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どうして私は生きているのでしょう。そんな価値ないのに」
「えっ」
暗渠を彷徨う死霊のような陰鬱な声と、いずことも知れぬ方角に向けられた暗澹たる闇色の瞳を前に、男は思わず二の句が継げなくなった。
目の前のこの青年はいったい何を言っているのだろう。彼がたった今、命乞いのために両手を上げて「助けてくれ、俺は悪くないんだ」と自分以外の何かのせいにしてこの危機を脱しようとしたのが見えていなかったのだろうか。そうして怯ませた隙をついて逃げ出し、また別の場所で反省の色なく悪事に身を染めようとしているのが見抜かれたようには、思えなかったのだが。
実際、青年の手の中の銃口は間違いなくこちらを向いている。回転式の、古いが重厚感のある拳銃。逃がすつもりなどまるで見受けられない。撃鉄は起こされ、指はいつでも引き金を引ける体勢だ。だがそれを実行しようという彼は、この薄暗く不気味な廃墟よりもっと重苦しい暗闇を全身におどろおどろしくまとわりつかせていて、剰え視線は淀み、追い詰めたはずの男のことなど眼中にないと言わんばかりだ。
時刻は深夜。この廃墟へは、周辺住人は誰も近づかない。陰惨な殺人事件が起こり、持ち主となった者のみならず、向こう知らずの侵入者たちをももれなく呪い殺してきたためだ。その諸悪の根源は、今や気配もない。男は空き家となったそこへやってきた放浪者だ。後釜に納まろうとしたのだが、今それが目の前の青年によって脅かされようとしていた。
「せっかくきれいにしたと思ったのに、こうしてまた棲みつかれてしまうし……私がやったことなんて、意味がないんですね。いったい何のために生きているのか、分かりません……あなたには分かりますか?」
終末を嘆くような暗い表情とは裏腹に、闇の中にぽっかりと幽霊のように浮かんでいるのは特徴的な白い外套。生気のない白い顔と、二十歳そこそこの若さなのに老人のような銀髪が、逆に不安感を与える。男はそっと後退したかったが、動いた拍子に撃たれる気がして進むことも戻ることもできないでいた。
「はあ……生きるのが辛いです。私なんて役立たずのゴミ屑で……できるだけ早く急いで今すぐにでも、死んでしまいたい。でも」
幽鬼のような光のない目が、男を見据えた。怖いものなど何もないと思っていたはずの彼は思わず身を竦める。本能的な恐怖。
「死んでもあなたのようにその先が待っているとしたら、安易に死を選ぶのも考え物です。ああ、嫌だなあ」
「うるせえ、黙れ根暗野郎」
目の前の青年だけを視界に収めていた男はその時、全く意識を払っていなかった背後からの攻撃に吹き飛ばされた。腹部を蹴られたのだと分かったのは、痛覚がないはずのそこに生前と同じそれを覚えたからだった。否、痛みどころではない。薄汚い古びた床の上を『人のように』跳ね回りながら、男は蹴られたその部位をこれまでのように意識できなくなっていた。
戻らない。攻撃を受けた部分は千切られたかのように抉られていて、しかもそこを中心にその『消失』が全身へと及ぼうとしているのが感覚で分かった。
抉り取られたところから小腸及び大腸が、真っ赤な体液と共にはみ出していてもおかしくないのに、あるべき内臓は出ていない。当たり前だ。彼は人間ではないのだから、既に。
ただその形をかたどっているだけの、思念体。
「てめえみてえなのは、とっとと死ね。鬱陶しいんだよ」
男を蹴ったのは、長身痩躯の少年だった。だが恰好が妙だった。肌寒い季節なのに半袖で、揃いのタイとズボンは橙と黒の、目に優しくない格子柄。鋭い瞳には、捉えた獲物を根こそぎ食い尽くす荒々しい野獣の眼光が宿っている。だが少年が見ているのは消えようとしている男ではない。その向こうにいる、死にそうな顔をした銀髪の男だ。
死霊だった男はそこにいるのが誰なのかも知ることなく、消滅した。空気一つ揺らさず、一切何の痕跡も残さなかった。それを見届けて、青年は銃を下ろした。銃の名は影追い人という。反対の腰にももう一つ、風切人という名のいくらか年式の新しい自動式銃を下げている。どちらも使わなかったなという顔でリカルト・シュトローマンはため息をついた。
「ああ、またサラヤに手柄を横取りされてしまいました。鬱です」
「てめえがトロトロしてっからだろ」
よく見れば背丈も十分で顔のつくりも決して悪くないのに、その表情のせいですべてを台無しにしている男だ。そのリカルトが慎重に撃鉄を戻して安全装置をかけ、腰のホルスターに丁寧に銃を戻しながら、サラヤにほの暗い目を向けた。暗い顔をほんのわずかにしかめているが、どこかを患っている病人にしか見えない。
「女の子がそういう喋り方をするのは、何度聞いても感心しないですねえ。それがサラヤの魅力と言えばそうなのでしょうけど」
「うっせ。死ね」
外見でも言動でも、骨太で丸みの皆無な彼女を初見で女性だと判断できる者はほとんどいない。敵味方問わず全方位に喧嘩を売っているような凶悪な悪人面が、それに一役買っているようだ。サラヤもそれに慣れてしまっていて、逆に今更女扱いされると戸惑うほどだった。
「死ねだなんて。ひどいことを言いますね」
「散々てめえで言ってんじゃねえか」
「あなたに言われるのと自分で言うのとでは違うんです」
「知るか」
サラヤが吐き捨てると同時に、非難の割に嬉しそうな顔をしているリカルトの背後からにゅるりと長い腕が伸びて、彼の体を抱きしめるように絡みついた。軟体動物のような気持ち悪いねっとり感を漂わせながら、その手の持ち主が顔を出し、リカルトの顎から頬をいやらしげに撫で上げた。
「死んでしまったらこの麗しい体は空しくも醜く腐り落ちてしまうのだから、その前に僕にくれたまえよ、我が主」
リカルトとは異なり、一目で絶世の美を誇る顔つきだと分かる白皙の持ち主にして年齢不詳のこの男は、名をアレス・シェルフリヒターと言った。リカルトを抱きすくめるようにしているが、彼に足はない。その概念すら必要ない。曖昧な輪郭を経て、上半身のみがそこに存在していた。
アレスがベタベタ触っているのに、リカルトはまるで意に介した様子もない。当然感触はないだろうが、見えていないわけでも認識していないわけでもなく、ただいつものこととして流しているのだ。代わりに吐き気を催すのはサラヤの役だった。その拳を容赦なく、アレスの顔面めがけて繰り出す。
「てめえは毎度毎度、気持ち悪いんだよ」
「やめたまへ、フロイライン。君の拳は先刻の彼のように魂魄を、下品なくらい木端微塵に粉砕してしまう聖なる鉄拳の持ち主なのだからね」
アレスが難なく避けたので、サラヤの拳は宙を切った。風圧に目を細めたリカルトの髪が揺れる。しかし主の後ろに隠れた美貌が引きつっているのは事実、彼女の暴力が消滅に繋がることを知っているせいでもある。サラヤは空振りした拳を握りしめて歯噛みした。
「リカ、てめえなんでこんなストーカーホモ野郎を使い魔にしてんだよ」
「フロイラインは時々、高貴な僕には通じない訳の分からない言葉を使うね。たぶん悪口なんだろうけれど」
「分かってんじゃねえか」
「先祖代々憑いてきたゴーストですから、私にはどうすることもできないのです」
血縁なのかそうでないのか、どういう系譜のものなのかも分からないと、リカルトは言う。調べるほど興味を抱いてもいないようだ。ただアレスの狙いは明白で、当主となった者の体を乗っ取ることだった。相当永く存在を保っているから強いのかと思いきや、強さそれ自体はそこらの浮遊霊と差はない。
だが所詮は幽体である。人の身には触れることもかなわなければ生者よりも弱い、儚い存在。そういうものを従えているリカルトのような下級エクソシストがいる一方で、上級と呼ばれるスペシャリストたちの使い魔は天使であったり、逆に本来天敵であるはずの悪魔すら従属させているという話だ。
「払えばいいじゃねえか、その銃で。オレの拳を怖がるくらいだから、消えるだろ」
風切人も影追い人も、これもまた代々伝わる退魔専用の神具だった。発射する銃弾は実弾ではなく特殊な塩の塊である。だがリカルトは、ゴーストのくせに顔を蒼ざめさせたアレスを見て、提案を却下した。
「それは思いつきませんでしたが、やめておきましょう。彼も役に立つことがあるので」
「ゴーストが役になんか立つかよ。ここにいた奴だって糞みてえな小悪党だったじゃねえか。……なんだよ」
「いいえ、何も」
含みのあるリカルトの視線が、たじろぐサラヤを前に不意に和らいだ。少しだけ、彼の中の薄暗い気配が払拭される。とはいっても闇夜の中の廃墟に、光は微かにしか降り注がない。星は瞬いているはずだが、ここからでは見ることもかなわない。
「きっと役に立つときがくるはずです。これも」
リカルトは、聖水代わりに弾倉を詰めた衣嚢から一つの弾丸を取り出して、うっとりとしながらそれを仄かな夜の光に晒した。過去のシュトローマン家の当主が作り上げた、種々の悪霊を封じ込めた世にも禍々しい弾丸である。白い塩弾と異なり黒曜石のような闇色のそれは見た目だけは驚くほどに美しく、魅入られたリカルトはそれを持ち歩いては、ことあるごとに見惚れていたが、サラヤはそれを蛇蝎のごとく嫌っていた。
「まだ持ってんのか、そのキモイの。捨てろっつってんだろ」
「安易には捨てられません。どんな作用があるかしれませんから」
「じゃあオレが消してやる」
「いかにサラヤのお願いと言えど、それも遠慮します。私のお守りなので」
「誰がお願いした」
「我が主、そんな悪趣味なものよりも僕の方がずっと役に立つし、守れるよ」
アレスがここぞとばかりにしゃしゃり出たが、リカルトに見つめられる弾丸に霊体の彼の姿は映らない。怪異だから当然である。
悪霊を退治するのが仕事なのに、使う日が来るわけなどないのだ。リカルトはサラヤに壊される前にとそっと元の位置に戻した。そんなものをお守りなどとして持っているから、常々この世の終わりのような顔つきになってしまうのだと、サラヤなどは思う。
「エクソシストとしての仕事は終わりました。場を清めたら、教会へ帰りましょう。ここは暗くて気が滅入ります」
外套の裾を翻すリカルトに、サラヤも続いた。言いたいことはいろいろあったが、不毛を知らぬ彼女ではない。