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婚約者だけでなく名前まで妹に譲れと言われたので、家系図から私を消しました ~私を忘れた王宮は、私が結んだ祝福まで失う~  作者: 小竹X


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第048話 ノアの署名欄

 辺境の火災救済から戻った翌日、ノア様はわたしを名簿院の中庭へ呼んだ。


 セラフィーナの席の近く、楡の木の下。


 春の風が柔らかく、白い小花が地面に落ちていた。


 ノア様はいつもより緊張していた。


 彼が緊張するのは珍しい。書類の不備や王宮の圧力にも動じない人が、今日は視線を少し逸らしている。


「リネア」


「はい」


「話がある」


 その言い方で、わたしの心臓も速くなった。


「はい」


 彼は一枚の書類を出した。


 婚約契約書ではなかった。


 題名は、将来協議申込書。


「これは」


「婚約契約書をいきなり出すのは、君の過去を考えると不適切だと思った」


 真面目すぎる。


 でも、その真面目さが彼らしい。


「内容を読んでも?」


「もちろん」


 書類には、ノア様の言葉で条件が書かれていた。


 リネア本人の意思を最優先すること。婚約、結婚、同居、家名、職務継続について、すべて個別に協議すること。リネアが名簿院職員として働き続ける権利を尊重すること。アステル家への入籍があっても、リネアの使用名を変更しないこと。旧名エレノアの扱いは本人が決めること。返答期限を設けないこと。


 最後の一文に、胸が詰まった。


「私は、あなたの名前の隣に自分の名前を書きたい。ただし、あなたが望む形で」


 わたしは書類を持つ手を震わせた。


「ノア様」


「急がなくていい」


「言うと思いました」


「言わずにはいられない」


 彼の耳が赤い。


 わたしは少し笑って、それから泣きそうになった。


 あの朝、父と王太子は署名を求めた。


 読ませるためではなく、従わせるために。


 今、ノア様は書類を出している。


 けれど、その書類はわたしを縛るためではなく、わたしが断れるように、考えられるように、条件を分けられるように作られていた。


 同じ署名欄でも、こんなに違う。


「返答期限はないのですね」


「ない」


「でも、今答えてもいいですか」


 ノア様の目が揺れた。


「もちろん」


 わたしは深く息を吸った。


「わたしも、ノア様の名前の隣に、自分の名前を書きたいです」


 彼の表情が変わった。


 安堵と喜びと、少しの信じられなさ。


「ただし、条件があります」


「何でも聞く」


「仕事は続けます」


「当然だ」


「リネアの名を使い続けます」


「当然だ」


「エレノアの名は、わたしの内側と条項に置きます。アステル家に入るとしても、誰かに旧名として飾られたくありません」


「守る」


「それから、婚約契約書は一緒に作りたいです。名簿院の教材にできるくらい、本人同意の見本として」


 ノア様は一瞬黙った。


 それから、初めて声を出して笑った。


「君らしい」


「笑うところですか」


「いや、嬉しい」


 彼は書類をわたしへ差し出した。


「では、将来協議の開始に署名してくれるか」


「はい」


 わたしは署名欄にリネアと書いた。


 ノア様が隣に、ノア・アステルと書く。


 二つの名前が並んだ。


 婚約でも結婚でもない、将来を話し合うための最初の署名。


 それが、今のわたしたちにはちょうどよかった。


 楡の木の下で、セラフィーナの名札が淡く光った。


 ノア様がそちらを見る。


「セラが笑っている気がする」


「どんなふうに?」


「兄様、ようやく書類をまともに使ったね、と」


 わたしは笑ってしまった。


 その日の夕方、マルタに報告すると、彼女は書類を見て目を輝かせた。


「これは名簿院教材になりますね!」


「そこですか」


「もちろんお祝いもします。でも、教材価値が高いです。相手の意思を尊重する将来協議申込書。新人研修に最適です」


 ノア様は少し複雑そうだったが、拒否しなかった。


 リリアに話すと、彼女は泣いて喜んだ。


「おめでとう、リネア」


「まだ婚約ではありません」


「でも、大切な署名でしょう」


「はい」


「なら、おめでとうでいいのです」


 ユリウス殿下は、リリアから聞いたらしい。


 後日、短い手紙が届いた。


「あなたの意思で選ばれた署名であることを、心から祝福します。ユリウス」


 それを読んで、わたしは静かに手紙を保管した。


 過去は消えない。


 でも、未来の署名は自分で選べる。


 ノア様の名前の隣に自分の名前を書く。


 そのことが、こんなにも温かいとは知らなかった。

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