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「飯も食わず夜も寝ないだけで、人が簡単に死ねると思うなよ」
リカルトたちは、支部の石造りの質素な廊下を司祭室へ向かって歩いていた。天井が高いせいか、硬質な足音はいつでも冷たく響く。静謐を乱す故か、それは拒絶の音にも似ていた。吐き捨てるようなサラヤの言葉に、リカルトは眉尻を下げる。
「今日はまだ死にたいとは言ってませんよ、サラヤ」
「でもどうせ言うんだろ。だからって限界まで体を酷使して気絶からの就寝もやめろ。てめえのそういうのとこがむかつくんだよ」
「不安がらせてしまって申し訳ありません。でも本気じゃないと思われているのは癪ですね。とはいえ死霊を前にはやはり、丸腰では挑めません。手が勝手に銃を抜いてしまうのです……シュトローマン家の血のなせる業でしょうか」
「不安がってねえよ。馬鹿に馬鹿って言ってるだけだ」
代々優秀なエクソシストを輩出し、戦いの中に命を捧げてきた一族である。中でもリカルトは一段と能力が低いため、自己評価も低くなってしまうのだ。その実績はアレスとサラヤあってのものだとも言える。しかしその中で自らの体を苛め抜くようなリカルトの生活態度に苛立ちを覚えるのも事実だ。
生活それ自体が、追われるほど切迫した状況にあるかというとそうでもない。リカルトが必死になるのは、彼が自発的に死に吸いついて行こうとする、感心せざる理由のせいだ。まだ若いのに夢は過労死という、身もふたもない男である。
「落ち込むのはよしたまえ、我が主。憂い顔も美しいがあなたには笑顔が一番ふさわしい。それに僕が付いている。何があろうと我が主を守り通そう」
ぬるりとした仕草でリカルトを抱きすくめるように姿を現したアレスが、ねちっこくその身に指先を這わした。何もされていないのと同じ反応を見せるリカルトとは違って、途端にサラヤは眉間にしわを刻む。
「てめえは出てくんなよ、低級霊。気持ち悪いんだよ」
「フロイラインひどい。完璧な美を誇るこの僕のどこか気持ち悪いって言うんだい」
むしろサラヤにしてみれば、どうしてリカルトがこのゴーストを気持ち悪がらないのか、不思議なくらいだった。物心つく前からずっと傍にいるから、感覚が麻痺しているのかもしれないが。
「あわよくばリカの体を乗っ取ってやろうと考えてる低級な霊ごときが、よくもまあ何世代も当主にひっついていられるよな。普通に考えりゃ、絶対どこかで消滅させられてるだろ」
「フフフ、皆が皆、フロイラインが思うような野蛮な当主ではなかったのさ。そして僕は他の追随を許さないほど素晴らしく役に立つ。そうだろう、我が主?」
アレスはこれ見よがしにリカルトの体をベタベタと撫でまわした。ともすれば吐き気を催しそうな光景を見せつけられて、黙っていられるサラヤではない。無反応のリカルト共々殴りたかったが、残念ながら目的地である司祭室へと到着してしまったため握りしめた拳が繰り出されることはなかった。
「失礼します。リカルト・シュトローマンです」
リカルトに続き、サラヤもその分厚い扉を潜る。触れずとも重みで勝手に閉まっていく扉を背にして、サラヤは薄暗い司祭室を見回した。小さな格子窓が一つあるだけの、いつでも夜のような暗さと冷たさを持っている部屋だった。広さこそ十分にあるが、それが足りるだけの明りが用意されているわけでもなく、そいつは至極控えめに、執務をするための机周りだけを照らしている。黒く浮かぶシルエットたちはいずれも値の張る調度品なのだろうが、彼らに自己顕示の意欲がないため何なのかすら判然としない。
こんな物理的にも精神的にもうすら寒い部屋で仕事をすることが、多くの下級エクソシストたちの夢だと言う。それは誇りであり権威の象徴なのだろうが、自分なら御免蒙りたいとサラヤは思った。
その暗い部屋の現在の主、年下の上司であるハイフェッツ司祭が、取り立てて感情を浮かべるでもなく淡々と労をねぎらった。袖の下に彼の使い魔である白蛇が顔を覗かせている。サラヤたちが入ってきたのを見て人見知りするように引っ込んだ様子だった。
「先日はご苦労様でした。戻ってすぐで申し訳ありませんが、次の任務です。ブリュケライヒ村はご存知でしょうか」
ハイフェッツの義務的な声音に、言葉ほどの申し訳なさは感じられなかった。休みなく働かせることへの罪悪感もない。リカルトが妬まれるのはそうして彼がどんどん仕事を与えるせいでもあるのだが、その調子では自分がそれに加担しているとは思っていないだろう。「だってすぐ完遂してくるし」ぐらいにしか思っていないに違いない。
「そうですね……先日の任務の際に近くを通りましたが、ここオステンバッハよりもっと辺境の素朴な田舎という以上のことは、何も……」
この暗い部屋ではリカルトの暗さもより一層強調される。ゴーストと間違われて今すぐに司祭に退治されてもおかしくないほど、その顔色はひどいものだった。いつものことであるが。
「そこで奇妙な現象が起きているそうなのです」
「奇妙?」
司祭よりリカルトへと手渡された資料を覗き見るが、サラヤには全く読めない。この国の識字率は五割ほどで、当然神学校を併設する教会の、その関係者たるリカルトは読めるのだが、大半は字を必要としない農民なのである。サラヤは自分の文盲を棚上げして、この国の教育制度は遅れていると思った。そんな彼女にリカルトが口頭で説明をする。
「村人と同じ姿をした何者かが暴れているそうです。ゴーストの仕業ではなく、ドッペルゲンガーでしょうか」
「それも含めて調査してきていただきたいのです。シュトローマン助教補は慎重な調査に定評がありますからね。引き受けてもらえますか」
「はい」
リカルトは、青白い顔で覇気なく頷いた。これもいつものことだ。
現象は起きているがそれが何か定かでない、そういう仕事はこれまでもあった。いずれも一人でどうにかするには困難である。そして難易度高めのそれらが下っ端の、いかにも下級エクソシストに単独では回されないことも知っている。
だがサラヤはリカルトが断っているところを見たことがない。一応ゴースト退治のスペシャリストとして通っているが、それがいつ、上級と呼ばれるエクソシストらが行っているとされる悪魔退治に切り替わるかもわからないと言うのに。
おそらくそうなっても断らないだろう。悪魔など、サラヤは全くの専門外なのだが。
「事象が明らかになりましたら、既に人に害をなしていますから、一切容赦なく葬ってくださって結構です」
意外にえげつないことを言いながら、ハイフェッツは少しだけ微笑を浮かべて見せた。炎の揺らめきが見せた幻ではないかと疑われるようなささやかさではあったが。
「アヒムは普段すごく大人しくて、真面目な職人なの。誰にでも優しくて、慕われていて……それなのに」
恋人だと言う女性は心配そうに寝台で眠る男性を見つめた。リカルトが教会付属のエクソシストと名乗るとすぐに小さなその家に招き入れてくれた。ずっと眠ったままの恋人を介抱し続けているらしく、顔には疲労が濃く刻まれている。
だがアヒムなる件の男はもっとひどい顔色だった。色というものを失ってしまい、死人と言われても遜色ないほどになってしまっている。衰弱が激しいことは明らかで、医者にも見せたが領分を越えているためお手上げだと宣言されたようだ。しかしこれでも山場は脱し、徐々に回復へと向かっているらしい。
「生気がひどく弱まっていますね。何か呪いのものに触れましたか?」
男をじっと検分したリカルトの問いに、女性は首を振って答える。
「いいえ、そんなはずは……。もともとどちらかというと熱心にお祈りするよりは少しでも腕を上げようと目に見える努力する人ですし。あ、すみません」
リカルトが教会から来たことを思い出して謝る女性。だが当のリカルト自身はそんなことは眼中にないようで、虫の息にしか見えない男性を見つめていた。
「しかしそれでは余計に、聖なるものと邪なるものの区別なんてつかないのでは」
「そんなことより、それってこいつがやったのか?」
原因を探ろうとするリカルトの言葉を、サラヤとて遮りたくて遮ったわけではない。ただそれ以上、黙っていることができなかっただけだ。
その目が睨む先にあるのは、女性が必死で隠そうと撫でつけている長い髪の向こうにある、隠しきれていない怪我の跡。その顔にあるのは疲労だけではなかった。彼女は慌てて、それをさらに隠すように俯きながら言い訳をする。
「これは、違います。私、そそっかしくて……それに普段は殴ったりなんか、絶対しないし」
「普段は、ね。じゃあ酒が入ると変わるのか?」
「違います、本当に。暴力なんて振るいません。優しい人なんです。私を殴ったのは……」
「なるほど。ドッペルゲンガーの方というわけですね」
ともすれば前のめりになろうとするサラヤを制して、リカルトが割って入る。女性はほっとしたように相好を緩めたが、止められたサラヤはむっとした。だが主導権はリカルトに完全に移ってしまっていて、もう蒸し返すこともできないようだ。
「その時の状況を教えてもらえますか」
「……いつもより早く帰ってきたのでどうしたのかと聞いたんです。でもそれは、何も言わずに私を殴りました。そしてひとしきり暴力をふるった後、家を出て行って、そこらじゅうで暴れ回っていたそうです。でもアヒムはその時まだ職場にいて、同僚の方が、急に倒れたって知らせに来てくれたんです」
「その暴れた方はどこへ行きましたか?」
「分かりません……その時は頭が混乱していて、それどころじゃなくて」
申し訳なさそうにする女性に頷いて見せたリカルトは、サラヤを振り返った。手の施しようがないと諦めを告げる医者のような顔だったが、その内容は対照的にひどく前向きだった。
「手分けして聞き込みをしましょう。サラヤ、できますか」
「聞いてんじゃねえよ。オレにも分かるか、そんなん」
「フフフ。フロイラインは崇高なる我が主から一時たりとも離れがたくて仕方ないようだね。気持ちは痛いほどに分かるよ。僕もそうさ」
「うるせえ、殺すぞ。クソゴースト」
「残念。もう死んでいるよ」
「あの……? ごめんなさい、私、何か……?」
「あんたに言ったんじゃねえよ」
一般人の中にも霊なる存在を目視しまう者が稀にいるが、この女性はアレスが全く見えないようだ。当然声も聞こえていない。
「悪いな。オレはこういう風にしか話せねえんだ。さっきも含めて、気を悪くしたなら謝るよ」
「いいえ、私のことなら大丈夫です」
「あんたも少し休めよ。少し背負いすぎてねえか? そいつが目を覚ました時、心配でまたぶっ倒れちまったらどうすんだ」
その言葉で張っていた気が緩んだのだろう、女性が目を真っ赤にして潤ませたので、サラヤはそそくさと家を出て行った。涙など見せられても負える責は彼女にはない。例え悲しみのそれではなくとも。
「フロイラインは女性にはあざといほどに優しいのだね。それでは易々と惚れられてしまうよ。十分に気を付けたまえ」
「アホか。てめえに優しくねえだけだよ」
女性の姿が見えなくなるなり茶化してきたアレスに、温度差のある言葉を投げつける。先刻の女性と、この使い魔を同列になど扱えるはずもないが、こうしてみると確かにあざといほどの差をつけているかもしれないと悟る。改めはしないが。
「おそらくこの村の規模なら大丈夫なはずですが、無理はしないでくださいね」
リカルトは二人のやり取りなどなかったかのように、彼女に告げる。顔色は幽鬼さながらでも、その言葉はサラヤには出せない本物の優しさが宿っているように思えた。
「だからオレには分からねえっての」
「では僕も可能な限り、村の暗渠に潜むゴーストたちに目撃情報を聞いてみよう」
「アレスも無理しないで」
「我が主……そんなに僕と離れがたいのかい。ならばもういっそここで一つになって」
「うるせえ、とっとと行け」
サラヤの拳が届く前に、アレスはふわりと空中に浮きあがった。