プロローグ
燃えていた。国が燃えていた。
夜空を焦がす炎が街を覆い尽くし、崩れ落ちた建物から火の粉が絶え間なく舞い上がる。砕けた石壁の隙間からは真っ赤な炎が噴き出し、かつて人々が暮らしていた家々を容赦なく呑み込んでいた。熱によって歪んだ空気は陽炎のように揺らめき、遠くの景色を溶かしながら黒煙の中へ沈めていく。黒煙は空を覆い隠し、月明かりさえも届かない。見上げれば夜空があるはずなのに、そこにはただ燃え続ける世界の残滓だけが広がっていた。
静かだった。不気味なほど静かだった。
大勢の人間が暮らしていたはずの街に、今はもう悲鳴一つ残っていない。怒号もない。助けを求める声もない。泣き叫ぶ子供の声もなければ、剣戟の音すら聞こえない。つい数時間前まで人々の営みが確かに存在していたはずの場所が、今では墓場よりも静まり返っていた。
ただ炎だけが生きていた。
木材が爆ぜる音。
石が熱で砕ける音。
燃え尽きた何かが崩れ落ちる音。
それだけが、この世界にまだ命が残っていると証明するように鳴り続けていた。
崩れた城壁の上に、一人の青年が立っている。
黒い傘を肩に担いだ青年だった。
風が吹く。
熱を帯びた風が灰を巻き上げる。
灰は雪のようだった。
ただし冷たくはない。
燃え尽きた誰かの痕跡を含んだ灰は頬に触れるたび微かな熱を残し、まるで世界そのものが焼け爛れていることを教えてくる。
青年は燃え盛る街を見下ろしていた。
その横顔には疲労があった。
何日も眠っていない人間の疲労ではない。
何年も休んでいない人間の疲労でもない。
もっと深い場所に沈殿した疲労だった。
身体ではなく魂が摩耗し続けた先にだけ残るような疲労。
どれだけ眠っても消えない。
どれだけ休んでも消えない。
そんな種類の疲労だった。
絶望があった。
燃え落ちる街を見ても驚かないほどの絶望。
何かを失ったからではない。
失うことに慣れてしまった人間だけが持つ絶望だった。
諦めがあった。
手を伸ばせば届いたはずのもの。
届かなかったもの。
救えなかったもの。
守れなかったもの。
それら全てを抱えたまま歩き続けた人間だけが持つ諦めだった。
そして、それらを遥かに上回る何かがあった。
それが何なのかは分からない。
怒りなのか。
執念なのか。
狂気なのか。
あるいは、その全てなのか。
ただ一つだけ確かなことは、その感情だけが青年を立たせ続けているということだった。
「……何回目だったかな」
小さく呟く。
誰に向けた言葉でもない。
独り言だった。
答えを求めているわけでもない。
ただ、ふと思い出そうとしただけだった。
何回目だったか。
何を数えていたのかすら曖昧だった。
脳裏に浮かびかけた記憶は灰のように崩れ、指の隙間から零れ落ちる砂のように形を失っていく。掴もうとすればするほど遠ざかり、あと少しで思い出せそうな感覚だけを残して消えていく。
だが結局、思い出せなかった。
青年は小さく笑う。
自嘲するような笑みだった。
笑っているはずなのに、そこには楽しさも面白さもない。ただ自分自身に呆れ返った人間だけが浮かべる空虚な笑みだった。
風が吹く。
灰が舞う。
その時だった。
背後から足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
コツ。
ゆっくりと近付いてくる。
硬い靴底が石を叩く音だけが、妙に鮮明に耳へ届く。
青年は振り返らない。
足音の主も何も言わない。
しばらくして、その人物は青年の隣へ並んだ。
銀色の髪。
眠たげな瞳。
それ以外はよく見えない。
炎の明かりが揺れる度に輪郭がぼやけ、黒煙の向こうへ溶けていく。その姿は実在しているはずなのに、どこか現実感がなかった。
二人は並んで燃える王都を見下ろしていた。
長い沈黙が続く。
炎が燃える。
風が吹く。
灰が舞う。
その全てを見下ろしながら、二人は何も言わない。
やがて。
「そうか……」
男が呟いた。
それだけだった。
青年は何も答えない。
風だけが吹いている。
灰が舞う。
炎が揺れる。
世界そのものが終わろうとしているような光景だった。
青年はゆっくりと傘を握る。
その瞬間。
何かが軋んだ。
空気が。
空間が。
世界が。
目に見えない何かが悲鳴を上げる。
視界が揺れる。
炎が歪む。
城壁が崩れる。
夜空が砕ける。
まるで現実そのものがガラス細工だったかのように、世界の輪郭がひび割れ始める。遠くの景色が引き延ばされ、空と大地の境界線が溶け、全てが少しずつ遠ざかっていく。
意識が沈む。
深く。
深く。
どこまでも。
海の底へ引きずり込まれるように。
暗闇の底へ落ちていくように。
身体の感覚が消えていく。
指先の感覚が消える。
呼吸の感覚が消える。
自分という輪郭そのものが溶けていく。
音が遠ざかる。
光が消える。
思考さえも沈んでいく。
最後に見えたのは。
こちらを見つめる男の瞳だった。
そして。
全てが闇に溶けた。




