地下四十メートル
「ヘンリ・エミリ・エッダは何十年も昔から存在していたんだ。正確に言えば、今のヘンリと同じ力を持った、それぞれ異なる姿と名前を持った存在が昔からいたということだ」
テラスを離れ、ゲルテに付き従う形で階段を降りていたヘンリとウィックに対し、前に出て彼らを先導していたゲルテが説明を始めた。死神と狼男は黙ってそれを聞いていた。
「さっき話した通り、ベルンヘイムで研究されていたのは死者をそっくりそのまま蘇らせることではない。古い魂の形を捨て、新しい形の魂に作り替えることなんだ。勇者ヘンリを生み出した人間達はそれに着目した」
「つまり?」
「彼らはベルンヘイムで生み出されたオリジナルの転生の秘術に、自分達の期待に沿うようなアレンジを加えた。つまりそれまでの人生の中で魂に刻まれた戦闘技能や戦闘センスといった、勇者として培われた<力>の部分はそのままに、その魂の持っている記憶や感情を全て消去した状態で魂の形を作り替え、それを新たな肉体の中に入れる。つまりはそれまでの勇者の経験をそっくり受け継いだ、全くの別人を生み出していたんだ」
「そんなことが行われていたんですか」
「それも何十年も前からな。人間達は魂に戦闘技能だけを蓄積させ、それでいて何十回と転生を繰り返し、生まれながら卓越したスキルを持つ伝説の勇者を人為的に生み出そうとしたんだ」
ゲルテがそこで言葉を切る。三人は一階に戻っていた。彼らはそこから正面ホールを横切り、反対側の隅に据えられた扉をくぐった。そこには地下へ続く螺旋階段があり、彼らはそこを降りてさらに地下へ向かっていった。
階段はそれまで通った通路と同じように薄暗く、底冷えがするほどに冷たかった。
「最初の勇者はそれこそドラゴンに瞬殺される程度の実力しか持っていなかったが、それまでの経験値を引き継ぐことによって勇者は次第に潜在能力を高めていき、ついにはドラゴンを一騎打ちで仕留めるまでに成長した。今の巡礼と言う形が出来上がる以前から、人間達はベルンヘイムの転生の秘術を利用してきていたんだよ」
その階段を降りながらゲルテが説明を再開する。ウィックは無言でそれを聞き、最後尾を行くヘンリは一人複雑な表情を浮かべていた。それに気づく者はいなかった。
そんなヘンリの心情などお構いなしにゲルテが続けた。
「だが言ってしまえば、これは当事者達が勇者をただのモノとしか認識していなかったことでもある。彼らの目標はあくまで強い勇者を生み出すことであり、勇者一人一人の尊厳などどうでも良かったのだ。奴らにとって勇者とは使い捨ての利く道具でしかない。しっかり経験値を溜めてくれれば、後はそれがどうなろうが知ったことではなかったのだ」
「そんな身も蓋もない」
「だが事実だ。それこそ仲間に強姦されようが、毒を盛られようが、幼馴染みと恋に落ちようが、どうでも良かったのだ」
ゲルテは躊躇いがなかった。情け容赦なく事実を淡々と告げていく友人に対し、ウィックは後ろからついてくる死神のことを思って顔をしかめた。一方でヘンリは感情を露わにしたりはせず、ただ静かに「リュー」と呟くだけだった。
「伝説の勇者の創造を目論んでいた者達は、その勇者一人一人の自由意志を尊重していなかった訳ではない」
その元勇者の独り言に反応するように、ゲルテが前を見ながら言った。ウィックもヘンリも目立った反応は見せなかった。ゲルテは気にせず続けた。
「前にも言ったが、そんなものはどうでも良かったのだ。彼らが勇者に向けるそれは、人間が実験動物に向ける偏向的な愛情でしかない。自分の意に従っている限りは丁重に取り扱うが、それそのものの人生にまで干渉するつもりはない。彼らはどこまでも正しい科学者としてあり続けたと言うわけだ」
だからヘンリ、とゲルテが不意に彼女に問いかける。死神は表情を変えずにただ一言「はい」とだけ返し、それを聞いたゲルテもそれまでの長子を崩さずに続けて言った。
「お前がゼス・フランクと恋に落ちたのは、お前の前世の魂がそうさせたからではない。お前が、自分の意志で、自ら行動して掴み取った結果なのだ。そしてその後起きたこともまた、お前の周りの者達がそう強制させただけにすぎない」
ヘンリは何も返さなかった。ウィックは「ゼス」と短く呟いた。その言葉にはどこか懐かしさが伴っていた。
「お前は悪くない。悪いのはお前に覚えのない勇者の使命を強制させた者達だ」
ゲルテが足を止める。気がつけば階段も終わり、目の前に大きな鉄製の扉があった。扉は大きく、冷え切ったような真鍮の色に染まり、その場の雰囲気に似つかわしい姿をしていた。
「だからお前には復讐する権利がある」
その扉に手を掛けながらゲルテが告げる。
「お前には、お前をあの地獄に貶めた全ての存在に、あらゆる報復を行う権利がある。そして勇者であったお前と関わりのある者全てを殺した時、お前は初めて新たな存在として生まれ変わることが出来る。巡礼を完遂することが出来るのだ」
ゲルテが腕に力を込める。鉄の扉が軋み、ゆっくりと押し開けられていく。
「皆殺しだ」
ゲルテの言葉に、ヘンリは無言で頷いた。
扉の先に広がる空間もまた、それまでと同じように薄暗かった。天井には青白い照明がぽつぽつと灯り、そしてその照明の下には大きな魔法陣と、それを遠巻きに囲むように長方形の机がいくつも置かれていた。血と薬品の臭いが充満するそこは広大で、前に通った正面ホールと同じくらいの面積を持っていた。
机の上には紙の資料や実験器具が規則正しく整頓されて置かれていた。そしてその無駄に広い室内の至る所に白衣を身につけた科学者達が立っており、彼らは皆一様に突然現れた闖入者に向けて警戒と好奇心の入り交じった視線を向けていた。
「こんなにいるのか」
全部で五十七人。見える限りの人間の数を瞬時に計算したウィックは軽い驚きの声を上げた。ここはとっくの昔に魔族に支配されたはずだ。だというのに、この有様はなんだ?
「気がついたときには、人間達は既にベルンヘイムの地下に拠点を作っていた。もちろん魔族はすぐにそれに気がついたが、魔王がそれを黙認するように言ったんだ」
「なぜ?」
「面白そうだったからさ」
ウィックの疑問にゲルテが返し、それを聞いたヘンリが僅かに顔をしかめる。一方で闖入者の正体が魔族と気づいた人間達は、それまでの表情から一転して明らかに怯えた顔を浮かべた。
「そ、そんな、どうして?」
「なんで魔族がここに?」
「魔力漏洩は確実に封じられていたはずだ。情報の隠蔽も完璧だったはず。なのにどうして?」
どうやら人間達は完璧に自分達のことを隠しおおせていると思っていたようだった。彼らの本気で怯えた表情から、そのことはありありと予想できた。
ゲルテは目の前の連中のお粗末な思考を哀れとすら感じ、その端正な顔に僅かな同情の色を浮かべた。
「おそらく奴らは、自分達の国からあの装置を使ってここに直接転移していたんだろう。ご苦労なことだ」
そんな冷ややかな視線を浮かべながら、ゲルテが続けて言った。
「転生の秘術にはベルンヘイムの樹海に満ちる特殊な魔力を使っているからな。ここでしか研究出来なかったんだろう」
「かなりリスキーな気もしますがね」
「危険より実益の方が勝ったのだろう。もしくは単純に自分達の力を買い被っていただけなのか。まあ今となってはどっちでも構わんがな」
そしてウィックの言葉にゲルテが返す。その隣で、ヘンリは無言で背中の鎌に手を回していた。その傷だらけの顔は明確な殺意に歪んでいた。
怒りに支配された殺人鬼の顔だった。伝説の勇者が浮かべていいそれでは無かった。
「待て」
そのヘンリをゲルテが制止する。ヘンリは主からの命令を受けて素直に動きを止め、しかし鎌を両手で持ったままゲルテを睨みつけた。
なぜ止める。その視線が言葉よりも雄弁に彼女の意志を物語っていた。ゲルテはどこ吹く風と言わんばかりに澄まし顔を浮かべ、そして前を向いたまま彼女に言った。
「客だ」
「客?」
ゲルテがまっすぐ正面を指さす。その指さされた方向にウィックとヘンリが目を向ける。
そこには周囲にいる白衣姿の科学者とは違う、明らかに周りとは浮いた格好をした一人の男が立っていた。その眼鏡をかけた若い男は黒いシャツの上から赤いコートを羽織り、そしてこちらの存在に気づくと同時に驚きの表情を浮かべていた。
「あいつは?」
狼男が目を細めながら尋ねる。ゲルテは前を指す手を降ろし、横目でヘンリを見ながら「彼女の方が詳しいはずだ」と答えた。
「そうだろう?」
ゲルテの問いにヘンリが頷く。そして彼らと相対していたその男も、ヘンリの顔に気づいてさらにその顔に浮かぶ驚愕の色を濃くした。
一人だけ事情を把握し切れていないウィックは明らかに困惑の顔を浮かべながらヘンリに問いかけた。
「それで? 結局誰なんです?」
「彼はアレクセイ。私のかつての仲間です」
ヘンリが短く答える。その眼鏡をかけた若い男、アレクセイはヘンリの言葉を聞いて初めは戸惑っていたが、すぐに表情を明るいものに作り替えて彼女に言った。
「やあこれはヘンリさん。お久しぶりですね。まさかこんな所で会えるなんて思いもしませんでしたよ。全く私は運がいい」
その言葉には明らかな媚の色が含まれていた。表情もにこやかだったが、それは見るからに作り物のそれであった。その口調もまた完全に猫を被った者のそれであり、放っておけば揉み手も始めてしまいそうな勢いだった。
嫌な奴だ。ゲルテとウィックは揃って不快そうに顔をしかめ、ヘンリは無表情のままアレクセイを睨みつけた。
「あなたは昔からそうだったわね」
そしてヘンリがアレクセイに告げる。一瞬頬をひきつらせた後、アレクセイはすぐに元通りのスマイルを浮かべながらそれに答える。
「昔から? いきなり何を言っているのですか?」
「あなたは昔から誰にでも腰が低く、誰にでも敬語を使った。でもそれは本当のあなたじゃない。自分にだけには被害が及ばないように、大人しくて無害な人間を演じていただけなのよね」
「いきなり何を言っているんです? どうしたんですか?」
「本当は最初からそれに気づいていた。でもそれも個性だと思って、何も思わないようにしていた。今思えば無駄なだけだったけど」
ヘンリの口から声が放たれる度に、アレクセイの顔から余裕が無くなっていくのが見て取れた。その表情は相も変わらず笑顔のままだったが、その額からは汗が噴き出し始めていた。
そんなヘンリの後を継ぐようにウィックが言った。
「それにしてもお前、よくもまあヘンリの前に来れたな。お前達は魔王を倒した後、ヘンリも一緒に片づけたんだろう? 図太い神経をしてるな」
「なるほど、そこまでご存じですか。ですがあなた方は一つ誤解をしています。あの時直接手を掛けたのはヘンリです。私は無関係ですよ。何も悪くはありません」
どこまでも清々しい男だった。ウィックは呆れてものも言えなかった。そうして口を開けて呆然としてた狼男に対して、今度はアレクセイが逆に問いかける。
「むしろあの状況でヘンリを庇えば、どうなったと思います? 私までも一緒に消されかねない。そんなのはごめんです。私はまだ死にたくないですからね。もちろん私だって、本当はヘンリを助けたかったですよ。本当です。でもあの時は黙っているしかなかったんです」
「いい根性をしているな」
嫌味も躊躇いも無く、堂々とした態度で言ってのけるアレクセイを見て、ゲルテはただため息をつくしかなかった。その後アレクセイは念を押すように「私は悪くありません」と言った後、ヘンリの方を向いて彼女に言った。
「ですから勇者ヘンリ。今一度私にチャンスをください。あなたの不信を拭うだけのチャンスを、この私に与えてほしいのです」
そこで一度言葉を切り、一度彼女の横にいる狼男と魔王の息子に目をやる。その後すぐに視線をヘンリに戻し、舌を動かして再び彼女に訴えた。
「おそらくあなたは今、魔王とその配下に唆されて、誤った道を進んでいるのでしょう。私ならば、その誤った道からあなたを救い出すことが出来ます。さあ、共に新たな道を歩みましょう」
自分なりの推論をぶち上げたアレクセイが、その調子のままに手を伸ばす。ヘンリは鎌を持ったまま、そこから動こうとはしなかった。
「さあ」
痺れを切らしたようにアレクセイが催促する。表情はいつも通りにこやかだったが、その声は僅かに震えていた。
「無駄だよ」
そのアレクセイにゲルテが告げる。水を差され僅かに顔をしかめるアレクセイに、ゲルテが続けて言った。
「もう全部知ってる」
何を? 挑発するように眉を吊り上げたアレクセイに、ゲルテが冷ややかな声で告げた。
「お前達が勇者を道具としか認識してないってことをだよ」
そしてゲルテは全てを明かした。魔族は最初からここを知っていたこと。知っていて敢えて野放しにしていたこと。そしてその全てをヘンリにも教えたこと。
「巡礼はお前達の玩具ではない。返してもらおう」
全てを伝え、そしてゲルテが最後にそう告げた時、アレクセイの顔からは笑みが消えていた。彼だけではない。その周りにいた科学者全てが本気で怯えた表情を作っていた。
ヘンリが前に一歩出る。鎌を両手で持ち、景気よく振り上げて肩に乗せる。
「た、頼む、見逃してくれ」
そのヘンリの眼前でアレクセイが地面に膝をつく。怯懦の表情を浮かべ、全身で降伏の意志を見せる。
「私はあなたをそんな目で見た覚えはありません。本当です。お願いします。許してください」
もう何も言えなかった。ゲルテだけではなく、ウィックでさえも呆れたようにため息をついていた。
ヘンリは無言でアレクセイを見下ろしていた。
ゴミを見るような目だった。
「お願いします。助けて」
鎌がゴミの首を落としたのはその直後だった。
それからヘンリは五分ほど時間をかけて、そこに残っていた五十余名のゴミを「処理」した。
魔王の息子と狼男は黙ってそれを見届けていた。ヘンリもまた、無言でそれを行った。
鎌が風を切る音。肉の切り裂かれる音。そして科学者の皮を被ったゴミの悲鳴だけがそこにこだました。
最後の一人を縦に両断し、ヘンリがその血塗れの鎌を大きく振り回す。刃についた返り血が飛び散り、壁や天井にべったりと貼り付く。
「これで終わったのですか?」
その後ろ姿を見届けながら、ウィックがゲルテに尋ねる。彼の横にいたゲルテは腕を組んでヘンリの後ろ姿を見ながら、静かな声でそれに答えた。
「いいや、まだだ。まだやることが残っている」
ヘンリが鎌を背中に背負う。ゲルテがその鎌の刃を見つめて続ける。
「今の彼女はまだヘンリだ。キャサリンとして完全に生まれ変わったわけではない。心はそうではないかもしれないが、その魂も肉体も、まだ確実にヘンリとして存在している」
「では?」
「彼女には一度、完全に死んでもらわなければならない。そうでなければ、彼女の巡礼は完結しない」
ゲルテがこともなげに言ってのける。ウィックはさして驚きはしなかった。そうなることは大体予想していたからだ。
「せめてトドメはお前が決めてやれ」
しかしその後のゲルテの言葉は、狼人間には完全に予想外だった。驚き、その表情のまま自分の方を向くウィックに、ゲルテが淡々とした調子で言った。
「お前にはその権利がある」
「なんの権利です」
「とぼけなくてもいい。それにこれ以上、お互いに誤魔化す必要もない。今こそ恋人の戒めを解いてやる時だ。今なら誰の邪魔も入らない」
ゲルテがウィックの方を向く。ウィックがゲルテを見つめ返す。
ゲルテがその狼の顔を見ながら、諭すように言った。
「ゼス・フランク。お前がやるんだ」




