電子執事の夢を見る
現代人の必須アイテム。燦然とトップに輝くのは、間違いなく携帯電話だろう。並ぶものなどいない。酸素とか水とか衣食住関連とか、揚げ足取り的なものを選択肢に入れなければ。そういう余計な茶々は止めよう、いいね。
例に漏れず、私の一番も携帯電話だった。タッチパネルで直感的な操作を可能とし、次から次へと切り替わる画面は動き滑らか。最早名前変えろよと思うほど電話機能がおまけと化したスマートデバイス。その名もスマートフォン!
通りすがりの霊柩車に轢かれてパカパカ電話がお陀仏なさったので、先日ようやく我が手元にも最新機器が訪れた。取ってて良かったバックアップ。アドレス帖やら数多の記念写真やらを火葬場まで同乗させられていたら、私が生霊になるところだった。最悪でも好きな人とのツーショットは煙にさせまい。
日本語訳すると賢い電話というらしい。使用者は賢くない私なので使い方が致命的に分からなくて同僚に教えて貰ったのが本日。3日目にしてやっと好き放題弄くれる。
精密機器とは下手に触ると壊れるものだ。コンピュータって何もしてないはずなのに壊れたりして怖いよね。ヘルプを頼んだ弟にそう言うと、大抵「何かしたから壊れるんだ」と怒られる。私のせいじゃないよ、霊障の類だよきっと。
「えっと、このアプリと、これとー」
メモを隣にネットに繋ぐ。
スマホはアプリを入れないと大体役立たずだそうだ。宝の持ち腐れはいけない。なぜなら勿体ないから。
同僚のおすすめブラウザに、SNSアプリ。おサイフケータイの手続きをして、ついでに人気のソーシャルゲームも追加した。
wi-fi通信でなければ死んでいるところだった、というほど大量のデータを受信して、忘れものはないかと一覧を見直す。あれも入れたしこれも入れたし、と指でなぞり。
「そうだ、マチキャラ!」
メモの裏側に書かれた文字を忘れていた。
何でも画面に居座ってメールの着信やらスケジュールを教えてくれるという、実に可愛らしいものがあるそうだ。別にスマホじゃなくてもそういう機能はあったらしいけど、知ったのが今日なんだから細かいことは良いんだよ。
ちょっとくらい金がかかろうと可愛いは正義である。慣れない手付きで液晶を操作した。
慣れたらもっとスムーズに動かせるようになるんだろうかこれ。ならなかったらどうしよう。メールとか打てる気がしない。
キャラはたくさんいるらしかった。四苦八苦して辿り着いた場所には、いくつものSDキャラが鎮座している。
キュートな動物に、得体の知れない生物、どう見ても無機物に、それから人間。
選ぶものは決まっている。管理といえば執事、執事といえばセバスチャン。セバスチャンといえば初老以降の男性であるとは世の常識であるからして。
後悔するべきだったか、それとも下手な肉食獣を選ばなかったことに安堵するべきだったか。一概には言い難い。とにもかくにも。
ちょっと困った。
『はじめまして、マスター』
「はいはじめまして」
キャラは全てSDキャラだったと思うし、超リアルな美形が動く!なんて売り文句はどこにも記述はなかったはずだ。用意しているのであれば大々的に宣伝するだろう。
スマホの画面を占領する還暦ほどの男は、実に眼福な容姿をしている。ガタイが良いのは私の趣味だ。マッチョな老人。素敵だよね。こんな素敵なものはゴールデンタイムのCMをフルに利用して流すべきだ。
では、それを宣伝しない理由とはなんぞや?
『本日よりマスターのお傍に仕えさせていただきます、トーイと申します』
「そんな名前付けてないけど」
執事はセバスチャンと決めている。そもそも入力画面がなかったけども。
渋い表情をする私に気付かなかった顔をして、腰に響く渋い声が端末から静かに響く。
『さて、早速ですが本日の昼食をまだ摂取されていない様子。パンケーキにたっぷりの生クリームと蜂蜜など涎が滴るメニューではないですか?』
「おかしいな、アプリの調子悪いのかな。ちょっとアンインストールしてみるから画面空けて」
『カロリーなど気になさらず。女性は少しくらい横に広い方がチャーミングというものです』
「どけって」
『あ、申し遅れました』
微笑む顔も素晴らしい。顎鬚を撫でる人間臭い仕草に胸を高鳴らせる。顔面偏差値だけでなく仕草まで好みとは。こいつできる。
『わたくし、アプリを媒体に出現した電気機器の精霊とか何かふわっとしたそんな感じの者です。以後よろしくお願いいたします、マスター。では昼食の準備をどうぞ』
「ご飯よりまず、もっと自分の存在の定義をしっかり見直そうよ!」
意味も原理も全く分からんが、こうして私、広瀬佳苗とトーイたる謎に包まれてるけどあんまり解明したくない存在との生活が始まった。
幸運にも、彼──電気機器の精霊に性別が適用されるかどうかは追及しない──との生活は別段苦にはならなかった。辛うじてという注釈は付くものの。
『マスター、本日のお昼はバケツに山盛りのイチゴパフェなどいかがでしょう』
「それはお昼ごはんにならない。甘いもの好きなの?」
『糖衣なだけに』
「……」
『……』
『すみませんマスター、感情を知らないプログラムごときがユーモアを働かせようなど、おこがましいにも程がありますね……』
「ええい、滑ったからって絡み辛い方向に運ばないで貰おう!」
まず、実家を離れ、寂しい一人暮らしを送る私の良い話し相手となった。敬語を崩さない、どれだけ言ってもマスター呼称を止めない割に、こちらを敬うつもりはないらしい。いや、もしかしたらあれで精一杯敬っている態度なのかもしれないが、ともかく砕けた態度は堅苦しくなくて良い。
『本日は一日中すこぶる良い天気かと思いきや、突然の雷雨が襲い掛かるかもしれません。バリヤーの用意をお忘れなく』
「へー、買えるならぜひとも欲しいわ」
『あ、マスター、FXが売りどきですよ。よろしいですか?』
「よしきたあああ! 売って、すぐ売って!」
電気関係の何かであるだけあって、世界情勢からオタク関係まであらゆる情報を網羅しているのも、何と言うか、使える。
小金儲けが捗るようになったのは大きい。トーイの食事は電気であるから、彼が動いている間はやたらと電池を食う。というか停止をできないから常に充電がばかばか減る。大容量充電器複数台を常に持ち歩く女、広瀬佳苗。それであっても嬉しい利益が出ているので、クソ重い鞄には目を瞑ろう。筋トレと思えば苦ではない。念のため左右均等に付加を掛けるよう気を付けている。
ちなみに料理の画像をカメラで撮ると、おやつ扱いで美味しくいただけるらしい。カロリー的なものは発生しないとのこと。何その羨ましい機能。
『マスターほら、まもなく電車が参りますよ』
「わーってるわよ!」
『ほら! 早く! もっと太ももを上げて! スプリンターのように!はやきこと風の如し!』
「やかましーってのッ!」
アッ、強面スキンヘッドのお兄さん、あなたのことじゃないんです。
『マスター、ここで問題です』
「もう黙って音楽とかラジオとか流してよ。何?」
『見た目や性格に反して家事全般が得意なマスター。さて、お昼ご飯は何だったでしょう』
「おべんと……あああああッ! あ、いや、何でもないですごめんなさい、ちょっと忘れ物思い出して」
『玄関でお留守番しているのを確かにカメラが捉えていました』
「言ってよ、捉えたそのときに……!」
通勤中の暇な時間が潰れたかわりに、独り言の多い女になったのは痛い。色々な意味で。
いや、「独り言」を選んだのは私なのだ。トーイの声は周囲に届く。電話を公開してんじゃねえよという目を食らったので、考えた結果がイヤホンマイクだった。
私の声は小声でも電波良好に届くらしい。それこそ声にならない、ほんの小さな囁きでも聞こえるという。だから周囲に分からない程度の音量を心掛ければ済む話だが──ついついヒートアップしてしまうのである。心頭滅却だ。心頭滅却すればトーイに腹なぞ立たぬ。決意したのは出会って三日目だが、果たして三日坊主で諦めるのと、いつまで経っても一日も達成できないのとではどちらがマシなのだろう。
会社ではさすがにイヤホンを装着しておくことはできない。唯一の静かな時間。さすがの彼も会社の中で声を掛けるほどの暴挙はおかさないでくれる。
イケメンと名高い自社営業マンがにっこりと笑みを投げる。何を隠そう佳苗が好意を寄せる男性だ。当然笑顔を向けられて嬉しくないわけがない。同じく最高傑作の表情を返した、ところで。
『シャカイ……』
ふと声が聞こえた気がして首を巡らせる。
「広瀬さん、どうかしましたか?」
「あ、いえ、何も」
『……マド……』
気のせいかと思ったが、また聞こえた。聞き覚えのある声だった。
こいつ、直接脳内に。スカートのポケットに忍ばせたスマホを睨むと、身を震わせるようにわざとらしく振動した。
しかし何が言いたいのか。窓を横目で見るが、いつも通り絡まった電線が横切っているくらいである。
「広瀬さん?」
『シャカイノマド……』
視線を営業マンに戻して──噴出すのを堪えて咳きに変えたのは、我ながら偉業だったと思う。盛大にむせた私の背を撫でる大きな手が、発作的な笑いを益々増徴させる。
私を労わるのは良いから、まず、そのフルオープンした社会の窓に気付いて欲しい!
なお、何とか営業マンに営業に出ていただいた、まだ笑いの収まらぬ5分後の私が上司に怒られたのは言うまでもない。
「ちくしょう、何よあのテレパシー。凄いじゃない」
『電子の精霊っぽいものたるもの、空気を微振動させた感じのことで骨伝導だか何だかに似ているような似ていないような現象の一つや二つ』
「あの、原理が分からないなら魔法の一言で納得するから」
どうも本人も真剣に自分の正体とか分かっていないようなので、解明したくないとかじゃなくてできないようである。
頼りになることもある。大分ずれてはいるが。
「コンビニ寄って帰るけど、食べたいものある?」
『アイスが食べたいです。そこのコンビニ以外の』
「どうして」
『監視カメラにアクセスしたところ、コンビニ強盗らしき男が今まさにナイフを取り出そうと』
「ひゃくとうばん! 早急にッ!」
『110番は電話料金が掛からないらしいですよ、ご存知でした?』
「それは便利だねええええ!」
他人にはあまり興味がないらしい。とはいえ私の身は案じてくれているようなので、この辺は薄情なのではなく感覚の差だろう。電子の精霊だし。
この際なんでも良い。鬱陶しいことも多々ある上、真面目に憤りを覚えることもある。けれどもう情が移った。馬鹿な子ほど可愛い、というやつだ。
『マスター、お電話でした』
飄々とぬかした男が画面のど真ん中からちょっと横にずれると、かの営業マンの電話番号がでかでかと記されていた。好きな人の電話番号くらい鳥の頭でも覚えられる。番号の仲に2525って入ってるから分かりやすいのだ。
こういうときだ。腹立たしいのは。
「鳴ってるときに教えて。それかちゃんと鳴らせ」
『過去の通話記録から察するに、この男性、どうもマスターに懸想している可能性が微レ存。アドレスの削除はとうの昔に実行しました』
「微粒子レベルで存在しているくらい擦れ違った道行く人間でも在り得るわ! し、至急もとに戻せー!」
通りで名前で表示されないわけだ!
両手で握った端末の中で、老いた精霊がわざとらしく苦しそうな様子を見せた。苦しいのは外殻であっておまえじゃない。気分では渾身の力で首を絞めているが。
『復旧できないようメタメタに壊すのは得意です』
「あと見た目若老人が微レ存とかよく知ってるよね!」
『電子機器の精霊な感じの者ですので』
「勉強熱心で何よりです。サルベージの勉強もしよう。戻せ」
「はーい」
何だかんだで楽しい日々だった。
唐突な出会いから三ヶ月。当初はペット感覚であった彼が家族と言える存在になって、どうせこういうののセオリーとしていつか消えちゃうんでしょ、と考えたりもした。
『今のところそういう予定はありません』
予定でどうにかなるもんじゃなかろうと思ったが、あんまりきっぱりと否定したので、その言葉を信じることにした。疑ってもどうしようもないことだ。疑心暗鬼に存在を確認し続けても悪魔の証明に等しい。
人間だっていなくなるときはいなくなるものだ。とにかく大事なのは今。トーイと一緒にいる間を楽しもうと、ずっとこのままだらだらと毎日を過ごそうと、思っていた。
──波乱というか、転機というか。そういうものはある日、突然に外部から発生した。
考え直してみれば別に突然でもなかったかもしれない。
トーイを締め上げて復旧させようとした好いた男のデータだが、結局苦手は苦手のまま終わった。つまり直せなかった。
平に平にと謝って、電話番号以外の情報を再度教えて貰った。そのときに好意を伝えられお付き合いを始めた。一ヶ月ほど前のことだ。
営業のついでに食事に誘われたり、会う約束をしたりしてきた。まだ軽いキスを交わすくらいの関係で、穏やかに関係を深めていた。
と、私は思っていた。
「直接出向けば良い顔してくれるのに、ケータイに連絡すると全然出てくれないし、折り返してもくれないよな。メールの文面は素っ気ないしさ。デートの誘いにふざけた顔文字一つ返すとか、何、俺のこと馬鹿にしてる?」
ああ、それは間違いなく馬鹿にしている。
誓って私の所業ではなかった。むしろ連絡なんて知らないし、メールなんて来た記憶すらない。そのすれ違いの原因など分かりきっている。
「あ、あの、それは」
「もういいよ、最悪。別れよう。こんな人だとは思わなかった」
怒り心頭になるのも無理はない。憤慨で済んでいるだけ良い方だ。誰が聞いても私が悪い。付き合っている人からそんな態度を取られたら、私なら確実に出会いがしらのワンパンを鳩尾にぶち込む。
ありとあらゆる罵倒がポケットに忍ばせた電子機器の精霊に向けて直接脳内へと飛ばされる。折角頑張ってアプローチしてきた結果、見事彼氏彼女の関係になれたというのに、あのアホの妨害で棒に振るとはいかなることか。帰ったら即行アンインストールだ。いや、帰る前に。帰り道に。しかしどうせ画面を乗っ取って退かないだろうから、何ならスマホ丸ごと新規で買い換えて──。
「家庭的だっていうから結婚するには良いと思って妥協したってのに……」
精霊への罵倒と、彼への言い訳で埋められていた頭がガッチリと凍り付いた。
見開かれた目に侮蔑が浮かぶ。嘲りを前面に押し出した見たことのない表情で、吐き捨てるように彼は言う。
「顔もスタイルも、もっと良い相手なんかいくらでもいるんだよ。でも結婚するなら家のことやってくれる人だろ。折角見た目より能力で選んだのに、これじゃあな。丁度良い雰囲気の子いるし、やっぱ次は見た目も考慮することに選ぶことにするわ。」
「……それは」
言いたいことはもう大体察せられていた。ブス、と落とされた爆弾は、冷却弾だったようだった。
炎を撒き散らすことなく、頭頂から背骨を伝って足先まで冷やして消える。切られたばかりの傷口から流れる血すら固まった。思わぬ言葉に動揺していた頭も、心も、すうっと抜けた熱を追うこともなく沈静化した。
引き攣ることもない。震えるほどでもない。なるほど、失礼極まりないことをしたなあと思いながら、姿勢を正して頭を下げる。
「この度は、こちらの落ち度で不愉快な思いをさせてしまいまして、誠に申し訳ございませんでした」
「……は?」
鞄の中でスマホがうるさい。喋るのは自重しているのだろうか、ひたすら布を叩くバイブレーションの音が間抜けに響く。
「電話に出られなかったこと、折り返せなかったこと、メールの返信内容については他人が携帯電話を弄っていたためでした。私の管理不行き届きです」
「あ、ああ、そう」
たじろいだ様子の男が、引き攣った顔でこちらを見返している。恥辱を味わわせたいがための捨て台詞に、まさか冷静な謝罪が返ってくるとは思わなかったのだろう。気持ちはよく分かる。
「それから、容姿は悪いものの能力で選んでくださったとのこと、ありがとうございました、光栄です。ご存知だったとは思いますが……私、ずっとあなたのことが好きでした。営業に出る姿はかっこよくて、笑顔が素敵で、仕事もできて。凄い人だなあと憧れてました」
「……うん」
ばつが悪そうな顔をする。ざまあみろと虐げた相手が真面目に反省したり凹んだりすると気まずいよね。ましてこの期に及んで褒め殺されたりすると罪悪感覚えたりするよね、分かります。
とても反省している。自らの行いについて。彼にはとても失礼なことをした。トーイもだが、特に私が。
失礼なことをしたからには、それについては反省しなければいけない。
もう一度深々と頭を下げる。
「色々とごめんなさい、それから、ありがとうございました」
彼は何も言わずにきびすを返した。散々内情を暴露した手前、まるで悪者そのもののようになった場を整えることもできなかったのだろう。
トーイがとてもうるさかった。
『……申し訳ありませんでした、マスター』
座り込んだソファの反発が痛い。安物はやたら固いか柔らかいかと極端でいけない。すわりの悪い尻の位置を調整して、クッションを抱いて脱力した。
よろよろとした足取りで帰ってきた我が家は、やはり落ち着く場所だった。冷えていた色んな場所がゆっくりと解凍されていく心地。目の乾燥を防ぐはずの何でもないはずの瞬きに涙が滲んだ。
「メールや電話はちゃんと教えてって言ったよね」
『申し訳ありません……お付き合いしてすぐに会社の監視カメラに、マスター以外の女性と、発覚しても言い逃れできるギリギリの軽いボディタッチを交わしつつイチャコラする男が映っていたので、あんなクソとはさっさと破局しないかなと』
「あんたが自己判断するとろくなことがないわ……」
深い溜息を吐き出して目を閉じた。隙間からボロボロとこぼれる涙が止まる様子はないので、流れるままに放置する。会社帰りなのが幸いした。軽く化粧直しはしたが、化け物の類に変化するほど残っていない。
『……わたくしと消そうとしますか?』
「どうやっても消してやろうと思ってたけど、いいよ。浮気男なんて死んでもゴメン」
消そうとするかを聞くってことは、消える気はないってことだろうか。上目遣いがいやらしい。トーイが捨てられる子犬のような視線をマスターしたのは最近のことである。あざとい。好みのツラが哀愁を漂わせて向かってくるのを無碍にできる女がこの世界にいようか。いやない。
「多分、私だって中身を好きになったんじゃなかったんだろうし」
営業に出る姿はかっこよくて、笑顔が素敵で、仕事もできて。
言い換えれば、彼が私を選んだのが家事能力なら、私が好きになったのは多分、容姿と稼ぎだ。
勿論会話をしたことは何度もあるから、表面上の人となりは知っている。でも、とても親しかったわけじゃないから、私も彼も、いつも対外用の顔だっただろう。
それ以上深くを知ろうとしなかった。気付きもしなかった。穏やかなお付き合いをしていたんじゃない。踏み込もうとしなかった。踏み込むほど意欲が湧かなかっただけだ。それよりも楽しいことがあったから。
トーイと話をしている方が、彼と2人で出かけるより、ずっとずっと楽しかった。媚を多分に含んだ笑みを意図的に作る自分は疲れるし、心が休まることもない。
良い男の隣にいることが嬉しい。決してそれだけではなかったとは思いたいが、色々な思いを四捨五入するとそれに尽きるのかもしれない。
失礼なことをした。どちらも表皮から好意を持ったが、他所に気取られて関係を先へ進ませようとしなかったのは私の咎だ。
彼が浮気性だったことはむしろ救われたのだろう。お互い様か、もっと言えば被害者面をしていられる。
鼻紙の山がテーブルに積み上がる。そろそろクロカンブッシュみたいになってきた。甘いもの食べたい。舌が腐るほど甘いクリームを嘗め尽くしたい。
また一つ薄い紙製のシューが山に足された。鼻水を啜る様は我ながら色気がない。
『泣かないでくださいマスター。あんなクソがいなくとも、わたくしがおはようからおはようまで傍におります。電池が切れなければ』
「そうだね、人間だってご飯なかったら一緒にいられないもんね、死ぬし」
そういうところは注釈を付けなくて良いのだとその内教えよう。漫画とかでヒーロが「おまえは俺が守る! 現実的な範囲で!」とか付け足したら台無しだろうが。
ぐっと骨ばった大きな拳を握るトーイに、呆れ半分の笑いが浮かんだ。
この調子である。本気で反省しているのか、内心ではしてやったりとほくそ笑んでいるのかは知らないが、どちらにしても私は彼かトーイかと迫られたら、きっとトーイを選んでいる。
反省していないのであれば液晶を指紋で汚し尽くしてやろうとは思うが。
「あー、こんなとき涙拭ってくれるような彼氏が欲しいわー」
テーブルのゴミ山をゴミ箱に押し込んで立ち上がる。甘いものが食べたいので今日の夕飯は生クリームたっぷりのパンケーキだ。体重計への対策は、ヘリウムを吸ったら軽くなる気がするからそうする。
『彼氏ですか』
端末の中で若老人が顎を撫でている。また何かおかしなことを考えている態度だ。
半眼を向けて様子を見ていると、神妙そうな顔でこちらを向いた。神妙そうな顔をしているからと真面目な話が来るとは限らないので注意が必要である。
『マスターは確か、ジジ専の気があるとかないとか』
「言いたいことは山ほどあるけど、とりあえず、専門ではない」
そうですか、と頷いた男は本当に理解しているだろうか。いや、そう長くない付き合いだが分かる。これは話半分で適当に流そうとしている顔だ。おうコラ、直前まで私がお付き合いしていた彼を思い出せ。ツヤツヤフレッシュではないが枯れてはなかっただろうが。
『まあおよそジジ専とのことですから』
「違うっつってんでしょーが聞け」
『……約ジジ専』
「ここで本命広瀬選手の登場だぁ! ピッチャー振りかぶって第一球」
『ぱんぱかぱーん。スマホ投擲に全力をかけようとするほどガサツなマスターに素敵な彼氏ができる、人生最後のチャンス到来のお知らせです』
「投げたァ──ッ!」
『秘奥義、ストラップを引っ掛けて落下防止する魔法!』
「ぬうう、小癪な!」
魔力的なものの代わりに電池がごっそり減った。
ストラップを指に引っ掛けたまま振り回すこと数秒、気が治まったので先を促すと、厳かな面持ちでトーイが薄い唇を開いた。
『何を隠そうわたくしです』
「検索ワードが少しも私の希望に引っ掛かってないからやり直し」
涙を拭ってくれるような彼氏と言ったのだ。スマホに顔を押し付けたら液晶が汚くなって余計に涙がこぼれるだけだろう。
ちなみにここまで私は滂沱の涙を流しっぱなしの酷い有様である。やり取りの合間に水を啜っていなかったら干からびていたはずだ。珍妙ではあったが慰めは受け取っておこう。
台所へ向かおうとすると、机の上に放置した駄端末が激しく抗議のバイブレーションを開始した。まだ何か用か。
『嘆かわしい。わたくしがマスターの要望を忠実にこなせない駄目スマホとでも思っているのですか』
「うん、まあ」
逆に聞くけど、今まで私の要望を忠実にこなしたことが一度でもあったっけ。
引き返して端末をつまみ上げる。わざとらしく眉間を指で押さえるガタイの良い紳士を胡乱な目で見返すと、きりりとした視線を返された。
『実はわたくし、電子の精霊だけあって人型になれます』
「えっ、関連性は全く分かんないけど何ソレ凄い!」
あと電気機器の精霊を自称していた気がするけど、まあ場合によって電気の妖精とか雷の眷属とか設定がブレブレだったので、今更突っ込むべきところではない。
それより驚愕の事実である。初耳だ。欠片も聞いたことがない。
『マスターがどうしてもと仰るなら特技を披露しても良いんですがチラチラ』
「クッソうざいけど凄い気になるからどうしても見たい」
『なるほど、わたくしの伴侶になりたいとのマスターの熱い気持ち……確かにいただきました。それでは──』
そんなこと何一つ口にしてないがまあ良い。
私の期待の眼差しに少しばかり照れたような顔をして、トーイは静かに目を閉じた。途端、手の中のスマホが激しくスパークし始める。慌てて手放した端末だが、ソファに向けて放るだけの気遣いはギリギリで思い出せた。
軽い音を立てて着地したスマホが強い光を纏う。ゆっくりと浮遊する機体。色々とおかしな現象を目撃し続けてきたが、ここまでファンタジックな光景は未だない。
高鳴る胸が抑えられなかった。憎まれ口は叩いたが、トーイが人型になって……彼氏になって。先走った未来が脳裏を横切る。
様々な思いは一言に集約できた。すなわち、嬉しい。
目を焼く光が目蓋を赤く染めなくなった。恐る恐る開けた視界に、見慣れた鉄面皮が映り込む。
「トーイ……」
思わず息を呑んだ。液晶を挟んで対面していた存在が、指が触れる位置にある。
オールバックに流した短めの白髪、太い眉、理知的な瞳、通った鼻筋、薄い唇、頑強な顎。太い首が支える頭部は刻まれた数多の皺を含めて端整だ。そこから繋がる四肢は見本のような八頭身。ひょろ長いわけではなく、丸太のような手足と分厚い胸板、腹筋がバランス良く配備されている。外見年齢を感じさせないほど何もかもが力強い。燕尾服に包まれた逞しい骨格といったら、見ているだけで安心感を覚えるほどだった。
──そのサイズが、スマホ準拠のままでなければ。
「ちっちゃい!」
『スマホですので』
「精霊なんだから融通利かせようよ!大きくなろう、今すぐッ!」
『了解しました。ではまずスパコンをご用意ください』
両手両膝を付いたお馴染みのポーズで崩れ落ちた。
ふわりふわりと浮遊する小さなトーイが宣言通り爪楊枝のような指で濡れた頬を拭ったものの、質量が足りなさ過ぎて意味を成していない。心なしか鉄の無表情が不服そうに歪んだ気がする。
「あー、トーイ」
緊張した分力が抜けた。期待外れも良いトコだったけれど、これはこれで悪くない。
そもそも早くも新彼氏が欲しいと本気で思ったわけじゃない。戯言に返った神秘に乗っただけで、そこまでがっついたものでもない。
見上げる視線に込み上げてきた笑いを噛み殺した。おかしく歪んだ表情で、ようやく止まった水分を払う。
「改めて、今後ともよろしく、彼氏さん?」
『……こちらこそ、マスター』
何であれ、彼がいるならそれで良いだろう。
「ところで人型になると機能とか変わるの?」
『まず、電力消費がざっと5倍になります』
「戻れ」
ちなみにスマホはAndroid。