスがリカルトを引きずったようにしか見えないが、アレス曰く、そこらのゴーストには容易く真似できない熟練の技とコツがあるのだそうだ。
「だって君はそんな格好をしていても、れっきとした女性なんですよ……部屋を分けるのは当然でしょう」
寝かされた寝台の上から起き上がれもしないのにまだ納得いかないのか、リカルトが覇気のない不満を口にした。アレスの緊急の束縛からは既に解放されているため、純粋に体が言うことを聞かないのだろう。疲労のただなかにあるどんよりとした彼の目には、曲げることのできない強い意思が宿っている。
リカルトのこだわりが理解できないサラヤではないが、見当違いの気遣いだと言うことは既に何度となく伝えてあった。この件については互いに平行線上のままどちらも僅かたりとも譲歩しないため、進歩した試しがなかった。不毛だと分かっているため、サラヤの反応は投げやりだ。
「オレにへたれたとこ見られたくねえんだろ。それだって今更じゃねえか。女扱いする必要なんてねえんだよ。オレはここでいい。それにてめえがちゃんと回復するの、見張ってねえとまた無茶するからな」
「子守りが要る歳じゃないんですよ、私」
リカルトはややむっとしているようだ。とはいえサラヤとて、子供扱いしているわけではない。彼を休ませるため、無駄な会話を終わらせようとしているだけだ。だがリカルトにそれは伝わらず、つっかかる隙を与えるだけになっている。
「知ってるけど、それがなんだよ。宿屋のおっさんだって別にオレとてめえが親子だとは思ってねえだろ。実際違うし」
「そうだね。君たちを不純なる同性の恋人同士と見たようだ。非常に遺憾なことだね。我が主は僕のものなのに」
余計な茶々を入れるアレスを、サラヤが睨み付けた。先刻の無茶の影響で、ゴーストらしく少し薄くなっていた。いつもは見えない向こう側の景色が見えている。
だがおかげでリカルトが嫌がっているものの正体に、サラヤも気づいた。誤解の一因があるとはいえ、彼女にはどうすることもできない。変えたくとも変えられないのだ。そのためどうしても、リカルトを詰る形に落ち着いてしまう。
「そいつはてめえがいい歳こいて独身だからだろ。だから嫁もらえって言ってんのに」
「妻帯者かどうかが外見に出るとは思えません。……それに誰も私のところになんて来てくれませんよ」
「なってみねえと分かんねえだろ。それにまるっきり女にもてねえわけでもねえのは知ってんだぞ」
リカルトはベッドの上でそっぽを向いた。その話はしたくないという意思表示だが、歳も歳だけに避けて通れるはずもない。
同業の嫉妬とは別に、教会でもアレスがべったり憑いている割に秋波を送る勇気のある女子がいるのだ。根暗な表情など意に介さないようだ。しかし告白を受け入れるどころか誰かと付き合っているということもない。そういう女性が稀有な存在でないため選り好みをしているというわけでもないようだが。
「君は知っているでしょう、サラヤ。私の気持ちは十年前から変わっていません。結婚するつもりもない。私の代で、シュトローマン家は終わりです」
向こうを向いたままぼそりと、だが通りのいい声でリカルトはきっぱりと告げた。それを口に出すのは初めてではない。そのたびにアレスはすくみ上り、サラヤは柳眉を逆立てる。年を経て落ち着いたかと思っていたのにまだそんな世迷言を口にするのかと、怒りに似た感情を腹の中に抱える羽目になる。
「いい加減に大人になれよ、リカ。てめえはもうガキの頃の感情に振り回される歳じゃねえはずだろ」
「君こそ、いつになったら私をまっすぐ見てくれるんですか。私はベネディクトじゃあないんですよ」
バン! と誰も触れていないのに音を立てて窓が開いた。ゴーストのくせに、アレスが音に驚いて天井まで飛び上る。
サラヤは何も言わず、その窓へと近づき枠に足をかけた。その背にリカルトが声をかける。反省も何もない、いつもの薄暗い声で。
「どこへ行くんです、こんな時間に」
「頭冷やしてくる。てめえも少し冷やすんだな」
振り向きもせず、サラヤは窓から飛び降りた。少なくとも女性なら、こんな方法で外へは出て行かないに違いない。
明りの灯る宿屋の二階から遠ざかるように、サラヤは薄暗い裏手に向かった。だが向かうべき目的地はない。今はただ、少しでもリカルトから離れたかった。そうでないと、思い出してしまう。
嫌な記憶を。
「ちっ……」
サラヤは忌々しげに舌打ちして、蘇りそうになるそれを打ち消した。そして一人、反省する。リカルトが悪いわけじゃない。ベネディクトの名を聞くとどうにも平静でいられなくなるのは、彼女の悪い癖だ。いい歳をしているのはサラヤだとて同様なのに。
しかし気が高ぶったとはいえ窓を開ける程度で済んでよかった。うっかり器物破損などしようものなら無駄にリカルトの懐を痛めてしまう。勿体ないからと一部屋だけ取らせた意味もなくなるところだった。
「お姉ちゃん」
その時不意に覚えのある声が聞こえてきた。目を向けると、隣の民家に隠れるようにしながら、ミオがいたずらっ子のような顔を覗かせていた。よそ者が珍しいのか、どうやら一人でついて来てしまったようだった。年齢からしてもう夢の中にある時間だろうに、よく家を抜け出せたものだ。
「こら、こんな時間にうろうろすんなよ。怖いのがまだその辺にいるかもしれねえんだぞ」
「大丈夫だよ。影ふみの人はさっき村を出て行ったもの」
「何、見てたのか? どっちへ行ったか分かるか?」
思わぬ情報源にサラヤは、膝をついて幼女に尋ねた。目線が近くなったことで途端にミオは照れた顔を見せる。
「あのね、あっちの方。ふら~ふら~ってしながら、歩いて行ったよ」
幼女は弥次郎兵衛のように体を揺らしながら見たものを再現していた。そんな歩きづらそうにしていたら大して走力は出まい。だが今からではリカルトの様子からして追いかけられないから、悔しいが見送るしかない。
徒歩ということは、少なくとも悪魔の類ではないのだろう。もしくは人であるとして、何らかの能力を秘めた者である可能性も捨てきれない。もし夜通し歩き続けるものだったとしたら、それを人と断定することも難しくなるが、そこまでしてその者はいったい何を目指しているのだろう。目的は何なのか。幼女が指さす先にあるのは、ノイシュロス村だが。
「影を引っ張り出すことで、何か得られるもんがあんのか……?」
考えてみたが、サラヤには何も思いつかなかった。分かることはといえば、ノイシュロスが山奥に分け入った中にある、ここよりさらに田舎の村であることぐらいだ。
ただしそこを越えれば城壁都市ゴルトベルクがあるため、目的地はそこかもしれない。道があるとはいえ旅人は普通、ノイシュロス経由ではなくもっと楽な街道を選ぶため、この先には整備も甘く高低差ばかりが激しい厳しさが待っているだろう。一端戻って街道へ合流した方が早いくらいだ。
どちらにしろ、今の状態のリカルトを引きずって越えていける場所ではない。だが進むべき方向が分かっただけでも僥倖だ。
「ありがとな、嬢ちゃん」
考えをまとめて振り向いたサラヤだったが、既に幼女の姿はどこにもなかった。言うだけ言って満足したらしい。
「どうかしたのかい、フロイライン」
まだ状態の戻らないアレスがそれこそふらふらしながらサラヤの頭上までやってきた。通常のゴーストとも殴り合えば負けてしまうほど弱くなっていてあまりにも頼りない姿であるが、これも一日もすれば元に戻る。どうやら人の負の感情を養分としているらしく、人類が続く限りは存在できると豪語していたことがあった。
「別に。どうもしてねえよ」
「やれやれ、怖い顔だ。それより、癇癪を起こすのはやめたまえ、フロイライン。君は我が主に少々厳しすぎるのではないか? 君の気持ちも知らないではないが」
「てめえはてめえでそうやってあいつを甘やかすから、いつまでもつまんねえもん引きずる羽目になるんだよ」
「ふふふ、僕らの会話はまるで熟年の夫婦のようだね」
「きめえこと言ってんじゃねえよ」
さしずめリカルトは反抗期の子供か。そんな風に思っていると知ったらきっとまた、へそを曲げてしまうだろう。しかしアレスはアレスなりに、理解しがたい思考回路だがリカルトを想っているのだ。それはサラヤだとて同じことである。
「まったく、我が主は笑いがこみあげてくるほど不憫だね。同じ男として同情を禁じ得ないよ」
「笑うなよ、失礼な奴だな」
「誰のせいだと思っているのだね。君がその我を貫くというなら、僕にだって考えがあるのだからね」
「脅しのつもりか? やってみろや」
「こう見えても僕は昔、結構やんちゃだったのだ。思い知らせてあげよう、僕のやんちゃっぷりを!」
「知らねえよ」
何と言われようとサラヤから折れることはない。それに力の差で言えば、彼女の方がアレスより勝っているのだ。何を企もうと粉砕してやるまでである。
「とはいえ君が我が主にベネディクトの影を見出すのは、分からないでもないよ。本当によく似ている。外見だけだが」
その名を出せばサラヤが怒り出すことを知っているだろうに、アレスは構わず呟いた。もっともそこには個人的な感慨が込められていたため、サラヤの心をそれほど刺激することはなかった。
「ああそうだ。あいつは最低のクズ野郎だったからな。中身が薄まってんのは重畳だ」
「ふふん、そんな彼に思いを寄せていたのは他ならぬ君だろうに」
「……寄せてねえよ。ぶっ殺してやろうと思ってただけだ」
「そうかい? あのころの君は地に足がついていない感じだったよ。今では面影もないけれどね」
「足のねえてめえに言われたくねえ」
にやにやしながら揶揄するアレスを睨むも、彼は自由気ままにふわふわと浮かび上がっているだけだ。当然そこに、足はない。だからこそ浮遊できるらしいのだが、サラヤにはどうでもよかった。それよりも、そのぼやけた下半身に何か引っかかりを覚えた。
「どうかしたのかい。そんな凶悪な目で見つめられるほど、僕は悪いことを言ったつもりはないよ、フロイライン」
「足……か。そうだ。そういえばあの足、見たことがある」
「どの足だい? 僕にはご覧の通りないけれど」
「影を踏んでた奴だ。リカのところに戻るぞ」
もはやサラヤの心にリカルトへのわだかまりはなかった。裏手から走り出ると一足飛びに、開いている二階の窓に向かって跳躍する。尋常ならざる力だったが目撃者はいないため、無駄な驚きを振りまくこともなかった。見慣れているアレスはやれやれとため息をつきながら、ふんわりと彼女の後をついて行った。