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東の国跡地

 そこにはかつて、人間の築き上げた東一番の大国があった。それはこの世界に存在する四つの国の中でも最大の軍事力を持ち、また魔法に関する研究も他の国々とは比べものにならないほど進歩していた。まさにこの地に生きる全ての人間達を牽引して行くにふさわしい偉容を誇る超大国であり、また同時に終わりの見えない魔族との戦いにおいて最も重要な位置にあった国でもあった。

 その東の国が地図から消えたのは、ベルンヘイムにて勇者ヘンリが真に命を落としてから一週間後のことであった。実際に魔族が攻撃を始めてから首都が陥落するまでにかかった時間は、僅か二日であった。

 広大な東の国を丸ごと覆い尽くした魔族の群れは、まさに黒い雲であった。数百万、数千万にも及ぶ悪魔の大群であった。人間達はその蠢く黒雲を前にして、今まで人間が滅びることなく魔族と対等に戦争をしていられたのは、単に魔族が手を抜いていたからにすぎなかったからだと、その時になって始めて悟ったのである。

 気づいた時にはもう手遅れであった。もっとも防衛線を易々と突破され、力の差を思い知らされた人間が徹底抗戦ではなく即時降伏を選んだこと、そして魔族がそれを受け入れ、生き残った人間達を「寛大」に扱ったことが幸いし、一国が陥落したという事実に反して実際の死者は数百名程度で収まっていた。

 後にこれを「無駄な死人を出さずにすませた英断」と讃える者もいれば、「ただの弱腰」とあからさまに非難する者もいた。まさに毀誉褒貶の別れる判断であったが、これによって東の国が地獄絵図へと変わることもなく、比較的穏やかに事が進んでいったのは紛れもない事実であった。

 なお、国内の町や村、城下町はほぼ無傷で残されたが、国の中心に据えられた王城は徹底的に破壊された。城内に住んでいた王族や貴族、将軍達も一人残らず殺された。性別年齢問わず、老人から子供に至るまで皆殺しであった。

 この事について魔族は「人間達にどちらが上かを知らしめるためにやった」と話しており、そしてこの「警告」はすぐに全ての人間の耳に届いた。しかし実際に城を破壊したのは手に鎌を持った女性と狼男の二人だけであり、その二人の破壊活動は完全に彼らの独断で行われたことであるという事実は、魔王とその息子を含む一部の魔族しか知らない事であった。

 しかし真実を知る魔王とその他の者達は、そんな殺戮行為を無断で行った二人の「新入り」に対し、これと言った罰則を加えることは無かった。なぜなら彼らはその無断行為を行った二人のここに来るまでの事情を全て知っており、また人間達に釘を差しておきたかったのも本当だったからである。むしろ彼らの方からこちらの思惑通りに動いてくれて感謝したいくらいであった。

 こうして死神キャサリンと人狼ウィックは咎めを受けることなく報復を完遂させた。心の中に灯る怒りの火が完全に消えることは無かったが、それでも彼らの心は幾許かの平穏を取り戻した。

 そんな二人に魔王の息子ゲルテが新たな提案をしたのは、彼らが城内の掃除を終えて本格的な解体工事に取りかかろうとしたその矢先であった。






「汝、死神として生を受けたる者よ。汝は一人の女として、隣に立つ男を愛することを誓いますか?」


 翌日。雲一つない青空の下、かつて王城のあった瓦礫の山の上で、キャサリンは目の前に立つ骸骨兵士の言葉を静かに聞いていた。この時キャサリンは全身を白いドレスで着飾っており、頭には月桂樹の葉で出来た冠を被っていた。

 結婚式の際に花嫁の着る衣装である。そして彼女の前には鎧を身につけたまま武器の代わりに結婚の作法の書かれた教本を手にした骸骨兵士が立ち、キャサリンのずっと後ろにはこの一生に一度のイベントを見物しようと集まった魔族たちが勢揃いしていた。


「死神キャサリン。誓いますか?」

「誓います」


 骸骨兵士の言葉にキャサリンが短く答える。その声は僅かに震えていたが、それは決してそれまでのように怒りから来るものではなかった。


「汝、狼として生を受けたる者よ。汝は一人の男として、隣に立つ女を愛することを誓いますか?」


 そのキャサリンの返答を聞いた骸骨兵士は、続けて彼女の横にいた人狼に声をかける。骸骨兵士の視線の先にいた人狼は、横に立つ死神と違って何も服を身につけていなかった。彼の体躯に合う服が用意できなかったのだ。

 閑話休題。そう問われたウィックは肩に力を込め、キャサリン以上に緊張した声でそれに答える。


「ち、誓います」


 その言葉の最後の方は若干裏返っていた。後ろのギャラリーから「力抜けー」「緊張すんなー」と煽りに似たヤジが飛び、同時にキャサリンが無言で腕を動かし、ウィックの脇腹を肘で小突いた。


「将軍なんでしょ? もっと堂々としなさいよ」

「こういうのには慣れてないんだよ」


 そしてキャサリンとウィックが目線だけを合わせながら小声で言い合う。しかしそれを耳聡く聞きつけた骸骨兵士が咳払いをし、二人は揃ってすぐに黙り込む。


「では、次に刻印を」


 そうして二人が静かになった頃を見計らって、骸骨兵士が次のステップに進むことを告げる。それを聞いた二人は互いに向かい合い、視線を交わす。

 それぞれの目に映る相手の顔は、とても穏やかなものだった。それまでの闇の過去ではなく、これから待ち受ける光の未来だけを見据え、その顔は希望の光に満ち溢れていた。


「どちらからなさいますか?」

「俺からやろう」


 骸骨兵士の問いかけにウィックが答える。自分の直接の上官の言葉を受け、その骸骨兵士は「ではどうぞ」と恭しく返した。


「キャサリン」


 ウィックが短く呟き、キャサリンの傷一つない頬に手を伸ばす。太く節くれ立った指が、指先から生えた鋭い爪が、その雪のように白い肌に触れ、キャサリンもまたその愛しい感触に身を任せる。


「行くぞ」


 その生涯の伴侶となる女性の持つ頬の柔らかな感触を楽しんだ後、意を決したようにウィックが告げる。キャサリンは無言で頷き、その頬からウィックが手を離す。

 頬から離れたウィックの指が、そのままキャサリンの首筋へと移っていく。人差し指だけを伸ばし、その爪の先をキャサリンの首筋に押し当てる。

 刃物のように鋭利な爪を押しつけられた部分から白い煙が立ち上る。同時に肉の焼けるような音と匂いもそこから上っていくが、しかしそれを感じ取った花嫁と花婿、そして神父役の兵士はそれに対して必要以上に意識を傾けることは無かった。

 この「刻印の儀」は、この世界で婚約を行う者同士が必ず行う通過儀礼であり、人間であれ魔族であれ、結婚する際にごく当たり前に行われる神聖な儀式であったのだ。


「終わった」


 やがてウィックが指を離す。痛みは無かったが、そのキャサリンの首筋には薔薇の花のような黒い印が刻まれていた。

 それは愛する者が互いに生涯共有する印。自分が真に愛されていることを告げる証である。


「次は君の番だ」

「ええ」


 ウィックに言われるまま、今度はキャサリンがその細い指を彼の逞しい首に添える。人差し指を首筋に押し当て、彼に痛みを与えないよう慎重に魔力を送り込む。

 人差し指と肌の触れ合う地点から白い煙が上がっていく。指先の周りに生えていた体毛が溶けるように無くなっていき、肉の焼ける音と共に黒い印が刻まれていく。

 薔薇の花を模した刻印。自らの首に刻まれたそれを、相手の首に刻みつける。

 これで二人は繋がれた。愛の絆で結ばれたのだ。


「終わったわ」


 どこか感慨深いものを味わいながら、キャサリンがゆっくりと指を離す。ウィックが首筋に手を当て、揃えた指で刻印を撫でる。

 それを見たキャサリンが不安げに尋ねる。


「痛かった?」

「大丈夫だよ」


 心配性だな。顔を曇らせる恋人を前にして苦笑しながらウィックが返す。


「お前のものになったってことを確認しただけだよ」

「本当に?」

「本当だ。信じろ」


 ウィックが静かに、しかしはっきりとした口調で答える。キャサリンもそれに頷き、それまでの不安げな顔を振り払って笑みを浮かべる。


「わかった。信じる」

「ああ、それでいい」


 安堵したようにウィックが柔らかく口元を緩めて微笑む。キャサリンもそれに答えるように微笑をたたえ、自然な動作でウィックの腕を抱きしめる。


「どうした?」


 ウィックが優しく問いかける。キャサリンは顔を伏せて目を閉じ、目尻にほんの僅か涙を溜める。


「これからは、ずっと一緒だね」


 そして体毛に覆われた厳つい肩に頬を乗せながら、キャサリンが小さな声で問いかける。その声は幸せに満ちていた。小さいが、確実にここに存在する幸せだった。

 欺瞞も裏切りもない、本当の幸福がそこにあった。





 勇者ヘンリ・エミリ・エッダは、こうして闇の中へと堕落した。しかしそれは彼女にとって、決して汚辱に満ちたものではなかった。

 勇者ヘンリは死に、そして闇の中で光を掴んだのだった。

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