婚約破棄された元『完璧令嬢』は、青い空の下で恋を知る
突き抜けるような青い空。
どこまでも、どこまでも続いている。
白い雲はたなびき、風に流され、どこかへと消えていく。
「ねぇ、オリバー」
ダイアナは、後ろを歩く青年を振り返る。
いつまで経っても隣に並んでくれない。
お嬢さまとしか呼んでくれない。
もう、それが我慢できない。
「そろそろ結婚しましょう?」
* * *
ダイアナはアッシュウッド公爵家の娘だった。
金色の髪に青い瞳。
幼い頃からお人形のように美しいと言われた。
五歳の時には王太子との婚約が結ばれた。
最初はキラキラな王子様の婚約者になれて、ダイアナも嬉しかった。
王城に行き二人でお菓子を食べ笑いあった。
あの頃は本当に楽しかった。
だが、十歳の頃からただ楽しいだけではなくなる。
次期王太子妃としての教育が本格的に始まったのだ。
知識を詰め込むだけなら、まだなんとかなったかもしれない。
でも、王太子妃に求められるモノは、それだけではなかった。
声をあげてはいけない、笑ってはいけない、表情に出してはいけない。
なぜと思いながらも、ダイアナはひたすら努力した。
十四歳の頃には、完璧な令嬢。
そう呼ばれるまでになった。
だが、心は悲鳴を上げていた。
* * *
「お嬢さま」
オリバーは、アッシュウッド家の執事の息子だ。
彼がいつからお屋敷にいたかは知らない。
でも、彼はダイアナが追い詰められていくのを見ていたのだ。
「こちらのお菓子は如何ですか?」
「たまにはこのようなご本も良いのでは?」
「今、庶民の間ではこれが流行っているそうですよ」
オリバーは王城と学園とお屋敷だけを行き来するダイアナを気にかけてくれた。
どこで手に入れてくるのか、どこで話を聞いてくるのか、ダイアナを楽しませようとしてくれた。
でも、ダイアナはそれを素直に受け取ることはできなかった。
「これ以上食べると体型を維持できません」
「そんな物を読む時間はありません。時間は有限なのよ」
「わたくしは庶民ではありませんわ。王太子妃になるの」
――模範にならなければいけない
貴族令嬢として、その高みに立つ者として、ダイアナは徹底的に自身を律した。
優しい言葉を、冷たく振り払った。
* * *
脇目も振らず、王太子妃へと突き進むダイアナだったが、少しずつ歪みが生じ始める。
『殿下ったら、そのお話この間もお聞きしましたわ』
『まぁ、素晴らしいですわ。そのようなことをされていたのですね』
『私も殿下のために何かできることがあれば良いのですが……』
耳障りな少女の声。
学園でいつの間にか殿下の傍にいるようになった。
ダイアナが王太子妃教育で王城にいる間、その隙をつくかのように、その少女は殿下に近づいていた。
殿下はその少女に向けて、楽しそうに笑う。
心を許したかのように笑う。
――久しぶりに、見たわ
自分が笑わないように、殿下も笑わなくなっていた。
それが王太子として当然のことだと思っていた。
だが、殿下は笑った。
あの、少女の前で。
ダイアナの心は張り裂けそうだった。
理解ができなかった。
笑うなと言われたから、笑わなかったのに。
笑っている少女と笑うのは何故なのか。
さっぱり分からない。
苦しい。苦しい。
自分は何のために……
どうして……
ぐるぐると回る感情。
それでもダイアナは王太子の婚約者として、笑わずに、表情ひとつ変えず。
王城と学園と、そしてお屋敷を歩いていた。
「お嬢さま」
オリバーは何度も何度も、ダイアナに声を掛けてきた。
しつこいぐらいに声を掛けてきた。
鬱陶しかった。
「……用がないなら、話しかけないで」
「申し訳ありません」
そう謝るくせに、それでも懲りずに必ず声を掛けてきた。
「お嬢さま」
「うるさいと言ってるのが分からないのかしら?」
話を聞くのも嫌だったから、いつも“お嬢さま”としか言わせなかった。
それ以上の言葉を聞くことは、無かった。
* * *
破綻はあっという間だった。
「ダイアナ・アッシュウッド。君との婚約は破棄する」
学園の大講堂。卒業式。
この卒業と共に、本格的に王太子の婚約者として公式行事に参加することにもなっていた。
それなのに――
殿下は、大勢の貴族達がいる前で高らかに宣言したのだ。
国王陛下と王妃陛下はいらっしゃらなかった。
王弟殿下が参列されていて、一瞬椅子から立ち上がったが、すぐに表情を消して座り直した。
もう止めることのできない、宣言になったのだ。
五歳からの婚約。
十歳からの教育。
すべてが無になった。
* * *
風が通り抜ける。
どこまでも、どこまでも。
「お嬢さま」
王太子に婚約を破棄されたダイアナは、王都にいる場所などなかった。
父と母に進められるがままに、アッシュウッド公爵領に行くことになった。
でも、そこだってダイアナにとって心休まる場所ではなかった。
使用人たちの目が、領民の目が、気になって、気になって仕方がない。
皆が何を思っているのか勝手に考えてしまうのだ。
怖くて、怖くて。
そうして、ダイアナは部屋から出るのを嫌がった。
でも。
「お嬢さま、いい加減にしてください!!」
オリバーが扉を壊した。
淑女がいる部屋に断りもなく、押しかけたのだ。
「あ……貴方、信じられない!!」
「信じられないのはこちらです!!」
オリバーはつかつかとダイアナの元までくると、腕を掴んで部屋から出そうとする。
嫌だと全身で拒否をすれば、肩に担ぎ上げられた。
「ちょっと!!離しなさい!!」
「いいえ、離しません」
オリバーはダイアナを担いだまま、ずんずんと進んでいく。
屋敷の中を。そして。
日差しが体に当たる。
外に出ていた。
「イヤだって言ってるでしょう!!」
「こんな風に運ばれている人をお嬢様だなんて、誰も思いませんよ」
そう言われてもダイアナは怖くて顔を上げることは出来なかった。
* * *
「お嬢さま」
オリバーがゆっくりとダイアナを肩から降ろした。
とん、と足が地面に着く。
室内履きのままだ。
小高い丘の上。
小さい頃、公爵領に行くと必ずこの丘に行った。
最初はお父様に肩車をしてもらって、もう少し大きくなったらお母様と手を繋いで。
そして、もっと大きくなった時には、お兄様と坂道を駆け上がったりもした。
風が吹き抜ける。
眼下には公爵領が見える。
人々が住む家、畑、木々、川。
それから青い空。流れゆく雲。
「……座られますか?」
オリバーがジャケットを広げた。
ダイアナはそれに首を左右に振り、ドレスのまま草の上に座った。
「ふ…ふふ…ふふふ……」
あれもダメ。これもダメ。
王太子妃教育ではすべてがダメだった。
こんな格好で座るなんてありえないことだ。
でも。
もう関係ないのだ。
今、ようやくそれに気づいた。
声をあげても、笑っても、泣いても、許されるのだ。
ダイアナは笑った。
笑ったはずなのに、目が熱くて、鼻の奥がツンとする。
頬を伝って何かが零れていく。
それでもダイアナは笑った。
声をあげて、笑った。
* * *
ダイアナは自由に過ごした。
王都に戻る場所はなかったが、戻る気もなかった。
それからお父様たちがオリバーを戻そうとしたらしいが、それも許さなかった。
「お嬢さま、いい加減にしてください」
相変わらず、うるさい男だった。
あれはダメ、これはダメと言うのだ。
馬に乗ろうとすればダメ、鍬を持とうとすればダメ。
丘でキャンプをしようとしたらダメ。
なんでもダメ出しをするのだ。
そのくせ、結局、全てを許してくれた。
ダイアナでも乗れる馬を用意してくれて、乗り方から丁寧に教えてくれた。
鍬は重いからダメだというので、まずは重さになれるところからということで、毎日少しずつ鍛えて、一年後に何とか鍬を持たせてもらえた。
まともに扱えるようになったのは、その一か月後だったけれど。
あと、丘のキャンプ。
これはまだ許されていない。
でも、公爵邸の庭でのキャンプまでは許された。
最初はそれさえもダメだったのだ。
本当に口うるさい男だ。
「お嬢さま」
そして、ダイアナをお嬢さまとしか呼ばない。
ダイアナの名前を知らないのかもしれない。
だって他の使用人は『ダイアナ様』と呼んでくれる。
ダイアナが“お嬢さま”は嫌だと言ったら、みんなそう呼んでくれるのに、オリバーだけは頑なに『お嬢さま』と呼ぶ。
「ねぇ、オリバー」
「……なんですか?」
「わたくし、ダイアナっていうのよ?」
「存じておりますが」
知っていたわ。
「ダイアナ様って呼んでいいのよ?」
「……お嬢さまで充分ではないでしょうか?」
そうなのかしら?
でも、ダイアナは何故かそう思えなかった。
充分ではない。
まだ満ち足りない。全然足りない。
* * *
王都に連れて行かれた。
お父様とお母様と、それからお兄様にまで嘆願されたのだ。
仕方がない。面倒とはいえダイアナは公爵令嬢だ。
王太子妃教育で培った鉄面皮で、王家主催の夜会に参加した。
エスコートはお兄様。お義姉様には申し訳ないと思ったのだけれど、今回はどうしてもダイアナが顔を出さなくてはいけないから、体調不良ということにしてもらった。
きらびやかなシャンデリアも、楽団が奏でる音楽も、ダイアナの心を躍らせることはない。
夜道を照らすカンテラの灯りと、ジージーと聞こえる虫の声。
今のダイアナにとってはそちらの方が魅力的だ。
もう『完璧令嬢』などいないのだ。
王太子殿下は、あの時の少女と並んで歩いていた。
彼女は相変わらず笑っている。
朗らかに軽やかに。
――彼女こそが相応しい
あの教育を受けても彼女の芯は潰されることなく、なお咲き誇る。
ダイアナは王太子妃に最上級の礼をした。
「さて、この後はどうする?」
お兄様が周りを威嚇してくれている。
ダイアナはあちこちから視線を集めているのだ。
久しぶりに現れた公爵令嬢。
未だ婚約者なし。傷ものではあるが優良物件ということだ。
「もちろん、帰ります」
長居は無用だ。
誰とも踊りたいとは思わない。
……オリバーとは踊りたい。
ドレスを選ぶときにお母様から何色がいいかと訊かれた。
オリバーの瞳の色が浮かんだ。
深いルビーの色。ダイアナの金髪碧眼とは相性がイマイチだ。
仕方なく赤色のドレスは諦めた。そのかわりに指先を赤に染めた。
* * *
オリバーはダイアナより四つ年上。
それを知ったのは一緒に馬を駆けたとき。
丘の上まで馬を走らせることができるようになった。
足で走るよりも、さらに速く丘まで辿り着ける。
びゅんびゅんと頬を耳を掠めていく風が心地いい。
けれど、あまり速度を出しすぎると、オリバーは怒る。
怒っている時の瞳は色が濃くなる気がする。
ルビーの輝きが強い。
それをじっと見つめるのが、好きだ。
じっと見ているとオリバーは不満そうに眉間に皺を寄せる。
「お嬢さま」
相変わらずダイアナの名前を呼んでくれない。
だから、オリバーにだけ『お嬢さま』と呼ばせることにした。
いつ気づくのだろうか?
一生気づかないのだろうか?
ダイアナはじりじりとした気持ちを抱える。
四つ上。四つも上。
お兄様と同じ歳。
……結婚しててもおかしくない。
恋人がいないのもおかしい。
でもいたら困る。嫌だ。
ダイアナは今まで以上にオリバーに付きまとう。
仕事の邪魔にならないように気をつかってはいるつもりだが、そうではないらしい。
「お嬢さま、いい加減にしてください」
何度も言われるようになってしまった。
* * *
困らせたいわけではない。
ただ、他に方法を知らない。
どうしたら近づけるのか。
どうしたら変われるのか。
今日もオリバーはダイアナの後ろを歩く。
隣を歩いてくれない。
でも、ダイアナは隣を歩きたい。
同じ歩幅でなくてもいい。
ダイアナが小走りになったとしても、それでもいい。
もういくらでも走れるのだ。
馬にだって乗れるのだ。
どこにでもついて行く。
「ねぇ、オリバー」
風が気持ちいい。
どこまでも心地がいい。
「そろそろ、結婚しましょう?」
頷いてほしい。
でも、なによりも。
そろそろ、ダイアナをちゃんと見てほしい。
お嬢さまとしてではなくて。
ちゃんと。
ひとりの女性として。
ねぇ、オリバー。
わたくしはもう決めたのよ。
一生、勝手に傍にいるって。




