第007話 北門の毛布
北門守備隊から礼状が届いたのは、その翌日のことだった。
粗い羊皮紙に、力強い文字が並んでいる。隊長グレンの署名の横には、兵士たちの名前が小さく書き足されていた。双子の兄弟は字が下手で、片方の名前が斜めに跳ねている。
「冬倉庫、無事開錠。薬湯、毛布、乾燥肉を確認。夜番三名の凍傷を回避。修復者リネア殿に感謝する」
わたしはその一文を何度も読んだ。
殿下から感謝されたときより、ずっと胸が温かかった。
「行ってみるか」
ノア様が言った。
「北門へですか?」
「現地確認も仕事のうちだ。修復した名簿が正しく通っているか、目で見る方がいい」
「でも、王宮案件が」
「王宮は後回しでよい」
あまりにも当然のように言うので、マルタが笑った。
「院長代理、王宮に聞かれたらまた怒られますよ」
「怒るのは無料だ」
「院長代理まで」
わたしは堪えきれずに笑ってしまった。
北門は王都の外れにある。商隊が通る南門と違い、北門の先には山道と古い砦が続く。春でも風は冷たく、石壁には苔がついていた。
門へ近づくと、兵士たちが一斉にこちらを見た。
その視線に身構えたが、警戒ではなかった。
「名簿院だ!」
「修復者殿か?」
「おい、隊長呼べ!」
ざわめきの中から、がっしりした体格の男が出てきた。グレン隊長だ。以前、わたしが王太子妃候補として北門を視察したとき、彼は儀礼的な挨拶しかしなかった。
今日は違った。
彼はわたしの前で、深く頭を下げた。
「修復者リネア殿。助かりました」
「頭を上げてください。仕事ですから」
「仕事でも、礼は言わせてください。あの夜、倉庫が開かなければ若いのが二人倒れていた」
グレン隊長は門の内側へ案内してくれた。
倉庫には、わたしが修復した名簿が掛けられていた。空白だった部分には、リネアの署名が細く結ばれている。兵士が木札をかざすと、扉の祝福紋が温かく光った。
「問題なく通っています」
わたしは糸の張りを確認した。
グレン隊長は、少し言いにくそうに口を開いた。
「実は、この名簿は以前から使いやすかったんです。夜番の体調や家族事情まで細かく書いてある。誰が作ったか分からなくなったが、うちでは“気の利く姫様名簿”と呼んでいました」
わたしは針箱を落としそうになった。
「姫様名簿」
「失礼な呼び方なら謝ります。王宮の方の名だったはずなんですが、今は読めない」
昔のわたしなら、きっと苦笑して終わらせた。王太子妃候補として当然の務めです、と言っただろう。
今は、胸が少し痛んだ。
読めない名前。でも、仕事だけは残っている。
「その名簿を作った方は、たぶん喜んでいると思います」
わたしは言った。
「使ってもらえて」
グレン隊長は頷いた。
「うちの兵は名もない駒ではない。あの名簿は、そう言ってくれているようだった」
その言葉に、目の奥が熱くなった。
わたしの十年は、すべて無駄だったわけではない。
ユリウス殿下が見なかった仕事を、誰かは見ていた。名前を忘れても、受け取った温もりを覚えている人がいる。
若い兵士が、毛布を抱えて駆け寄ってきた。
「これ、修復者殿へ。隊の余り物で悪いんですが」
「いただけません。備品でしょう」
「違います。俺らで買ったんです。北門の毛布は丈夫ですよ」
差し出された毛布は、厚手で少し重かった。端には、兵士たちの名前が不器用に縫われている。
わたしは受け取るべきか迷った。
ノア様が横で言う。
「礼品の受領は、職務規定上、少額であれば可能だ。記録すればいい」
「では、記録します」
マルタが帳簿を開いた。
「北門守備隊一同より、毛布一枚。使用目的、名簿院宿直室の防寒」
「宿直室に置くのですか?」
わたしが聞くと、ノア様は平然と答えた。
「君が使えばいい。宿直室で」
「それは、わたしが宿直する前提では」
「住み込み職員の部屋は少し寒い」
その言い方があまりに自然で、わたしは笑ってしまった。
北門を出る前に、グレン隊長がわたしを呼び止めた。
「修復者殿。王宮が誰を妃にするかは、兵士には関係ないと思っていました。でも、名簿を雑に扱う人間が上に立つと、下の人間が凍えるんですね」
わたしは答えられなかった。
グレン隊長は北の空を見上げた。
「うちは、名を見てくれる人を支持します」
その言葉は、政治的な宣言ではなかった。けれど、重かった。
王太子は王宮の祝福灯を失い、わたしは北門の毛布をもらった。
どちらが本当に温かいかは、比べるまでもなかった。
帰りの馬車で、わたしは毛布を膝に置いた。
少しだけ、眠くなった。
ノア様は窓の外を見ながら言った。
「リネア」
「はい」
「君の仕事は、もう君の味方を作り始めている」
「味方、ですか」
「名を守られた者は、その名で君を呼ぶ」
わたしは毛布の端を握った。
トマ。北門の兵士たち。名簿院の人たち。
わたしをリネアと呼ぶ人が、少しずつ増えている。
それは、ベルレイン家の家系図に書かれるより、ずっと確かな居場所のように思えた。




