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1-4

「アヒムさんね。ええ、真面目な方で……え、暴れた? ああ、積んであった木箱を壊されたとか、向こう隣りの方が言っていたかしら。あれってもしかしてアヒムさんなの? でも私の方は何も被害はないわね」

 リカルトと別れたサラヤの方の目撃情報は、芳しくなかった。ドッペルゲンガーの影すら追いかけられていない。村の住人たちにも正しい情報が伝わっていないのか、あやふやなものしか出てこない。時間は今と同じ夕刻だったというから、全く誰の目もなかったわけではないだろうに。

「ったく、オレの方ははずれか? リカの方で当たりが引けてりゃいいが」

 危険なものがうろついているかもしれないのにそんな危機感もなく、気の抜けた独り言を口にするサラヤの傍を土に汚れた子供たちが無邪気に駆けて行った。ブリュケライヒは国中のどこにでもあるようなありふれた農村で、先刻の婦人が言った「向こう隣り」も目と鼻の先にあるとは到底言えない距離にある。そのほとんどを占めているのは畑か、さもなくば牧場地であり、そもそも民家自体がまばらなのであった。牧歌的な風景と言えば聞こえはいいが、これでは目撃情報と言っても易々と集まるはずもない。依頼をしてきた領主は直接村人に当たってほしいということだそうで、つまり彼も細かく事態を把握していないのだろう。

 それでも今は持てるだけの情報を集めるのが得策だろうと、件の「向こう隣り」へ向かおうとした時だった。

「お姉ちゃん、黒い人、捜してるの?」

 足元の方から屈託ない声が聞こえてきた。目を向けると五歳ほどの幼女がサラヤを見上げていた。地味ではあるが、村の子供にしてはやけに身綺麗な格好をしていた。こんな小さな村にも貧富の差があるのだろう。一人でいるところを見ると、領主の子というわけではなさそうだが。

「黒い人って?」

「アヒムさん」

 サラヤが視線を合わせるために屈むと、幼女は嬉しそうに頬を染めた。もじもじと小さい体を揺らしながら、彼女は言う。

「ミオね、よく知らないけど、大人が言ってた。アヒムさんが暴れ出したって。ミオが見たら、黒い人だったよ。こっちへおいでって言うから、ミオ、怖くて逃げたの」

 彼女が見たものは間違いなく、サラヤたちが探しているものだった。思わぬ情報提供に、前のめりになる自分を抑え込む。子供を怯えさせては話にならないと、殊更優しい響きを意識する。

「その人、どこへ行ったか分かるか?」

「分かんない。消えちゃったの。でも黒い人は、アヒムさんの影から出てきたの、ミオ見てたよ。影ふみ、知ってる?」

 突然関係のない単語が飛び出してきたため、サラヤは困惑した。幼女の言う子供の遊びと今回の事件を関連付けることができなかったのだ。子供は飽き症で移り気だ。そうなると彼女の言もどこまで信じていいのか分からなくなる。精査は後回しにするとしても、得られるものもここまでかと聞く耳を少し引きかけていた。

 だがそれはまだ、終わっていなかったのだ。

「誰かがアヒムさんの影を踏んだんだよ。ほら、ああいう風に」

 幼女がサラヤの背後を指さした。子供のたわごとだと油断していたサラヤは、はっとなって振り向いた。

 納屋の影からおどおどしながら、いかにも気弱ないじめられっこという風情の少年が出てきた。殴打痕もあり、一目で力の強い者に虐待されていると分かる。

 その少年の背後に、夕日により作られた長い影が伸びていた。そこへ、納屋の向こうからひょいと脈絡なく姿を現した足が、その影を踏んだ。少年は気づかずに、前へと進む。だが影は、足に縫いとめられたまま進まない。少年から容易く引きはがされて、その場にとどまっている。

 少年がサラヤに気づいた。彼としてはいつものように、目を伏せて横を通り抜けるつもりだったのだろう。だがそれはできなかった。そのまま前方へと、どさりと軽い音を響かせて力なく倒れ込んでしまったのだ。

 その向こうで、影がむくりと起き上がっていた。それを踏んでいた足はいつの間にか消えている。そいつは倒れている少年と全く同じ姿をしていた。ただし全体的に、黒ずんでいたが。

「ブッ殺してヤル……」

 影が、喋った。だがそこに、年相応の無邪気さはない。子供とは思えない底知れぬ憎悪を秘めて、背筋が凍るような低さで、誰にも聞かせる必要などないと言わんばかりの小さな声を漏らした。

「てめえは……」

 見逃していい存在とは思えなかった。これが暴れたアヒムと同じものであることはもはや明白だった。方法など分からないが、叩き潰さなくてはならない。

「おい、逃げろ……あれ?」

 幼女の身の危険を案じて逃亡を促そうとしたサラヤだったが、既に彼女はどこにもいなかった。人ならざるものの出現に恐れをなして逃げたのかもしれない。そうして彼女が視線を外した隙に、影は走り出した。慌てて追いかける。

「待て、てめえ!」

 影は異様に足が速かった。まるで滑るようにして進んでいく。元の少年はそれほど運動が得意そうには見えなかったのに、足に自信のあるサラヤが追いつけないでいた。村のはずれの方へと向かっていく影を追っていたサラヤだったが、ある地点まで来た時、不意にその足がぴくりとも動かなくなってしまった。

 まるでその場に不可視の壁でもできたかのように、後ろへは下がれども一歩たりとも先へ進むことはできなかった。サラヤは努力でも根性でも、ましてや暴力でもその壁をぶち破れないことを知っている。

「……くそ、ここまでかよ。あの嘘吐きめ」

 忌々しげに舌打ちする間も、影はどんどん遠くなっていく。サラヤは即座に踵を返し、村のどこかにいるはずのリカルトを探した。だがそれより先にアレスが彼女を見つけて、慌てた様子で上空から近づいてきた。

「聞いてくれたまえ、フロイライン。この村は妙におかしい。ゴーストがどこにもいないのだ。大小問わず人の集うところには必ずその存在がいるはずなのに、これはただ事ではない」

「そんな場合じゃねえよ。出たんだよ、ドッペル的な奴が。リカを呼んで来い」

「なんと。フロイライン、大当たりではないか。さすがに我が主と深い繋がりを持つだけはあるね。ところでドッペル的とは、少し言葉が乱れていないかい、フロイライン」

 余計なことを言うアレスに苛ついたが、彼は使命を得たりとばかりに颯爽と飛んで行ってしまったので、制裁を加えることはできなかった。

 先ほどの地点へと戻りながら、サラヤは再び舌打ちした。こういう時、制限のある自分の体質が腹立たしい。目的の影はもうとうに視界の先へと行ってしまっている。このままでは村外へと逃げられてしまうかもしれない。少なくとも距離は広がるばかりだ。

 苛々して見えない壁を睨んでいると、不意に動かなかった足が動いた。サラヤはすぐさま、影が駆けて行った方へと走り出す。今更追いつける気はしなかったが、だからといってこのまま見逃すつもりもない。その視界には徐々に、草木生い茂る未開墾のものが増えて行った。民家どころか畑もないが、まだ街道ではなく村の中のようだ。

「ん? あいつらは……?」

 荒削りの道の先に、少年が三人倒れていた。それぞれが暴力にさらされた跡をまざまざと残して、苦悶に呻いている。見るからにいじめっ子という雰囲気を醸し出す彼らだったが、そのうちの一人は白目をむいており完全に伸びているようだった。

「おい、お前ら。大丈夫か」

「いてえよ。大丈夫じゃねえのが見て分かんねえのかよ」

 サラヤが声をかけると、中でも一番身なりのいい少年が、「被害を受けているのだからもっと気遣って当然だろう」と言わんばかりの生意気な口の利き方をしたので、彼女の眉間に皺が刻まれた。だがこんな子供に感情を揺さぶられることが目的ではないのだと、ぐっと我慢して問い詰める。

「一人にやられたのか? やった奴はどこへ行った。この先か?」

 サラヤが目を向ける先には鬱蒼とした未開発の、森が黒い口を開けて待っていた。その奥からは薄気味悪い気配が漂っている。そのせいかあまり人の来ない場所らしく、少年たちがここで大人から隠れて酒を飲んだり煙草を吸っていた跡が周囲にはたっぷりと残っていた。悪事の証拠を隠滅するつもりもないようだ。

「うるせえよ。そんなん知らねえし関係ねえだろ。それよりこのこと誰かに言ったりしたら」

 起き上がれないほど痛手を受けているくせにまだそんな口を利く少年の耳をかすめるようにして、サラヤの無言の踵が振り下ろされた。だん! と地面を踏み抜く音がして、重い風圧が耳元をかすめた少年はすぐさま口を閉じる。

「ああ確かに、てめえらが誰をいじめてようがオレには関係ねえ。けどな、こっちは急いでるんだ。次にてめえの顔を踏み潰されたくなかったら、とっとと答えろ」

 サラヤの本気を感じ取ったのだろう、少年は怯えて震え上がった。その足が、どれほど重く振り下ろされたか、彼は間近で見ているから余計に、である。相手が子供であろうと容赦なく、サラヤは殺気立った凄みを見せた。そのため簡単に、彼は口を割った。

「あ、あいつなら、あの森の向こうにある墓の方に行ったよ……」

「そいつはどうも」

 もはや少年たちなど一顧だにせず、サラヤは示された方角へと足を向け暗い森へと入って行った。突然光という光が失われたかのように闇が垂れこめていて、ひどく不安感を覚える森だった。時間帯からも暗くなっていく時刻だとはいえ、これでは確かに普通の人間には近づきがたい場所と言える。木陰から何かが飛び出してきてもおかしくない。実際、気配は感じていたが、アレスを信じるならゴーストではなく獣の類だろう。先に墓地があるため微かに道があるが、誰かが頻繁に行き来しているとは思えない荒れようだった。

「……くそ、ガキくせえことしちまったな」

 自分でも大人げない対応だとは思っていた。八つ当たりに近い。だがリカルトほどの自由を持ち合わせていないため、どうしても焦りが前へと出てしまうのだ。

 厳密には、彼女は大人ではないということなのだろう。見た目通りの精神年齢。リカルトならきっと、こんな対応はすまい。いつまで経っても成熟できない自分が、誰よりも忌々しかった。

 考えながら走っていたら、足が止まった。今度は内なる制約のせいではない。目的地に着いたからであり、そして目の前の光景に絶句したからであった。

「なんだ、こいつらは」

 森の中の開けた空き地に設置された陰気な墓地には、ゴーストが集結していた。アレスがどこにもいないと言っていた奴らだろう。その向こうに、影色の黒ずんだ少年がいた。追いかけていたあのいじめられっこに違いない。だがサラヤが見た気弱なそれはどこにもなく、気鬱さと憎しみを凝縮させたような目であらぬ方を睨んでいた。

「殺シてやる……みんなみんな、ぶっ殺してやル……」

 歯をむき出しにしながら唸ったそれの目が、サラヤをとらえた。するとゴーストたちも一斉に彼女へと目を向ける。統制のとれた軍隊のような動きに一瞬怯むも、壁のように立ちはだかるこいつらをどうにかしなければと戦闘態勢を取りながら、その奥で待ち構えるものに向かって挑発を投げつける。

「復讐を果たしたってのに、まだ暴れ足りねえのか? そんなところに隠れてねえで、かかってこいよ。弱虫」

「ナんだ、お前……邪魔する気カ。ならばお前から殺ス」

「やってみろや」

 言いながらサラヤは、先手必勝とばかりに地を蹴り一番近くにいた半透明のゴーストに殴り掛かった。彼女の拳をまともに受けたそいつは、耐え切ることもできずに吹き飛んで、墓石に当たって砕け散った。

「ナんだ、それハ……」

 黒い少年が驚きに目を見張り、その動揺はゴーストたちにも瞬く間に広まったようだ。だがたじろぐことなく、敵意をむき出しにしてくる。彼女が霊体に触れることができるなら、彼らもまた彼女への直接攻撃が有効なことを悟ったように。

 そのゴーストたちの体に、変化が起こっていた。穏やかな人の姿を模していたのに、それが解かれ、禍々しい姿へと変貌しつつあった。そんな彼らを見て、サラヤは怯えるでもなく不遜に鼻を鳴らす。

「悪霊化が始まってんじゃねえか。なんだよ、アレスの奴。ここにこんなに、いるのによっ!」

 凶悪な牙を生やして突っ込んできた悪霊の、その口の中に拳を叩き込むサラヤ。半端者だったのか、口内を貫通した拳の威力に耐えきれるはずもなく、それはあっさりと消滅することで彼女に牙をむくことを諦めるしかなかった。

「アいつを殺せッ!」

 黒い少年が叫び、ゴーストたちがサラヤめがけて躍りかかってくる。その半数が悪霊化を遂げていることもあって、ものによっては二発三発と連続で叩き込まなければ消えてくれない強力な奴もいるようだった。右の拳をめり込ませたところにすかさず左を叩き込み、とどめに風を切り裂いた踵をくれてやるがまだ健在だったので、舌打ちして回し蹴りをお見舞いしたところで、ようやくそいつは霧散した。

「ちっ、めんどくせえ」

 縋りついて来ようとするしなびた老婆の霊を蹴り飛ばし、腕をめちゃくちゃに振り回しながら上半身だけで飛んでくる空洞の目をした赤子の悪霊を逆に掴んで投擲する。だが多勢に無勢と言わざるを得なかった。どうにも集められたゴーストは、その辺を彷徨っていた浮遊霊だけにとどまらないようだ。場所が場所なだけに、無理やり影の盾となるべく集わされているような感触があった。

「卑怯なことしやがって。ゴーストはてめえのおもちゃじゃねえぞ」

 数に押されているせいか、サラヤも無傷では済まなかった。悪霊化が進んでいるせいで、火の玉を放ってくる輩もいるためだ。その冷たい炎は下草こそ焼かないが、確実に魂を削り取るものだ。弱い人間なら一撃受けただけで死んでしまうこともある。それらがサラヤを少しずつ追い込んでいた。このままでは肝心の影をどうにかすることもできない。下手をするとこちらがあれらの仲間入りをする羽目になるかもしれない。だが背を向けて逃げることなど、もっとできない。

 歯噛みしながら、そんなことを思った時だった。

 サラヤに絡みついて噛みつこうとしていた二体の中年男性の悪霊が、それぞれ額に弾丸を受けた。彼らは呻きながら、あっさりと消滅する。新たなる脅威に、ゴーストたちが動きを止めた。

「苦戦してるのかァ? 珍しいなァ。サラヤちゃん」

 次いで、腹立たしい声が聞こえてきた。振り向いた先にいたのは、リカルトだ。風切人と影追い人を構えている。だがその表情は、いつもの根暗なそれではない。唇には、不敵な笑み。目には、嘲りの光。自信に満ちたその立ち姿はまるで別人のようだ。

「こんな雑魚にさァ、俺の手を煩わせてくれんじゃないよォ!」

 サラヤを追い越すようにして走り出したリカルトは、二丁の銃をぶっ放した。装填弾数の少ない回転式の影追い人はすぐ球切れになるため逼迫した状況下では頻繁には使用されないが、捨てるでもなくここぞというところで活躍させながら、一方で風切人の弾倉を空にすべく、的確にして手早くゴーストたちを葬り去っていた。

「ほら死になァ! 未練がましく現世にしがみついてんじゃねえぜ、ゴーストごときがよォ! 天国行けやァ! ヒッヒヒヒヒヒヒッ」

 笑いながらリカルトは、青い炎をも恐れずに次々に悪霊たちを片付けて行った。後れを取ってはならじと、サラヤも続く。そのためあっという間に形勢はひっくり返り、残るのは黒い少年だけとなる。盾を失った彼はぶるぶると震えて後じさりしようとしたが、その後ろには厳つい岩壁がそびえていたため、逃げ場はなかった。

「オ、お前ら、なんなんだヨ……」

「あ? エクソシスト様だよォ、見りゃ分かんだろォが。そーいうテメーは何だ? ゴーストっぽいけどそうでもなさそうだしなァ」

「クそ……邪魔をするなア!」

 黒いそれが追い詰められた獣の咆哮を上げると、風もないのに墓石たちが舞い上がって、リカルトめがけて飛びかかってきた。ポルターガイストだとサラヤが思っている間に、それらの間を危うげに走り抜けたリカルトが少年の額めがけて引き金を引く。火を噴いたのは、影追い人、風切人、両方だった。二発の塩弾に撃ち抜かれたそれは、あっさりと人の形を放棄して、苦悶の声も残さず消えた。文字通り、影すら残らない。

 使役者が消えたことで、墓石たちは自由落下した。ドスドスと地を揺らす音が響くが、サラヤはそれに構っている暇はなかった。もう今更遅いことだが、慌ててリカルトへと詰め寄る。

「おい、何やってんだ馬鹿! 殺してどうする!」

「はァ? 生かしておいてどうするんだよ。明らかに善行しようとしてる風には見えなかったぜ。悪は消してしかるべきだろ」

 逆にリカルトから詰め寄られ、サラヤは言い返せずに黙り込んだ。いかに腹立たしい態度であれ、正論を言っているのがどちらなのかは明らかだ。

「オレだって、生かしておくつもりなんかねえよ。でもその前に聞くことがあるだろ」

「俺はないなァ。目の前の火の粉を払うのに、どんな理由も必要ないねェ。それともサラヤちゃんにはあるのかァ? 自分が死にそうになってでもやんなきゃならないことってのがよォ」

 全弾撃ち尽くした影追い人を腰に戻し、風切人から残弾のある弾倉を取り外したリカルトは、にやにや笑ってサラヤに顔を近づけてきた。吐息が感じられる距離だったが、サラヤは身を引こうとはしなかった。同じくらいの背丈であるが、今はリカルトの方が威圧感を発しているせいか、大きく見えた。だが負けている気はしなかった。

「てめえのそういう考え方には、悪いが賛同できねえ。やるべきことを果たさず後悔するのは、ガキにだって出来ることだぜ、リカ」

「そっちを優先してテメーの命を失ってちゃ、ざまねえけどなァ」

 リカルトの手が、サラヤの頬に触れた。短い髪をはねて辿り着いた先には、悪霊につけられた擦過傷があった。触れてから去っていった後にはけれど、傷跡すら見当たらなかった。まるで彼の指が傷を瞬時に癒したかのように。

「もういい。アレス。てめえとっととリカから出て行け」

 ため息交じりに吐き出されたサラヤの言葉を合図にしたかのように、リカルトの意識と不敵な表情が唐突に消失し、くたりと彼はその場に頽れた。それと同時にリカルトの体から這い出たアレスが空中にその身を浮かび上がらせた。

「それで聞くこととは何かな、フロイライン」

「相変わらず慣れねえな……それ」

 アレスをその身に憑りつかせる。これがシュトローマン家の当主の力である。使い魔たるアレスが憑依したリカルトにはそのどちらの人格要素も現れることはないが、身体能力が格段に上昇するのだ。そのせいか憑依が終わった後はひどく体力を消耗する。代々の当主が短命なのは厳しい任務ゆえではなく、これのせいではないかと疑われているのだが、誰もそれをやめようとしないのがサラヤには不思議だった。

「おい、大丈夫か。リカ」

「はい、なんとか……死にそうなくらい疲れてますけど……」

 やはりひどく憔悴している。顔色が悪すぎて本当に今にも死にそうだ。だがこれで完全なる憑依には至っていないというのだから、その「完全」に至ったらどうなるのか、サラヤには想像もできない。願わくばそんなものが必要とされる時は永遠に来ないでほしいと思うものだが。

「あいつ自身がてめえのことをどういう存在として認識してたか、直接聞きたかったんだよ」

「なぜ? ドッペルゲンガーなのでしょう。それなら彼らは自分をそれだとは認めませんから、有用な答えが得られるとは思えませんが……」

「あれは影だろう。それにてめえの塩弾で消えたところから察するに、生霊に近いモノだと思う。聞けなかったから推測でしかねえが」

 生霊ならば攻撃をすれば本人にその衝撃が伝わってしまう。だから殺すのは駄目だと止めたのだ。遅かったが。

 憑依の影響で息も絶え絶えという様子のリカルトに変わってアレスが、こちらは疲労感など微塵もなく自由気ままに主の周りを飛び回りながら頷いた。

「確かにドッペルゲンガーは本人になり替わるのが目的、というか自分こそが存在すべき本人だと思っているから、まず本体のいるところへ向かうだろうね。それに会った瞬間に、精神力の弱いものの方が消えてしまうのが定石だ。だが先刻のあれは、生身の者に物理的に接触・干渉できたのではないかな?」

「あれは殴ってたんじゃねえ。動作こそそれだろうが、悪霊が吐き出すあの糞忌々しい炎と同じだ」

 アヒムの恋人の頬に残されていたのは殴打跡ではなく火傷に近かった。途中で会ったいじめっ子三人も同様だ。彼らは誰も、それとは認識していなかったようだが。

「しかし、影とは?」

 アレスが疑うように首をかしげた。だがサラヤ自身が、本体から引き離されたそれが倒れた本体には見向きもせずに復讐という自立行動に移行したところを目撃している。そもそもドッペルゲンガーでないことはその段階で明白だった。

 だが、それでは何であるかというと『影』という以外に表現できる言葉がないのだった。できればサラヤの目撃情報以外にも、『影』本人の口からそれを肯定する言葉を引き出したかったのだが。

「影は影だ。暴れてたのはそいつだが、問題は、本体から影を引きはがした奴の方だ」

 サラヤは足元を指さしたが、時間的に日も暮れて暗くなってきた上に、もともと森の中にある墓地は薄暗いので、よく見えなかった。ふわふわしている足のないアレスには、最初から存在しないが。

「暴れ方から、内々にため込んだ鬱憤を影が晴らして回ってるって寸法だろ。ある程度散れば満足して消える。アヒムのようにな。でもさっきの小僧は……」

「……ええ、明らかに、そういう段階を越えているようでした。ゴーストたちもそれに引き込まれてましたし、個人によって『先』へ行ってしまうものとそうでないものの差があるのでしょう。これはまずいですね」

 リカルトが鬱々としたため息をついた。サラヤも同じ気持ちだったが、唇は引き結んだままだ。

 主犯が野放しになっている今、間違いなく「影ふみ」は続く。ゴーストを引き込み悪霊化させ無辜の人々を害するだろう。だが足跡を追おうにも現時点での敵の情報はサラヤが見た足だけだ。それだけで辿り着けるとは到底思えない。

 いったん報告のため教会支部へ戻るべきか、リカルトは悩んでいるようだ。場合によっては応援を要請することにもなるだろう。

 だが果たして命令であったとしても、彼に協力してくれるエクソシストがいるだろうか。全員に敵視されているわけではないが、実績の割に低い階級にいるのを「気取りやがって」という目で見ている者は少なくないのだ。レディックやミルファンのような他人の成績に興味のない者らが運よく掴まえられるとも限らない。討伐数・達成数はそのまま給与に繋がっているため、嫉妬以前に誰もが商売敵なのである。

 成果を横取りしてやろうと首を突っ込んでくる強欲者はいるかもしれないが、あくまで求めているものは協力者だ。リカルトは手柄に固執する気はないと言うが、サラヤの心情が穏やかでいられなくなるのは以前そういう場面を目にしているためだった。

 人を蹴落とし我欲に溺れる輩は大嫌いだ。だから平然としているリカルトをも許せなくなる。

 だが決めるのはリカルトだ。彼が支部へ戻ると言えば、単独で犯人を追うことなどサラヤにはできない。たとえそれが、教会が敵とはっきり認定している悪魔であろうと、そしてこうしている間にもどれだけ被害が広がっていこうとも。

「とりあえず……さっきの子の影が本人のところへ戻っているかどうか、確認しましょう。最悪の事態を想定しないといけません……。生霊だとしたら、私の塩弾の衝撃がどれほど影響したかも分からない……下手をしたら……」

「オレの推測が外れてればドッペルゲンガーだから、本人に痛手はねえぜ?」

「いえいえ、別にサラヤを信じていないわけではありませんよ。私はいつだってあなたに、全幅の信頼を寄せていますからね」

「一言多いんだよ、てめえは」

 サラヤとて皮肉のつもりで言ったわけではないのだが、いつもより声に棘が入らないのはリカルトがまだひどい憔悴の中にあるためだった。するとその言葉の中に嫌味や皮肉に似たものを織り交ぜられる余裕があるはずもなく、つまりは本心ということになる。信頼は嬉しいが、柄にもなく照れてしまうのでやめてほしい。だからといってほいほいと優しくなれるわけもなく、当然肩も貸したりはしなかったけれど。


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